第3話 李花の下

 魏内官と別れた後も、香菱は鈴玉を捜してきょろきょろしながら歩いていたが、ふと立ち止まって頭上を仰ぎ見る。

 すももの花は今が満開となっていた。


 ――ああ、こんなに花盛りになっていたのね。


 去年の李の咲く頃は、すでに自分は後宮に上がって見習いとなっていた。だから後宮の桜も覚えているはずなのに、その記憶がない。

 香菱は李花りかをぼんやりと眺めていた。


 ――でも、花どころじゃなかったものねえ、あの時は。まだ見習いだったから、毎日とにかく忙しくて……。今も忙しいけど、李に気が付くくらいの余裕はあるのかしらね。

 春を喜ぶように咲く花々は、彼女に追憶を運んできた。



*******



 香菱は、もとは裕福な茶商の出で、三姉妹の長女として生まれた。小さい時に母親を亡くしたものの、息子のいない父親に跡取り娘として育てられ、将来は婿をとって家業を守っていくものと、自分も含め家の誰もが思っていた。


 だが、父の迎えた後妻が男児を産んだことから、後継ぎとしての彼女の立場はなくなってしまった。

 継母は決して悪い人ではなかったが、次第に父や継母とぎこちない関係になっていき、香菱は家を出る手段として、父親の反対を押し切って後宮に入った。


――後宮で女官になるって? お前には不自由させたことなどないはずなのに、何が不満で後宮暮らしなど……。商売の跡を継げないのがそんなに嫌なのか。香菱、お前にはしかるべきところからの縁談だって、よりどり見取りで来ているんだ。上手くすれば、うち以上の富商の奥方に納まることもできるし、お前の才覚で嫁ぎ先の商売をもっと大きくすることも……。

――お父さん。不満云々の話じゃないの。そりゃ読み書きや商売のことは多少わかるけど、そもそも私は商家の「奥方」業には向いてないし、それよりお父さんのいう自分の「才覚」を信じて、後宮で働いてみたいの。ねえ、許して。お父さんには跡取り息子も妹たちもいるわけだし、私一人がいなくなっても大丈夫よ。


 ここで香菱は抜け目なく、父親のそろばん勘定の経穴つぼを押さえるような、説得の切り札を出してみた。

――考えてみてよ。私がもし宮中で出世できれば、我が家に宮中の「献上茶」の銘をいただけるかもしれないでしょ? これは、お父さんの得にもなることよ。


 我ながら出まかせを言ったものだと思うが、父親は「献上茶」の栄誉に目が眩み、香菱をあっさり手放した。


 そうして無事に入宮を果たし、女官見習いたちの初めての顔合わせで、香菱がまず目を惹かれたのが鄭鈴玉だった。

 長い睫毛に縁どられた大きな瞳、珊瑚さんご色の唇、すっきりした顔の輪郭、漆黒の黒髪――彼女はその美しさで目立っていた。


 脇にいた誰かが「あの子、貴族の出ですって」とささやいてくれたときも、香菱は「そう」と上の空で頷くだけで、鈴玉を見つめるばかりだった。


――あんなに綺麗でしかもお貴族さまなのに、側室ではなく女官になるの?


 香菱は自分が十人並みの器量であると思っていたので、「あの子」の美貌がただまぶしかった。

 

 だがその時の香菱は、鈴玉の黒目がちの瞳に宿るほのおと、負けん気の強さ、そして騒動を引き寄せるある種の「運の強さ」を見抜けなかった。


 見習い期間中の「ある事件」がきっかけで鈴玉は目上に反抗的になり、後宮には悪評が立ったが、王妃の林氏は自ら鈴玉を指名して鴛鴦殿の召し抱えとした。

 しかし、林氏に香菱とともに仕えることになった後も、当初の「家門再興」の志はどこへやら、鈴玉は「選りすぐり」が集う鴛鴦殿の宦官や女官たちにあるまじき失敗や怠業をちょいちょい働いて、同輩の香菱を苛々もさせ、また心配もさせたのである。

――黙っていればお月さまにいる嫦娥じょうがさまもかくやと思うほどなのに、あの子はやることなすこと全部がさつなうえ、口を開けば……。


 そもそも香菱は生真面目な優等生であり、すべてが予定通りきちんと運ばなければ気が済まない性分なのだが、鄭鈴玉は彼女と真逆で、「例外」「予定外」「異例」といったことばかりを引き起こす。


――本当に、ついていないったら。私は努力してせっかく鴛鴦殿づきの女官となれたのに、一生、あの「歩く晴天の霹靂へきれき」のお守りをしなきゃならないのかしら?


 当時の香菱はよくため息をついていたし、怒ってもいたし、本人とよく喧嘩もした。

――でも。

 問題児の鈴玉を見放すことは、なぜか自分にはできなかった。


 衣裳係の仕事を上手くやろうと、眉根を寄せながら文献をひっくり返して調べる彼女。うまく衣裳の着合わせができて、輝かんばかりの笑顔になった彼女。

 王妃を飾る生花を自分で育てるため、畑仕事を教えてもらおうと、取りつく島もない趙令運ちょうれいうん――師父に必死に頼み込んでいた彼女。

 香菱にからかわれたり突っ込まれたりすると、すぐに河豚ふぐのようにふくれっ面になる彼女。


――あれって、どうなのよ。考えてることが全部顔に出ちゃってるじゃないの。あんな調子だったら、この後宮ではあっという間に死んじゃうか、追放よ。


 喜怒哀楽の表情が豊かすぎるほど豊かな鈴玉を、うまく表情を制御できる香菱は腹立たしくも危なっかしく思っていたが、さりとて彼女が自分のようにはならないだろうし、もしなったとしても、それはそれで「何か違う」だろうこともわかっていた。


 何より、正直に言って、鈴玉の率直さが羨ましかった。日々喧嘩しながらも、気が付けば自分は後宮の誰よりも鈴玉と親しくなっていた。


 ただ自分は、権勢こそないが優しく賢い林氏に仕え、鈴玉のお守りをしつつ、このまま日々が過ぎていくものと思っていたが、事実はそうではなかった。

 やはり、ここは後宮――魑魅魍魎ちみもうりょうの巣窟だったのだ。


 鈴玉が衣裳の才能を発揮したことが、はからずも後宮の王妃や側室たちの微妙な力の均衡を破り、彼女が政変の真ん中に投げ出される羽目になるとは。

 

 「艶本騒動」のあと、鈴玉が永巷に送られた日から香菱は指を折って数えながら待ち、ついに戻ってきたあの寒い日――鴛鴦殿の外で震えていた白衣の少女を見て、腕を広げて駆け寄り、抱き合ったそのぬくもり。


 後で「あんな香菱は見たことなかった」と謝朗朗が言ったほど、司刑寺から女官部屋に担ぎ込まれた鈴玉を前に、しばらく呆然と立つばかりで何もできなかった自分。


 そして政変のさなか、池の冷たい水に浮かんだ自分たちの同輩--。


*****


 香菱はいろいろ思い出しすぎてたまらなくなり、それらを振り払うかのように足早に歩き出す。


 やがて、後宮の真ん中に広がる太清池へとやってきた。以前から、鈴玉は何かあるとここに来て、池のほとりに座っていた。だから今日も――。


 すでに陽も沈みかけており、風も出てきた。池のほとりにも植わっている李花が、吹雪くかのようにざあっと枝を揺らし、幾枚かの花びらを水面みなもに散らす。

 香菱の耳に、歌がかすかに聞こえてきた。古人の詩に節をつけて歌うその声は、聞きなれたものだ。


  うぐいすの声に誘引せられて 花のもとに来たり

  草の色に勾留こうりゅうせられて 水のほとりり(注1)


  <うぐいすのすばらしい鳴き声にさそわれて、花の下にやってき、

  草の色の美しさに引きとめられて、水のほとりに腰をおろしている>


「――鈴玉、いるんでしょう?」

 香菱が声をかけると、歌が途切れ、うずくまっていた人影がすっと立った。

――えっ。

 確かに人影は捜していた女官のものだったが、香菱は息をのんだ。




▽▽▽▽▽


(注1)唐・白居易「春江」の一節

 鶯声誘引来花下 草色勾留坐水辺

 読み下し及び和訳は『漢詩名句辞典』(大修館書店、1980年)に拠る

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