レッド・カードのそのあとに
つるよしの
「たすけて」が言えなかった私、もしくはあなたの為に
何時の時代だったか、もう知らないくらいの昔からの話。
人類は増加の一途を辿り地球の地表を埋め尽くしつつも、それなりにご機嫌に暮らしていた。
だが、ご機嫌なまま、死ぬまで生きていられないのが、哀しいかな人間の性、または業である。
あるものは精神を病み、あるものは身体を病む。
そうして、なんやかんやで、自然死を待てず死を迎えたいと望む人間は、何時の時代も一定数いるものだ。彼ら彼女らの多くは、生と死の狭間でもがき苦しむ。そこから浮上できる人間もいれば、自死を叶えたいという欲望を抱えたまま、沼の底に沈んでいく者も居る。どの世の常でもそうであるように。
……さて、俺たちが生きている時代が、ちょっとそれ以前と異なるのは、その後者……つまり自死を望む者どもに対して、政府に決められた方法によってのみだが、国が死ぬ権利を与えたことだ。
この法整備をはじめるときは賛否両論あったという。だが、その施策によって、いわゆる人身事故や無理心中が激減したものだから、健康な精神と肉体を有した人類をほどほどの数で繁栄させる手っ取り早い手段として、今や、強く民衆に支持されるに至っている。
その方法は簡単だ。出生届と引き換えに全市民に渡されている「自死権利施行カード」いわゆる「レッド・カード」に、生きることに疲れてしまったら、“
すると、だいたい中3日……その整理も片が付く頃に……これまた郵送で「レッド・カード受理のお知らせ」と1枚のチケットが同封された封筒が届く。そうしたら、そのチケットに書かれた日時に、宇宙港に行けば良い。
そして、カウンターでチケットを見せれば、喪服に身を包みつつ、にこやかに微笑んだ
「今日は、お客さま、運が良いフライトですよ。カプセル内は2名様のみです。死ぬのにはちょうど良い人数ですよ。多すぎれば未練がましいお客さまが結構な確率で現われてカプセル内は混乱に陥りますし、かといってたった独りでは、孤独が身に沁みるものです」
仄暗い通路をかつん、かつん、と150メートルほど歩かされて、俺が案内されたのは直径5メートルほどの卵形のカプセルだった。
そのまえには、同乗者らしき妙齢の女性が立っている。彼女は、俺を見ると、ぺこりとおじぎをした。身に着けているオレンジ色のロングドレスが場違いながらよく似合う女性で、俺は、思わず挨拶もそこそこにこう言葉を放った。
「華やかなドレスですね。とても素敵です」
「ありがとうございます、最期くらい、綺麗な格好で死んでいきたくて。そういうあなたは、とてもラフね」
そう言われて、俺はいつものしわくちゃのワイシャツにチノパン、といった普段着姿の自分を少し恥ずかしく思った。
「もうちょっと、洒落た服着てくりゃ良かったかな」
「いいんじゃないですか。普段着のままの自分で死んでいく、ってのもなかなか素敵なことだと思う」
女性は黄色い欠けた歯を見せながら、ふふふ、となかなかに愛らしい笑みを顔に浮かべる。
やがて、
トラブルらしいトラブルは、女性のドレスのフリルが、ドアに挟まって少し難儀したくらいで、あとは何の問題もなく、俺たちはカプセルの座席に向かい合わせになり座った。
「それでは、これからラスト・フライトに移ります。このカプセルは、扉を閉めると同時に、地球の上空の衛星軌道上まで上昇します。そして、数分ほどの遊覧飛行ののち、大気圏に再突入します。それで何もかもが終わります」
「では、良い来世を」
……気が付けば、いつしか、機体の上昇は止まり、ほどなく軌道上で、僅かな時間のみの遊覧飛行が始まった。
カプセル内にはモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が軽やかに流れ、狭い窓からは、夜を迎えた地球の地表に灯が点っているのが見える。俺たちは音楽に身を揺られながら、その無数の灯を目を細め、眺めた。
「綺麗……」
「ああ、綺麗だな」
「私たち、あの灯の何処かに、今まで生きていたのね」
「だけど、あのなかにはもう、戻れないんだな」
「……ねえ、私たち、もっと早く逢えてたら、よかったんじゃないかしら」
「かもな。でも、もう遅いんだな……」
「ええ。でも今私思ったの、もっと早く出逢っていて、お互いのレッド・カードをお互いに送っていれば……」
「助け合って、生き延びられたかも知れないって?」
「そう。“
そのとき、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第1楽章が鳴り終った。
同時に、がくん、と機体が傾いた。ふたたびゆっくりと機体が回転し、俺たちの姿勢は前のめりになる。カプセルを覆っていた金属の外壁が、太陽のひかりを反射しながら、きらきらと一足早く地表に落ちていくのが窓から僅かに見える。カプセルは遊覧飛行の刻を終え、大気圏再突入の準備を整えたのだ。
やがて、カプセルが地表に向かって急降下をはじめた。機体の表面に火が付いたのだろう、カプセル内の気温が急激に上がる。熱い。髪が、顔が、そして俺と女性の肉体が焦げる匂いがする。
苦しい。
熱風に喉が塞がれ、息ができなくなる。
それでも、最後に俺の聴覚は、ちいさく掠れた女性の声を捕えたような気がする。
「わ、たし、だれか、に……いえ、あなたに、たすけて、ほしかっ、た……」
「お……おれ、も、き、みに……」
そう答えた俺の声は、果たして女性の耳に届いたのであろうか。
だが、そんなことを反芻する間もなく、大気との摩擦熱による灼熱地獄が、カプセルごと俺たちの身を焼き尽くし、地上に達する間もなく、すべてを塵と化した。
「おっ、流れ星ー!」
「あ、綺麗。あれが死んでいく人間の最期のひかりなんてね、ふしぎ」
「この世を生き抜けなかった、弱い人間の最期にしては上出来なんじゃないか?」
「あはは、そうかもねー」
俺たちが火の玉になって燃え尽きた様を、何処かの大陸の何処かの丘の上で、ふたりの男女が見ている。
天に昇りゆく俺は思う。
……君たちが、レッド・カードを必要とするときが来たら、それは役所になどでなく、目の前に居るその人に送るべきなのだと。
“
……だが、それができたら、人間に苦悩はないし、そもそもレッド・カードなど生まれる必要もないのだが。
レッド・カードのそのあとに つるよしの @tsuru_yoshino
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