「わかる」を疑う

現代は「わかる」の時代だと思う。
人々は会話中ことあるごとに「わかるー」「それな」と口にし、Twitterでは人々の共感を集めてバズることが良しとされ、お笑い芸人はあるあるネタを披露して笑いを取る。
けれども、私たちは本当に「わかって」いるだろうか?
「わかる」と言いたいがための「わかる」を消費して、日々過ごしてはいないだろうか。

ADHD当事者で社会人としての生活を送るのに薬を必要とする主人公は、小説を書くのを趣味としている。
文学賞に応募した経験があるものの、結果は一次選考を通過したに留まったようで、代わりに受賞したのは「わかりやすい孤独と困窮」を描いた「ありきたり」な小説だという。
そのことに強く憤る彼が、己の「領域」とせめぎ合う描写には鬼気迫るものがあり、読者たる私もその苦しみの一端を理解した気にはなるのだが、「わかる」と言うのは、きっと何もわかっていないことの証明にしかなるまい。そのような安っぽい共感は、彼にとっては心底唾棄すべきものだからだ。だから読者はずっと、自分の中の「わかる」を疑いながら読み進めることになるだろう。

しかし同時に、彼は真に彼の小説を理解してくれる存在を渇望しているように見える。

そんな彼にとってコハクさんの登場は、いやな言い方をするとものすごく都合が良いのだが、彼だけの、彼にしかわかりようのない苦しみゆえに、祝福すべきものとして顕れるはずだ。少なくとも、私はそのように感じた。

あなたが巷に溢れる「わかる」に疑問を感じるなら、ぜひこの小説を読んでみてほしい。
まあ、この文章自体何もわかっていないのかもしれないし、あなたがわかる保証もどこにもないのだけれど。