赤眼のセンリ 零
ラーさん
「猿の手」
あたしは赤眼のセンリ、芸を売って
さてさて、いきなりなんだが困った話で
しかして
「やあ、姐ちゃん。こんなところで行き倒れかい?」
顔を上げれば、そこにいたのは場数を踏んだ
「なんだ、腹が空いているのか。ひとつ飯でもおごってやろうか?」
はん、この赤眼のセンリの姐さんが、そうとたやすく人様の施しなんざ受けられるかい、と見栄を張った心の声も腹の音に吹き消され、「ありがてぇ、ありがてぇ」と連れてもらった
「よほどの腹空きだったみたいだな。ほれ、茶も一杯くれてやろう」
「いやはやありがたいねぇ。捨てる神あれば拾う神あり、たいした
手渡された茶をずずずとすすって感謝至極にあたしが述べると、この男は「そうかそうか」とうなずきながら、ぐいとこちらに身を乗り出してきた。
「ところであんた、流れの芸人だろう? 実は俺はここいらで芸人の差配をやっているサジってもんなんだが、あんた今日、俺の仕事を受ける気持ちはあるかい?」
こいつは渡りに船のお話だ。しかし、飯を奢ってもらってさらに仕事の面倒まで見てもらえるなんざ、鴨が
「まあ、急な話だ。無理にとは言わないさ、気にするな。ただ、ここで会ったのもなにかの縁、功徳を施すならケツまでと、金にも困ってそうなあんたさんに、ちいとばかり羽振りのいい話を分けてやろうと思っただけさ。まあ、一飯の恩義なんて気にするな。本当にちいとばかり
「まあ待ちなよ、サジの旦那」
そう立ち去ろうとするサジの旦那の袖を引いたのは、なにも欲を掻いた訳じゃない。縁を
「あたしは赤眼のセンリ。行き倒れなんざぁ情けねぇところを見せちまったがこの赤眼、器量だけでなく
指差し示した自慢の赤眼を紅玉のように閃かせ、あたしが切った啖呵にサジの旦那が破顔する。
「おっと、そいつは頼もしいな。ふんふん、赤眼のセンリの姐さんね。それじゃあ早速で悪いんだが、俺についてきてもらえないか?」
「おうともさ」
サジの旦那はあたしの名前を覚えながら手招きをして、街の大路からだいぶ離れた山手の閑静な屋敷街へと連れていった。
「……はぁ、こいつは大層に羽振りのいい門構えの御屋敷で」
着いた先で見上げたるは、高さ二間半はあろうという
「ここいらでは随一の豪商と名高い、
「へぇ、そりゃまた大層な御大尽で」
怪しむ内にサジは門番に取り次いで、大門の
「では、こちらでお待ちくださいますよう、お願い致します」
案内の使用人にそう言われ、通された座敷でサジと並んで畳に座る。
「見れば見るほど豪華な屋敷だね」
「そうさ、こいつは
座敷を見渡せば、それだけでここの家主の財力がどれだけあるか見えてくる。見上げれば迫力ある
「待たせたな」
サジと
「これは弥右ヱ門の大旦那。ご機嫌麗しゅうございます」
サジが畳にぬかずいたので、あたしも三つ指ついて頭を下げる。
「それが今日の芸人か。どれ、顔を上げてみろ」
なかなかに尊大なお声。なるほど、一代でこの家を建てた御仁にふさわしい、才気と自信に溢れたお声だ。どれどれこちらも御顔を拝見。
「赤眼のセンリと申します」
「ふむ。見目は上等」
大旦那の御眼鏡にかなったようで恐悦至極。ではさてこちらも品定め。ほうほうなるほど、これは確かに羽振りの良い御大尽だ。眼光鋭く凛とした尊顔に清雅に整った天神髭を生やし、御立派な紋付の羽織
「では、早速に頼もうか。ついてこい」
はいはいよろしくございますぜ大旦那と立ち上がると、そこでサジに肩を叩かれた。
「センリの姐さん、俺はここらで退散だ。まあ、
「入れ」
なんともいかがわしい隠し戸の奥は地下に続く階段で、さすが大金持ちの趣味と趣向は手が込んでいらっしゃるとため息が出ちまったが、さてさてと思う間もなく大旦那があたしの背中に冷たいものを突きつけた。
「余計なことは考えず、この先にいる御方を喜ばせろ」
抜き身の白刃が背中に回れば、誰も彼も否も応もありゃしない。大旦那に促されるままに板敷きの階段をぎしりぎしりと降りていく。しかしこの地下から流れてくる気配、なるほどなるほど後ろの大旦那より大層な御方がお待ちになられていらっしゃるようだ。
「ほう、今日も懲りずに楽しませてくれるようだな」
地下に降りると、低く掠れた響きに傲慢と嘲笑を混ぜ込んだ不気味な声が出迎えた。地下室の左右に置かれた
「へぇ――これは
祭壇の上に奉納されていたのは、青い毛に覆われた一本の猿の手だった。
「ふむ、一目でわしの正体を見抜くとは、今日の芸者はなかなか見所がありそうであるな」
にたりと目だけで微笑む一つ目は、
「“この手の持ち主となった者は、その願い事を三つ叶えることができる”とは、そこそこ知れた無支祁の“猿の手”のお話だが、まさかこんなところで拝見するとは
「それはわしの持ち主の心尽くしという奴じゃ。なあ、弥右ヱ門?」
「お前が素直に私の願いを叶えればよいものを」
話を振られた弥右ヱ門の大旦那は、苦々しげにそう吐き捨てる。ふむふむ、これは事情がありそうだ。不機嫌な大旦那の様子とは反対に、無支祁の手は嬉々とした笑い声を上げる。
「ききき、おのれの願い事が人の身で不遜にも不老不死を望むから面倒なことになるのだ」
「はあ、不老不死」
なるほど、そいつで合点がいった。この屋敷にやたらと鶴だ亀だ松だ伊勢海老だと不老長寿の縁起物が飾られていたのはこの大旦那、財は飽かせど死ぬのは惜しいという口の御仁かい。
「そうだ。しかしてさすがのわしとて不老不死は簡単に叶えられる願いではない。だが三つの願いを組み合わせれば、その不遜な望みも叶えることができるだろうと言ったのだ」
「はてそれで、どうして芸者が必要になるんですかい?」
なかなかに饒舌な無支祁の手は、あたしの問いに「まあ待て」と上機嫌に話を続ける。
「願いは持ち主が言わねば叶わぬ。その三つの願いがわかれば不老不死になれるのに悲しいかな、この男にはその三つになにを願えばよいかがわからぬのだよ。まったく、願いを一つ使えば答えなどすぐに教えてやるぞといつも言っておるのに」
「それでは不老不死の願いが叶わぬではないか」
笑う無支祁に大旦那が苛立たしげな声を出す。確かに不老不死になるには三つの願いが必要なのに、それを聞き出すのに願いを一つ使っては元も子もない。わかってそう言う無支祁の手はさすがは大妖、
「ききき……大人しく他の願いにすればいいものを」
「人の世の大概のものは財力があれば欲しいままだ。そして私の才覚があれば財などいくらでも手に入る。避けられないものは老いと死だ。他に望むものなどありはしない。なんのために八方手を尽くして貴様を手に入れたと思っている」
大旦那が傲然と言い放った言葉に、あたしは内心に諸手を上げた。まったく人の欲とは
「どうだこの男、面白いだろう?
そこで話が見えてきた。なるほど、目の前の不老不死に手が届かず八方塞がりの大旦那は、この猿の手の
「はて、では機嫌を損ねちまった場合はどうなるんだい?」
あえて訊ねると、この猿の手はこれまた嬉しそうに、その
「お帰りになってもらえばいいだけなのだが、どうにも今のわしの持ち主は、わしがここにいることを外に知られたくないようでな。殺してしまおうとするから捨てるものならもったいないと、わしがその度に喰ってやっているのだ。まあ、そういうことだ。期待しておるぞ、赤眼の小娘」
そして
「心得ましたぜ、無支祁の旦那。あたしも芸人の端くれだ、
「もちろんだ。余興は賑やかな方が良いからな」
あたしの言葉に「なに?」と驚く大旦那をよそに、うむと応じた無支祁の手が人差し指と親指をつまむように合わせると、くいっと手前に引っ張った。するとドタドタと誰かが階段から落ちてきてごろりと地面に転がった。
「貴様はサジ!? どうしてここに!」
大旦那が叫ぶ。そこで頭をさすりながら顔を上げたのは、当然ながらあたしをここに売ったサジの野郎だ。
「いやいや、やるねぇセンリの姐さん。いつから気づいていたんだい?」
「あたしの赤眼は不思議な眼でね、そのくらいは
あたしが横目睨みに見下ろすと、サジの野郎はその細い狐眼をへらりとさせて、いけしゃあしゃあと事情を話し始めた。
「こうなったら言い訳もありゃしないな。この屋敷に差配した芸人が何人もそのまま姿を消しちまってね。こいつは裏を押さえとかにゃあ、こちらの身も危うくなりそうだと探りを入れたら、まさか無支祁の手なんて大層な代物が隠してあるとはねぇ」
「それで消えちまっても痛手の少ない、あたしみたいな訳知らずの流れの芸人をここに叩きこんだのかい。まったく、とんだ畜生だね」
「いやいやでもな、いざとなったら助けるつもりでここの上に隠れてたんだぜ?」
あたしのなじりにサジはいやいやと手を振るが、そんな話を聞いてやってる義理はない。あたしは髪から
「言い訳はないんだろが。そんな無駄口叩く余裕があるなら、こいつでちょいと働きな」
すると簪はたちまちに一棹の三味線に様変わり。なに? どうやったとは無粋な問いだね。芸人に芸のタネを訊ねるのは御法度と知りなせぇ。あたしは懐から
「芸人の差配屋なら三味のひとつも弾けるだろう? こちら無支祁の旦那の機嫌を損ねたら、あたしら
「はっ、こんな大妖怪相手に座敷芸とは、正気の沙汰とも思えねぇな!」
そう言いながらサジの野郎が撥を奮って三味線を掻き鳴らす。なんだいなんだい、なかなかいい三味じゃないかい。いいよ、これは乗ってきた。あたしは帯に挿した商売道具の朱染めの扇子を引き抜き開き、無支祁の旦那にむかって見得を切った。
「ではではどうぞ
開いた扇子の
「ききき、良いぞ良いぞ。得意の舞とは言ったものだ」
無支祁の一つ目が感心に細まった。だがねぇ旦那、あたしの舞い芸はここから本番。さらに赤眼をきらめかす。さあさあ、踊り扇子が
「それ
「くきゃきゃ! やりよるやりよる! 次はなにを見せてくれるか!?」
さて、辺りを見渡せば、ここは
「さあさ、こちらがお待ちかねの次の演舞“
水飛沫を上げて海面から躍り出た白文鳥のあとを追い、次々と飛び出したるは夕映えに
「おお、おお、見事見事!」
「なぁに、あたしの舞はまだまだこれから」
無支祁の
「これぞ秘奥の舞い芸、
ドンと海を割って飛魚の群れへと突き上がったは、大口開いた
「ほうほう、そう来るか」
「――ななっ!」
「いやいや待ちな、センリの姐さん! 鯨がこちらに降ってくるぞ!」
無支祁の旦那はさすがの泰然だが、弥右ヱ門の大旦那とサジの野郎がやいやい騒ぐ。ええい、うるさい奴らだね。
「座に上がった芸者の技を疑うのは
啖呵とともにあたしは赤眼をきらめかす。さあ、落ちてくる黒鯨の大口が
「さてさて、呑み込まれた鯨の中に広がるは、
そう、ここは水の中。上を見れば波に揺れる水面から木漏れ日のように伸びる明かりの
「ききき……そうだな。数千年と実に見慣れた光景だ」
水面から続く巨大な岩に鉄鎖と金鈴で四肢を縛られた一つ目の大猿――無支祁の旦那の本来の御姿だ。身体は青く頭は白く、その額には潰れた獅子鼻があり笑う口には雪牙が並ぶ。当然にその顔のまん中に見開かれるは
「あたしの舞を楽しむなら、やはり
「きゃきゃきゃ! 殊勝な誘い、是非とも乗ろう!」
破顔大笑にぶちぶちと鎖を引き千切った無支祁の旦那が水中を泳ぎ出すと、あたしもくるりと身体を一転、着物の裾を魚の
「おいおいどうした、三味の兄ちゃん。せっかくの旦那の
呼ばれたサジが泡を吹きながら慌てて三味線をべんべん弾き出す。さて、ここらであたしも旦那の座興の華添えに小唄のひとつも唄うかね。
――野暮な鎖を振り払い
身は軽々と
ここではしゃがにゃ、どこにてはしゃぐ
恥じなど忘れて唄えや唄え
この世の
「ならば、わしも一芸を披露しようぞ!」
あたしの小唄にさらに興乗る無支祁の旦那が
「いやはやこいつは見事な芸だ! 旦那もやるもんだねぇ!」
「言ってる場合か、巻き込まれるぞ!」
「うおぉぉぉぉっ!?」
「どうした
さらに激しく螺旋を描く大渦の中心で踊る無支祁の旦那はそう笑うと、むんずと渦の
「きゃきゃきゃ! どうだ、わしの芸は!」
「あっぱれ見事の言葉なしでごぜぇますや!」
打ち上げられた玄気に満ちる
「久々に四肢を伸ばす感覚は、幻なれどなかなかに楽しかったぞ、赤眼の小娘!」
そこで無支祁の旦那が両手を強く打ち鳴らした。ぱんと響く大音が鼓膜を打ったと思った瞬間、あたりは一転、元の陰気な地下の
「お褒めにあずかり光栄至極」
「なるほどなるほど、よく見ればその赤眼、
掌の目を細めて笑う無支祁の旦那は、そこで視線をあたしの後ろに転がる弥右ヱ門の大旦那にじろりとむける。
「さて、この赤眼の座興のおかげでわしもずいぶん上機嫌だ。これはうっかりと要らぬことを漏らしてしまうかもしれんなぁ」
それと聞いた大旦那はがばりと跳ね起きて、無支祁の旦那の手の元へと這うように走り寄った。
「ま、まことか!?」
「ききき……うかと聞きそびれるなよ?」
もったいぶる無支祁の目が大旦那を見下しながら、ぽつりと一語、言葉を吐いた。
「
そいつはこれまた謎掛けだった。さすがは大妖怪の無支祁の旦那。意地の悪さも筋金入りだね。哀れなのは再び答えのわからぬ謎を投げられた弥右ヱ門の大旦那。威風堂々の天神髭も見る影なく、頭を抱えて唸り出しちまった。
「三猿ってことは不老不死になるための願いは“見ざる、言わざる、聞かざる”ってことになるがセンリの姐さん。こいつがいったいどう不老不死につながるんだい?」
ここでようやく大渦で回した目から立ち直ったか、サジの野郎が起き上がってあたしにそう訊いてきた。
「なんであたしに訊くんだい?」
「うん? あんな大妖怪と渡り合えるあんたなら、その赤眼でなんでもお見通しかと思ってな。そうかわからないのか。そいつは残念。まあ、どんな天才にもわからないことはあるからな。ああ、悪かったぜ、気にするな」
あん? 誰にむかって言ってやがる。この程度の謎掛け、あたしにゃ先刻お見通しだよ。意地の悪い答えにあえて黙っていただけだが、そうと煽ってくるなら口に出さなきゃならないね。
「老も死も、生があるから避けられないとは御釈迦様も言っている、この世の不可避な
「明察なり!」
サジにむかって言ったあたしの答えを、無支祁の旦那が大声で
「さあ、願うがいい弥右ヱ門よ!」
実に楽しげな目でそう告げた無支祁の旦那に、大旦那はついに不老不死を叶える願いを
「生を見ざる! 生を言わざる! 生を聞かざる! さあ、この願いを叶えてくれ!」
「きゃきゃきゃ! その願い確かに叶えてやるぞ! 老いも死もなければ生もない、生きているか死んでいるかもわからない、この世の
まったく意地の悪い謎掛けだね。生死は陰陽と同じに分かち難いものである。生きているから老いて死ぬのが道理なら、老いて死ぬから生きられるのもまた道理。老死だけを遠ざけて生きられるなんざぁ、うまい話がある訳ない。
無支祁の旦那の哄笑に謀られたと気づいたか、弥右ヱ門の大旦那の顔色は見る間に蒼白になり、大慌てに
「ま、待て、今の願いは取り下げだ!」
「残念だが、お前はもう三つの願いを口にした。望みの不老不死を与えてやろう。生を忘れ、老いも死も忘れた不老不死となるがよい!」
無支祁の旦那は一笑に、その人差し指を大旦那の額にむけて突き指した。すると哀れ大旦那、あっと言う間もなくその身体がぴたりと止まり、そしてそのままの縋る姿勢で石像か何かのように動かなくなってしまった。
「生は歩みなり。老死はその形なり。生を忘れれば動く
無支祁の旦那は動かなくなった弥右ヱ門の大旦那にそう言い捨てると、にたりと微笑む一つ目を動かして、あたしとサジの顔を交互に見た。
「さて、わしの機嫌はまだまだ良い。願えばお主らのどちらかをわしの新たな持ち主と認めるが……どうだ、わしに叶えてもらいたい願いはあるかね?」
笑う無支祁の旦那のありがたい提案に、あたしとサジは顔を見合わせると、揃って首を横に振った。
「人の願いは人の手で叶えるが人の本分だ。ちょいと遠慮しておくよ」
「へへへ……あっしも旦那ほどの大物を扱える器量はないと、身の程はわきまえていますんで……」
「ききき……それは惜しいな。残念至極よ」
しおらしく言ってやがるが、どうせ欲に駆られて自分を巡って争う人間たちが見たかっただけだろうに。数千年を
「となると、もはやここにいても詮は無し。また浮世をさまよって、新たな持ち主との
無支祁の手はそう独りごつと、すっと宙に浮きあがった。そしてあたしとサジを見下ろして、戯れのように手を振った。
「ではさらば。縁があればまた会おうぞ。特に赤眼、お前は実に気に入った。再会の日を楽しみにしておるぞ」
「そんときゃ、ちゃんとした見料をお願いするぜ、無支祁の旦那」
あたしの返事ににんまり笑う無支祁の旦那は、そのまま虚空に滲むようにして溶け消えた。いやはや、たいした客に目を付けられちまったもんだねぇ。
「さて、それでどうするね?」
無支祁の旦那の気配が完全に消えたところで、あたしはサジの野郎に話を振る。
「そうだな。まったく困ったもんだ」
そう言い合う視線の先には石の如く固まった不老不死の弥右ヱ門の大旦那。
「まあ、ここは三猿しかあるめぇな」
「そうだねぇ。それしかないだろうねぇ」
見ざる、言わざる、聞かざるとは、さすが古来より伝わる至高の金言。ここはこの隠し部屋の戸を厳と封じて、そっと立ち去るのみである。そうとなればとあたしとサジはうなずき合い、数十年来の知己の如き息の合った手際の良さで、ぱぱっと隠蔽を終わらせると、さも大旦那様の座敷から上がりましたという顔で使用人に帰りを告げて、正面の大門から堂々と屋敷の外へと抜け出した。
「しかし助かった。あんたなかなかやるもんだねぇ」
大路に戻り、ふうと一息ついたところでサジの奴がそう礼を言ってきた。
「言ったろうがい。一飯の恩を三飯にでも四飯にでもして返してやるってね。この際さね、あたしをダシにしたことも忘れてやるよ」
「そいつはありがてぇな。じゃあ返礼にもう一飯でも奢ってやるよ」
きっぷよく返してやると、サジも気前よく今度は一膳飯屋よりも立派な小料理屋での
「ところで無支祁の旦那を唸らせた姐さんの芸、実に見事な手前だったが、どうだい? ひとつ俺の差配で働いてみる気はないかい?」
口説かれるのは悪くないが、生憎あたしの赤眼には見る目って奴も備わっているんだよ。初見の相手を騙し誘って危地に連れてくような男と長い付き合いをするような馬鹿じゃない。
「残念だが――」
「なぁに姐さんは俺の命の恩人だ。悪いようにはしやしねぇよ。ほれ、ここの飯代とは別に、こいつは今日の場代と謝礼を合わせたもんと思って取っといてくださんな」
つれなく返事をしようとした出鼻に、サジがすっとあたしの袖に
「いいだろう! この赤眼のセンリの姐さんが、至芸を尽くしてこの街の座敷という座敷を芸の華で埋め尽くしてやろうじゃないかい!」
「よっ、姐さん! その意気だ!」
これが一生の不覚になろうとは、あたしの赤眼でも見抜けなんだな。行く先より来たし道を振りむけば、余計なことは見ざる、言わざる、聞かざるが、やはり金科玉条の至言だったと知ることになるんだが――……と、残念。もうここらでお
ではでは、続きは次の座敷で語りましょうや。またのお呼ばれを楽しみにしておりますぜ、旦那さま?
赤眼のセンリ 零 ラーさん @rasan02783643
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