お姉ちゃん ⑩

 中年親父みたいにスースーと鼻息を立てるのは、対極の位置にあると言ってもいい女子高生だった。というか、私だ。

 テストのとき、唯は鼻風邪引いてたんだなと思いながら、ベッドの上で毛布ごと身体を小さく丸めた。頭は揺さぶられるように朦朧としていて熱いのに、両脇と指先だけは冷えていた。

 外の寒さに震えだして、やばい今日薄着で走ったのは完全に調子こいたな、と反省したときには体温計は三八度五分になっていた。少年漫画の主人公っぽくてなんかかっこいいと思ったんだけどなー、と主人公によくあるお馬鹿な部分だけはきっちりと真似できている自分の馬鹿さに悶えている始末だ。体温計をリビングの机から引っ張り出したときには既に夜中の一時半を過ぎ、今は二時半だ。


「ついてない」

 せめて昨日なら誰かしら家にいたのに。陽愛がコンクールの予選を通過したので、今日も大阪のホテルに連泊しているはずだ。不幸なのは明日が――いや、もう日を跨いだんだった――、今日が日曜日なのだ。日曜日にやっている一番近い病院までは、車で二十分かかる。

 一昨日、陽愛は言葉の先を言わなかった。お母さんには何もなかったと言って大阪に行ったが、陽愛が私の見えないところで言っていない保証はない。そもそも、上手くごまかせていない。

 家の中に誰もいない以上あるものでなんとかするしかなかった私は、冷えピタを貼って冬用のパジャマを厚着して布団に潜ったけれど、熱くて熱くて寝れたもんじゃない。しまいには自分の熱がどれくらいまで上がるのか気になり十分おきに熱を計りだしていて、さっきは三九度五分まで上がって嬉しいんだか嬉しくないんだか。


 唯には熱出たとLINEで送ったが、返信がないので多分寝たのだろう。床にはむかついて放り投げたスマホが無造作に転がっている。

 もう一つ不幸なのは、そろそろ救急車を呼ぼうか迷うくらいに体調が悪いことだ。

「きっついな……」

 布団を被っているだけなのに、狂いそうになるのは初めてだった。頭はぼーっとして動かないし、体もプールに浸かっているみたいで自由が利かない。

 何より、誰とも繋がっていないことが余計に気分を陰鬱とさせる。内臓が締め付けられるように痛いのは、呼吸が辛いのは、体調が悪いからだけではない。

 布団から這い出て、スマホを拾い上げた。

 かけてもいいのかな。怒られるかな。悩んでいると、また頭が痛くなってくる。

 指が重たい。これも体調が悪いせいなのかな?このまま本当に一一九番通報してしまおうかと、親指が画面に触れ続ける。熱い。でもな~。風邪っぽいのに救急車呼ぶのはな~、と抑制心が指をずっと押さえつけていた。だったら――、


 私は指を素早く動かし、スマホを耳に当てる。十回コールしても出ないので、私はベッドに戻った。さすがに寝たかと思って切ろうとしたら、表示が呼び出しから通話に切り替わり、慌ててスマホを耳元に戻す。

「もしもし」

 眠たそうなお母さんの声がした。そりゃあ当然か。

「……もしもし?どうしたのこんな時間に」

「実は……」

 家に帰ってからの顛末を全て話し終えると、少しは気分が楽になった。

「……どうしようね」

 それは私も言いたいよ。だから電話をかけたのに。電話越しのせいか夜中だからか、お母さんの声は穏やかなままだった。少し考え込むように黙った後、お母さんは言った。


「始発の新幹線でそっちに戻るわ」

「え?本気?」

 驚きすぎて、間を開けずに訊いてしまった。

「なに?一人でタクシー使っていった方がよかったの?」

 ……あー、タクシー使えたのか。気づかなかったなんて、本格的に頭がやばいな。いや、乗らないから選択肢に入らなかっただけか。だったら電話しなくてよかったなー……じゃなくて、

「いいよ。コンクールあるでしょ」

 新大阪から始発で来たとしても、家に着くのは大体十時ごろだろう。タクシーを使って病院に行けばなんとかなるだろうと思いつつ、誰か側にいて欲しいと言う気持ちがあったから、私は敢えて「いいよ」なんて言ってしまったのかもしれない。なぜならこの人は――、


「咲夜の体調の方が大事よ」

 と言うからだ。

「本当に辛かったら救急車呼ばなきゃいけないけど、今はどんな感じなの?」

 熱があって鼻が詰まって頭がぼーっとしていて頭が重いんです。辛いです。死にそうです。でもそのまま言うと、ただの風邪かインフルエンザっぽく聞こえるのは私だけだろうか?

「それは風邪かインフルエンザだねー」

 ですよねー。そんな気がしてました。医者じゃないから病院に行かないとわからないわね、とお母さん言うとお互い黙ってしまう。


「知りたいんでしょ。お母さんの中で、咲夜という人間が存在しているのか」

 まただ。何も考えていないのに。意識は現実の中にあるのに、陽愛の声が聞こえた。また陽愛の幻影が背中に触れていた。

 自慢なのはお姉ちゃんとして?それとも、私という人間に対して?

 三者面談の後、私はお母さんに聞きたかった。けれど、怖くて聞けなかった。それは咲夜という人間に対して、自信がなかったから。陽愛のように誇れるものがない私を、お母さんは娘とは別の存在として見ているのか。あのときも舌がくしゃくしゃに乾いていた。


「だから、わたしのことを今でも意識してるんでしょ」

 黙れ。私は立ち上がって腕を払い落とそうとした。だが、手は空を切る。

「だからわたしはお姉ちゃんに厳しく当たるんだよ。したくないことを強制してるわけじゃないんだよ。じゃなかったら、ただの意地悪じゃん。大好きなお姉ちゃんにそんなことしないって」

 うるさい。お前に何がわかる。私が持っていないものを持っているお前に何が――、


「わかるよ。だって、わたしはお姉ちゃんに認めてほしかったから」

 頭に沸き立つ血液とともに顔を上げた。無数のトロフィーがガラス張りの棚の中で、ビル群のようにそびえ立っている。私は毛布を被ったまま、いつの間にかリビングに来ていた。左を見ると私のがいくつか。あとは全て陽愛のだった。


――でもね、陽愛は今よりもっと頑張って、いつかお姉ちゃんよりも上手くなってみせるから!

 本当にすごいよ、陽愛は。本当に私の自慢の妹だよ。自慢の陽愛だよ。誇っていい。


 それじゃだめなの?

 昨日の陽愛はそれではだめだと言った。走れと命令する私もだめだと言った。

約束だろ?お前も来いと。私と陽愛が作り出した影が、私の背中を押し続ける。走りたい私と走るのをやめたい私が、前と後ろで押し合いっこをしている。

「でも珍しいわね。咲夜が体調崩すなんて」

 お母さんの言葉で私は我に返った。そう?と返すと、こもった笑いを返されむっとしたが、たしかにその通りだった。風邪や病気で学校を休んだことはないし、怪我したのも膝の損傷で一回だけだ。

「うん。だから看病とかはいっつも陽愛ばっかりだったわ」

 また陽愛のことかと、呆れ返るのをなんとか抑えた。私とは逆に、陽愛は季節の変わり目によく熱を出す。先月も陽愛は一週間学校を休んだ。けれど、私は陽愛のことを病弱だ、と内心で罵ることはできなかった。

 陽愛が体調を崩す度に思うことがある。私が比較的健康なのはお母さんのお腹の中にいるとき、陽愛の分の栄養を私が摂ってしまったからではないのか。小さい頃からずっと気になっていた。陽愛も、お父さんも、お母さんも誰も訊かなかったけれど、私と陽愛の性質がどうしてこんなに違うのか私に訊く日が来てほしくなくて、私はいいお姉ちゃんでいようとした。


「だから、少し嬉しいのよね」

 心臓が大きく跳ねた。

「え?は?ごめんもう一回お願い」

「だから、咲夜に母親らしいことができて、少し嬉しいのよ」

 あまりに意外な返しだったので聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。冷えていた足元が、じんと熱くなる。

「ほら、何かと面倒かけるのはいっつも陽愛だったじゃない?咲夜は手をかけない子だったから、本当は無理してるんじゃないかなってずっと思ってたのよ」

「無理はしてないよ」

 もう慣れてしまっていた。どう動けば『自慢の娘』を、『良いお姉ちゃん』を演じられるのかはすぐにわかった。よく言うでしょ?継続は力なり、って。合ってるかな?

「咲夜たちなんて年も離れてないから絶対喧嘩するだろうって、生まれた後お父さんとも話したてんだけどね。特に咲夜がお利口さんだったから、喧嘩も数えるほどしかなかったのよ」

「…………そうなんだ」


 誰もいない家の中では、私の声がよく通る。深夜のリビングで遠くにいるお母さんと話しているなんて、なんだか不思議だ。

「ごめんね。今辛いのにこんな話しかできなくて」

 電話越しだからこそ、初めて聞けることもあるのかもしれない。唾をゴクリと飲むと喉が痛む。

 でも、私はもっと話したい。もっと聞きたい。

「いいよ。熱上がって寝れないし。どうせならお母さんの話、もっと聞きたい」

 誰にも邪魔されずに聞ける機会が次あるとは限らない。私はリビングのソファに寝転んだ。ざらざらした肌触りが冷たくて、熱を吸い取ってくれる気がした。

「そうね……」

 私たちが覚えていない小さい頃の話と、私が知らなかった話を聞いた。

 陽愛が桜の花びらが綺麗で食べてしまった話。私が夏にプールで迷子になった話。陽愛が運動会で転んで大泣きした話。私が雪に顔を突っ込んでしもやけになりかけた話。


 お母さんの話もあった。小さい頃、お母さんのお母さん、つまりおばあちゃんの再婚先の家で、あまり良い扱いを受けなかったこと。そんな中で妹が生まれたこと。早く家を出たいのと、妹の私立中学入学のために、大学に行くのではなく高校卒業後に就職したこと。バブルの頃お父さんと出会ったこと。後半は聞いたことがあったが、お母さんが小さい頃、どんな風に育ったかは知らなかった。


「お母さんはずっと変わらないんだね」

 お母さんの口から、お母さんになる前の真広まひろという人間を知れて嬉しかった。今まで私の目には、お母さんという長く浸透した像しかいなかったから。

「そんなことないけど……、そう見えるの?」

「うん」

 私はお母さんの物差しに私がいるのか確かめたかった。お母さんの中に真広という人間がいるように、お姉ちゃんとしての私ではなく、咲夜という名の人間を。

「そうだ、昨日は帰ってから慌ただしくて聞けなかったけど、記録会どうだったの?」

 お母さんから記録会の話が出てくるとは思わなかった。関心がないと決め込んでたのもあるが、それにしてもいきなりだ。

「学校の後輩には抜かされちゃったけど、もう少しで自己ベスト出せそうだったよ」

「頑張ったわね。偉いわ」

 トラック競技とフィールド競技の違いも知らない人なため、あっそう、と言ってあっさり、というか、ばっさりと終わるものだと思っていた。

 さっきまでうんうんと頷くたび止まらない鼻水をすすっていたが、今は胸から込み上げてくる何かとともに、我慢していなければ目元が熱くなってしまう。お母さんの眼差しには、私が映っているのかもしれない。


――知りたいんでしょ。お母さんの中で、咲夜という人間が存在しているのか。

 今日は無理かもしれない。でも、近いうちにお母さんに訊いてみよう。少しだけ、勇気が湧いてきた。

「もうすぐ始発の電車に乗らなきゃいけないから、そろそろ電話切るわね」

もうそんな時間か。外は暗いままなので時間の進む感覚が掴めなかった。

「あ、そうそう。出る前に大学芋作っておいたから、食べてねって言うの忘れてたのよね。もう食べちゃった?」

 私は後ろの電子レンジが動く音に耳を貸す。

「ちょうど今暖めてるとこ」

 さっきお腹が空いて冷蔵庫を漁っていたら大学芋があったのは、やはり私のために用意してくれたものだったのか。

「そう。ならよかった」

「大人しく食べながら待ってるよ」

 床に捨てられたティッシュをごみ箱にまとめて入れ、電子レンジを開ける。蜜の甘い匂いが胃の底を撫でた。今すぐ食べたいのを我慢して、ソファーまで持っていった。

 じゃあね、と私はスマホを耳から離しながら、割り箸で一つ口に含む。



「うん、良い子にして待っててね。『お姉ちゃん』」



 味がしなかった。

 あ、わかった。わかっちゃった。

 血液ごと私が凍ってしまったようで、何も考えられなかった。いや、思いつく言葉は沢山あった。考えたくなかっただけだ。その言葉だけは、お母さんの口から聞きたくなかったから。

 手から箸とお皿がこぼれ落ちた。

 だめだ。溢れる。

 ねえ、どうして?

 どうしてお母さんの目には私が映っていないの?私たちが双子だから?陽愛がいるからなの?私が悪いの?私がもっと速く走らないから?お母さんにとって私は『家族が生きた証』に出てくるミツルと一緒で、所詮ひとりの娘でしかないの?お母さんの目に私を映すのはエゴなの?

 だめだ。どんどん熱くなる。

 ねえ、見てよ。こっちを見てよ。

 私は疲れたよ。きついよ。もう走りたくないよ、脚が痛いよ苦しいよ。顔を上げたくないよ。座って一休みしたいよ。ねえ、いいでしょ?

 でも、私を見てよ。咲夜を見てよ!

『私はあんたの姉なんだから』

『ありがとう、お姉ちゃん』

 映画の台詞がなだれ込んでくる。

 やだ。やだ。

 声を上げたいのに、外から鍵がかかって口が開かない。私はお姉ちゃんだ。お母さんの自慢の娘で陽愛のお姉ちゃんだから、そんな風に言ってはいけないんだ。今までそうしてきたように、いつだってお姉ちゃんは生意気な妹や弟を叱って苦労人で、時々自分も喧嘩して叱られる。典型的な、形作られたお姉ちゃんでないといけないんだ。

 鍵は舌の上にあった。

 多分、いやきっと、お母さんは陽愛を娘ではなく一人のピアニストとして見るように、私を咲夜としては見てくれないんだ。

 だめだ、もう耐えきれない。窓を開けなければ。

 そのとき、私の後ろから左の頬を冷たく打った。風が吹いたんだ。まだ窓は閉まっていて、風が入る隙間なんてないのに。

 聞こえる。枯れ葉が靴に踏まれて割れる音、私の横を走り去った音。見える。ガラス越しに肌を剥き出しにした私が前へ前へと走っている姿。

 私は目を疑った。あまりにも綺麗なフォームだった。そして速すぎる。あの私は、教室の私でも、この部屋の中の私でも、トラックの私でもない。

「待って!」

 私は窓の鍵を開ける。追いかけなければ。

 いけない。開けてはいけないと、誰かが言った気がした。

 窓の取っ手を握る手を、もう片方の手がぎゅっと押さえつけた。

 きっと、また後悔する。そのとき、きっと耐えられなくて死んでしまう。嫌だ。

「手伝ってあげるよ」

 陽愛の声?それとも私の声?

 窓が開く。今度こそ肌を刺すような風が私を手荒く歓迎した。

 ピアノの音が聞こえてきた。凍える風に枯れ葉がコンクリートをなでる。高音から怒濤のアルペジオ。今度こそ思い出した。陽愛が好きな曲。私ができなかった曲。


 ショパンエチュード、イ短調作品二五―一一〈木枯らし〉。


 冬を報せる木枯らしが枝を揺らす音が聞こえる。箒がコンクリートをさらう音も、鳶が鳴く音も野球部が快音響かせるバットの音も寒い寒いと言って生徒が登校してくる音も全部聞こえる。

 外は暗くて寒い。

 けれど、毛布にいつまでもくるまってはいけない。暖かい世界で私は肌を剥き出しにして、外の世界に走らなければいけない。

 たとえ天才が側にいても、後ろから追い抜いていく後輩がいても、私は走らなくてはいけない。走った先に私の欲しいものがあるのなら、何があっても。

 今度はちゃんとできるだろうか。自信は、ない。

 でも、やるしかない。私のために、私は走るしかない。私にその覚悟をくれたのは、お母さんと陽愛だ。

 陽愛は家族だから。妹だからこそ、私を許さない。他の誰もが気づかない、気づいたとしても言うのを躊躇うその一歩に、陽愛はいつも踏み込んできた。

「陽愛は、陽愛は、私の妹だよ。陽愛だけは私に容赦がない。でも、きっとそれも、家族なんだよね?」

――走れ。走れ。

「だったら、お姉ちゃんはそれを追いかけるよ」

 また後ろから背中を押される。今度はしっかりと地面を踏みしめた。

 足が冷たい。けれど、逃げたその足で走るしかない。

 何度でも。

 何度でも。

 何度でも。

 ああ、〈木枯らし〉が終わる。でも、冬はこれから始まるんだ。

 前に進むしか、道は残されていないのだから。

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