お姉ちゃん ③
――現在――
「サク~!テスト乗り切ったよー!」
机を動かしている私の背中に、
「危ないって!弁当が落っこちるでしょ」
「テスト終わったんだからそれくらい許してよー」
唯は反省ゼロの様子で、崩れたショートボブを手櫛ですく。私は落ちそうになった弁当を彼女に渡しながら言った。
「落っこちそうになったのは唯の弁当だからね!」
唯がいつもより重く感じたのは、テスト休みで太ったからか、それともテストの重荷がそう感じさせたからなのか。いや、単純にブレザーのせいか、と彼女のを見て納得した。十一月も後半に入ったが、テスト終わりのせいもあって教室の雰囲気は暖かい。
教室にいる十人程度の生徒は、テストが終わり他の場所で昼食を食べる、または帰宅する生徒のいずれにも当てはまらなかった人たち。そのうち四人が私たち女子陸上部だった。唯、レヴィ、
「もう学校行きたくない修学旅行前に戻りたーい!」
席に座った途端、藍が机に抱きつくようにして、どっとたまった疲れを四人分の机にばらまく。
「それめっちゃわかるわ。みんなで海行ったときとか、テストのことなんも考えなくて楽しかったなー。もーいっかい修学旅行行きたーい」
唯が弁当の蓋を開けると冷たいソースの匂いが広がって、私はミートボールだと予想した。テスト、模試、そしてテスト。修学旅行が終わってから今日まで頭が休まる日がなくて、私もやっと解放された嬉しさよりも、おなかいっぱいで何も受けつけないような疲れを感じていた。
でも――、
「藍と唯が彼氏と夜にホテルから海に行こうとして反省文書かされたの、私が後で顧問に怒られたんだからね。とばっちり食らったと思ったわ」
なーんにも考えてなかった唯と藍がはめ外し過ぎたせいで、同じくなーんも考えてなかった私も睨まれたのは、ちょっとだけ根に持っている。
「そんなこともありましたね」
レヴィが買ってきたパンとジュースと弁当を、机の前にびっちり置きながら頷いた。
「マジで?ごめんごめん。ほら、あたしのジュースあげるから我慢して」
「いらないって!しかも飲みかけだし!」
この四人が揃ってちょうどバランスが取れると思った。最初に話の種を広げるのは藍か唯で、レヴィはマイペース、私は三人に合わせるといったように、誰と話し合うこともなく場の雰囲気ができあがっていた。
そうだ、と藍が完全に呆れた様子で唯に言った。
「古文漢文のテスト中にいびきかいてたでしょ。あんたの周りくすくす笑ってたよ。スースー言っててうっさかったんだから」
藍は足を組んで笑っていたが、私は唯よりも藍の足のラインの方がエロくて気になっていた。寒そうーよりも、藍はほんとエロい脚してるよなー、という感想は男子みたいで嫌だけど仕方がない。今日は特別寒いから私はタイツを履いてきたけど、藍は踝から素足出して気合いが入っているし、出しているだけあって綺麗で男子からモテる。モテるから脚もきれいなのか、脚がきれいだからモテるのかはよくわからないけど。
「嘘だー!絶対かいてないって」
「あの時周りで寝てたの、あんたしかいなかったもん。ねえ、レヴィ」
藍の前でパンにかじりついているレヴィは飲み込んだ後に、「ワタシ、古典難しくていびき聞こえなかった。でも、先生もなんだかおかしな様子だったよ」と呟いたことで唯の有罪が確定した。
「うーわ最悪。死にたい」
「余裕ぶっこくからだよ。もうすぐ三年生になるのに大学受験大丈夫ですか~?」
「違うわ、寝不足!あと、先生みたいなこと言うな腹立つ!」
最近彼氏に振られてから、唯は寝不足らしい。二日に一回は電話がかかってきて愚痴を聞かされる。でも、最近はイケメンの家庭教師が来て、やる気が漲っているらしい。
四人で食べるのは三日ぶりだ。でも何も変わっていないことに、私は凄く安心した。まだ一口も食べてなくてずっと喋ってばっかな唯と藍も、リスみたいな咀嚼がブロンズの髪と合わさって可愛くて、けれども弁当をもう半分食べ終わっているレヴィも私は好きだ。
そして、教室で毎日この四人と騒ぐことのできることに、私はかなり優越感があった。教室でしか味わうことのできない優越感。これだけを永遠にぬくぬくと浸っていたいという自分がいる。ここは暖かいベッドの中。強烈な暑さも寒さもない。走れと言う人もいない。言葉にブランケットをくるめてぽんぽーんと投げ合う刹那的な幸せを、ずっと噛みしめていたかった。
「うちが先生だったらみんな集中できないっしょ」
同時に、そんなくだらないことでと、教室の私を遠目で嘲笑っている別の位相の私もいた。
「自惚れんな。レヴィの方があたしはいい女になると思ってるから。それに、頭のいい咲夜の前で余裕こいたらダサいでしょ!」
唯はようやくミートボールを口に放り込みながら言った。
「こないだの三者面談の時、あたし咲夜の後だったんだけど、サクは五分もかかんないで終わっちゃったもん」
ね?と尋ねる唯に私は少し戸惑いながら頷いた。私はその先を話したくも、聞きたくもなくて、目の前のきんぴらゴボウを口に入れる。いーなー、と藍が同調した。
「うちが親だったら咲夜みたいな子がいいよ。絶対手が掛からないもん」
――わたしの『自慢の娘』です。
うるさい。
私は咀嚼していたきんぴらゴボウにさらに白米を掻き込んで、ゲームの雑魚キャラのようにリポップしてきた言葉ごと飲み込もうとした。けれど、相手は雑魚キャラではなく強キャラだ。なぜなら最近だと一番楽しくない思い出だったからだ。
「結局あたしは三十分以上かかってさー。もうお母さんカンカンよ。そのせいで面談終わった後、サクと映画見に行くの時間ぎりぎりになったんだよね」
そこには同じ日に唯と観た映画も当然セットとなって、頭の中を跋扈している。
「あ、それ池田ユウが主演のやつですか?ワタシも藍と観たよ」
池田ユウは今勢いがある女優で、レヴィは彼女のファンだった。
「『家族が生きた証』だっけ?」
首を傾げていた藍がピンと来たのか、あれね~、と思い出したように手を打った。
「あたしも最後のシーンは号泣して、観た日は家族を大事にしようって思ったわー」
「藍のくせに号泣するんだ。てか、ずっと大事にしろよ」
「無理無理無理。お母さんと弟ウザすぎだし、お父さん空気だし」
「咲夜は面白かったと思いましたか?」
私は箸を体の前に置いて、姿勢を正す。
「面白かったよ。私もちょっと泣いちゃったし。でも観に行ったの少し前だったから、内容あんまり覚えてないんだよね」
話の内容も、演技も主題歌も、ケチをつけるようなものはどこにもなかった。だけど、私が今レヴィに言ったことは全部嘘だ。
「あるある。やっぱ映画は二回観ないとね。てか、うちも思い出した」
藍が食べていたチョコクリームパンを置いてスマホを取り出す。
「映画観た帰りの電車で、知らない学校の制服着た咲夜がいたんだけど」
これこれ、と藍が私たちに見せつけたスマホには、高校の制服を着た陽愛が映っていた。めっちゃそっくりですね、とレヴィがスマホと私を何度も見比べていた。
「でしょでしょ。最初声かけそうになって近づいたぐらいだし。この子って咲夜の親戚?」
「うん。私の双子の妹。陽愛って言うの」
私が答えると藍は納得したように口を開けた。その後、再び私と陽愛とを見比べる。
「ってことは、陽愛ちゃんも成績優秀でスポーツ万能だったりするの?」
『も』か。藍の言葉に悪意がないのはわかっている。私を知っている人が陽愛を見てそのそっくりさに驚いたとき、続けてこういった言葉をたまに訊く。ずっと前だったら『私たちすっごく仲いいんだよ!』と、嬉しそうに応えていた。いや、実際に嬉しいのは本当だ。ただ、私は自分に向けられた他者の視線を噛みしめながら、もう一方で別の役を演じていたのだ。
でも今は違う。
私が口を半開きにさせた瞬間、唯は藍のスマホに手を伸ばした。虚を突かれ、藍も「え?」と戸惑っていた。唯は素早く操作すると、藍のスマホを彼女の机に滑らせて戻した。
「そんなのどうだっていいでしょ。ていうか、なに盗撮してんの」
はっとした藍が自身の手に取って確認する。画面をくまなく探して、信じられないことに目を見開き、やがて大きく息を吐いた。
「うわ~だる。削除しなくてもいいでしょ。しかもバックアップの方まで消してるし。いや別にいいけどさ」
言葉を向けられた唯は、ハンバーグと一緒にふりかけご飯を口に放り込んだ。唯のお弁当はハンバーグ、ミートボール、焼きそば、アスパラガスのマヨネーズがけが残っていて、私は唯のお弁当が好きだった。唯がこんなことをしたのか。それがわかっているのは、多分私だけだ。
藍は何もなかったかのように私の方にむき直した。
「陽愛ちゃんの制服まったく見覚えなかったんだけどどこの高校?」
「東京のG音高」
「へー知らん。けど制服めっちゃ可愛いね!」
だと思った。G音高は誰でも聞き覚えがある有名な高校だが、藍の予想通りの反応に私たちは苦笑した。
「陽愛ちゃんはピアノなんですね」
レヴィが私たちの真ん中にスマホを置く。
ああ、もう調べたのか。好奇心が旺盛だな私は目を細めた。
画面には雪のようなドレスを着た少女。私が真っ先に思い浮かべたのは、小学校のときに授業で歌った「雪のおどり」だった。藍とレヴィは興味ありげに、唯は二人よりは引き気味に画面を見つめていた。私もあまり興味はなくて、卵焼きと一緒にご飯を口の中に詰める。卵焼きでご飯は進みが悪いけれど、私は咀嚼し続けた。
レヴィが再生ボタンを押した。ゆったりとした主旋律のイントロ。はじめの一音を聞いた瞬間、私の箸は止まった。三人が喋っている声は聞こえない。ピアノの音だけを無意識且つ本能的に私の耳が拾ってしまっている。
最初の四小節は樹木の息遣いがする秋の夜の静けさだ。私はずっと自分の弁当箱に視線を留め、あの長方形の世界の中には入らないようにしたかった。
続いて突風が吹き付ける。肌を切り裂く乾燥した空気を主旋律を受けた左手が奏でる。右手の細かい動きが序盤はかなり難しい。あの少女の成長しきっていない体では、幅広い音域を奏でるための上半身の体重移動が難しいが、音色はまったくそのハンデを感じさせない。
目の前にはきんぴらゴボウ、ほうれん草のごま和え、機能の鶏肉の照り焼きの残り、卵焼き、白米があと一口分。
見える。外はまだ暗い中、キッチンに明りがついている。聞こえる。窓に強い風が打ちつける。生き物を殺す風と同じくらい冷たい水がシンクに打ちつけられる。その右後ろの部屋で、あの子のショパンが聞こえる。部屋にいるのは陽愛。みんなの朝ご飯と私たちの分の昼ご飯を作っているのはお母さんだ。
なんだっけ、この曲の名前。何度も何度も聞いたことがあるはずなのに、楽譜を真っ黒にする無数の十六分音符が邪魔をする。顔を歪ませながら、お母さんは卵に手を伸ばす。陽愛も毎日誰よりも早く起きて練習する。毎日。毎日。休まずに。
「咲夜、呼んでるよ」
藍に肩を揺すられはっと顔を上げる。後ろ後ろ、と指差す方には陸上部一年の千春がいた。演奏は既に終了しており、レヴィが「素人の感想ですけど、上手かったですね」と言いながらスマホをしまった。
「咲夜さん。江崎先生が今日の練習メニュー渡すから、今すぐ来いって言ってました」
場の空気が顧問の呼び出しのせいで一気に冷める。それに気づいた千春は、四人の先輩たちの視線に萎縮していた。
「今行く。わざわざありがと」
千春のせいじゃないんだけどねと思いながら、残った弁当の中身を口に詰め込む。色んな味が混ざって、もう何を食べているのかわからなかった。
「千春~、でかいからって今日も練習中に靴踏むなよー」
「今年中に一回は咲夜に勝てよー」
藍がかけた言葉に千春は、苦笑いしながら教室を出た。千春は私や唯と同じ三千メートル走なのだが、自己ベストの記録は私とほとんど変わらない。とはいえ、来週の記録会では抜かれることはないだろう。
「千春あいつ練習の虫だからな~。江崎かサクが止めないと絶対その内怪我するだろ」
千春は朝練、放課後練の他にも別メニューがあって自分で練習しているらしい。だが、オーバーワークなきらいがあって、怖いなと思うときもあった。
藍と唯が話している間に、私は弁当箱を閉まってリュックを背負う。
「練習メニューだけなら、こっちに戻ってきてもいいんじゃないですか?」
「ライン引き、マネージャーだけにやらせるのもまずいから、そのまま部室行くよ。ちゃんと時間守って部室に来てね」
廊下に出て、やっぱ今日はタイツだったな、と体を震わせながら思った。暖房がないと、寒くて死にそうだ。
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