お姉ちゃん ④

「終ーわり!」

 自室の机に広げた勉強道具を全て片づけ、私は枕に顔を埋めた。一日のタスクの全てを終え、ほどよい疲労感と全て計画通りにいったときの達成感が体を包み込む。部活はいつもと変わらない強度だったが、久しぶりの部活にしてはそこまで悪い感覚じゃなかった。千春の体は相変わらずキレキレで、もう少し強度を上げたいような顔をしてたけれど、今は維持したほうがいいだろう。トラック練の後は、唯や藍が祈るように四つん這いになってたし。

 時計を見ると、十二時ちょうど。寝る前に何か飲もうと一階への階段を下っているとき、ココアを載せたトレーを運んでいるお母さんを見つけた。

「咲夜、ちょうどよかった。これ、飲みたいだろうなと思って」

 ナイスタイミングに顔がほころんだ。

「ありがとーお母さん」

私を見て微笑むお母さん。嬉しさがほとんどだが、ほんの少し口の中で刺が突くような不快感がした。


 仲が悪いわけではない。会話がないわけじゃない。反抗期というわけでもない。でも、最近の私は自分でも変だと自覚できるくらい、お母さんに対してちぐはぐしてる。嬉しかったり、凄くむかついたり、頭が爆発するくらい怒ったり、涙が枯れるくらい悲しかったり。誰かに見られることなんて、あるわけないからいいんだけど。

 ココアだけ受け取って階段を上りながら、一口飲んだところで私は足を止めた。

「お母さん、これあんまり甘くない」

 甘いのが私の好みなのに、このココアはカカオ独特の苦みがあって甘さがない。というか苦い。

「ああ、陽愛が前にこれがいいって言ってたから。おいしくなかった?」

 私と陽愛の味覚が合わないことぐらい知っているだろうに。

「まっず。水飲んでくる」

 階段を降りると、自室を出てから聞こえていたピアノの音が大きくなる。

「……まだやってるんだ」

 私が十時に帰ってきたから、少なくとも二時間以上は続いている。ほんと頑張るわよね、というお母さんの言葉に目元を歪ませているのが見えないよう、私は横を向いた。

「そーだね。毎日毎日よくやってるよ」

 朝は早いときには五時から。遅いときには十二時を過ぎてもピアノの音が聞こえてくる。もう私の知らない曲がほとんどだ。

「周りの子もだいぶレベルが高いから、刺激があるんでしょうね」

 家から音高までは一時間以上かかるので、朝六時半には家を出ている。その通学時間のハンデを差し引いても実力が高いことは、コンクールの成績を見れば明らかだ。

「ほんと、咲夜と比べて手が掛かるけどね。今日も帰ってきてまた喧嘩してそのままピアノ部屋に籠もってるし」

 そう言いつつ、結局は甘えてくる陽愛のことは満更でもないくせに。こっちのことなんて何も気にしないで、素直に喜べばいいのに。そういう気遣いは吐き気がするくらい嫌いだ。

「ちょっと危なっかしくて心配だけど、本人は今一番熱が籠もっているわね。尊敬するくらい」

「そう……だね」

 一週間前よりも上手くなっている……かもしれない。もう、どれだけ上手いのかも測れなくなっていた。


 本当に、そう思うよ。

「あ、そうだ。咲夜、まだお弁当出してないでしょ。早く出しなさい」

 先に勉強に手を出していたせいで、まだ出していなかった。はーい、と生返事をしながら階段を上がる。

「お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい」

 ドアノブを握る手に力が入った。ガタン、と音をたててドアノブはそれ以上下がらない。力が抜けていく。

 チンした方が楽に決まっているのに。お母さんは栄養が大事だからと言って、二人分の弁当を毎日作る。冷凍食品でも私は文句を言ったりしないのに。面倒だったら、お金だけ渡してくれても別になんとも思わないのに。

「わかってるようっさいな」

 声を荒げない自制心はまだ残っていた。いや、届く前に溶け落ちてしまったのかもしれない。ドアを少し強めに閉めて、私は軽くなったリュックから弁当箱を取り出した。


「そんなの……、ずっと前からわかってるよ」

 前に陽愛とお母さんが五日ほど家を空けたとき、お父さんがオーストラリアで働いているため、家は私一人だった。その時の家事の大変さや否や、食事洗濯はもちろん家中の掃除や送り迎えに加えて、パートもこなしていると思うと頭が上がらない。

 だからすごいと思ったのだ。お父さんがすごくないとか、そういうわけじゃない。ただ、お父さんは七千キロ離れたところで今、何をしているのかわからない。お母さんはここにいて、弁当を洗った後、すぐ寝る。そして、明日朝早く起きて朝食を、お弁当を作る。なぜならわたし達がいるから。当たり前に、毎日当たり前にやる。

 お母さんなりの証明なのかもしれない。

 私が購買で買うから弁当はいらないと言えば、きっと弁当の代わりに昼食代をくれるだろう。だが、お母さんは弁当を作り続ける。陽愛の分があるから。


 わかってる。弁当一つで、何も変わりはしないことくらい。

「だから私は――、」

 途中でやめてうずくまった。骨が皮膚を突き破ってフローリングと直に触れる。床の冷たさがもう日を跨いだことを教えてくれた。寝たい。でもって、忘れたい。


――私はあんたの姉なんだから。

――あたしも最後のシーンは号泣して、観た日は家族を大事にしようって思ったわー。

 また嫌なことを思い出した。

『家族が生きた証』。私たちが席についたときには予告が終わっていた。三者面談が伸びたせいと唯は言っていたが、それは半分嘘だ。

 もう半分の理由は、やっぱり別の映画にしようと、私が券売機の前でごねたからだ。

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