お姉ちゃん ⑦
「咲夜―!ラストー!」
藍の声が私の喉を絞った。
視界が晴れ、ラスト一周を知らせる鐘が鳴る。私の一メートル前には紺のユニフォームを着た綺麗な髪の選手が一人。後ろにはたくさん。そして、千春が私の背中にぴったりとつく気配は、ずっと途切れない。今日のレースが全体的に速めなことは最初の一周で頭に入った。私たち三人の誰かがこのレースに勝つだろう。
タイムを一瞥する。自己ベストジャスト。いける。自己ベストを更新するだけの体力はある。勝つための練習はしたはずだ。
右腕を一度大きく引くと、姿勢がわずかによくなった。引いた右腕を前に強く振る。短い一息で腕全体に力を分散させ、今までよりもストライドを大きく、腕を速く振る。あと二メートル。
単純な命令しか通らないような状態でも、私の体は正常に動く。あと一メートル。
私の右後ろから風が吹き抜けた。赤いユニフォームが目端に映る。千春だ。千春は私を抜き、その前の選手をも抜いてもスピードが落ちない。少しずつ離れていく。
――千春~、でかいからって今日も練習中に靴踏むなよー。
一六八センチと一五八センチ。千春の大きなストライドは、ロケットエンジンをつけたかのように私をどんどん突き放していく。
こんなに速かっただろうか。
あともう少し、もう少しなのに。いつも『少し』が本当に遠い。
今年のインターハイ予選ではあと一人の枠を、同じくあとトラック一周まで私の真後ろにいた子に最後競り負けて逃した。
待ってと言っても止まってくれるわけない。
バッハ、ドビュッシー、モーツァルト、ブルグミュラー。ショパンのときもあったっけ。
何度陽愛がトロフィーを貰う姿を見ただろう。何度、お母さんが泣く姿を見ただろう。何度陽愛がノイローゼ寸前になるまで練習を続けるのを見ただろう。
今日もまた一人、私を追い抜いていく人がいるだけだ。ただそれだけのこと。涙なんて出ない。
息が整えきれない私の隣に誰かがきた。多分唯だ。
「あ~。づかれだもうだめ死ぬ死ぬ死ぬ」
「死ぬ死ぬって……。江崎先生が訊いたらまた怒られるよ」
私は立ち上がり膝を手ではらう。唯が隣で疲れてくれてるおかげで、回復が早くなった気がした。
「どうだった?」
四つん這いの姿勢で唯は訊いてきた。唯に私の顔は見えない。
「自己ベスト……より〇コンマ五秒遅かった」
「千春とは?」
「負けた。三秒自己ベスト縮めてたよ」
「まじか。覚醒したか~?」
私は「かもね」と言いながら頷く。速かったし、早かった。私たちの先にいた千春は、険しい顔をしたまま呼吸を整えていた。この顔を私は知っている。自分の結果に納得していない顔だ。胃がきゅっと締まる音がした。だめだ。勝てる気が――、
「悔しいっしょ?」
「え?」
私の視界が、また一つ開けた気がした。唯がそんなことを訊くとは思わなかった。
「違うの?」
「……悔しいよ」
それが私の正直な感想だった。
「またがんばりましょーや、キャプテン」
唯はカラカラ笑いながら、肩の吐出している部分をパンパン叩いた。そうなんだよな。私は主将なんだよな。唯の叩いた肩を押さえて「痛いよバカ」と呻いた。
「唯はどうだったの?」
「あたしは自己ベスト出せなかったー。ちょっと仕掛けるタイミング間違ったかもしれない。こりゃ、練習計画から見直しかな」
遠くへと行ってしまったくせに、速く走れと言う陽愛。私をあっという間に追い抜いていった千春。多分、引退するまで唯には負けないだろう。大丈夫だ。
いけない。分けてはいけない。
安堵していた私を外に閉めだし、そっか、と言いながら私もやられたところを同じ強さで叩いてやろうと手を伸ばすが、唯の手に軽く叩き落とされてだらりと揺れた。
私は口の肉を強く噛んだ。千春に負けたのは、たしかに悔しい。
だけど、唯に訊かれるまで、悔しいことをまったく自覚していなかった。
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