お姉ちゃん ⑥

ピアノをやめたのは、陽愛に勝てなくなったからだ。

 私は大抵のことはなんでもできた。勉強だって、ピアノだって、要領を掴むのには苦労しなかった。反面、陽愛はやってもできなかった。その大半は、根本的なやり方が間違っていることが多かったが、私が教えてもできたことの方が少なかった。ピアノもどうせ無理だと思っていた。


 だが、陽愛は好きなことに自分の全ての情熱を注ぐことができた。それがピアノだった。

 小学校五年生のときには、今まで予選落ちしたことがなかったコンクールで私が予選落ちして初めて陽愛が本戦に進むと、そのまま最優秀賞を獲得した。お母さんが涙を流したのを、私はそのとき初めて見た。自分の時は知らないところでは、お母さんは泣いてくれたのだろうか。微かな希望が切れないように、私は心の中で繋ぎ留めていた。

「お姉ちゃん、ターッチ!」

 自分と同じ顔が手を合わせようとするのを、私はこのとき初めて気持ち悪いと思った。陽愛もこんな気持ちだったのだろうか。触らないで、近づかないでと拒むこともできたし、拒もうと思った。しかし、私の前にいるのは私ではなく陽愛という妹で、私たちの隣にいたのはお母さんだった。


 私は拒むことはできなかった。

「ターッチ!」

 触れた手は汗で濡れていて、そして冷えていた。

 そのあと一年ピアノを続けたが、一度も陽愛に勝つことはできなかった。やってもやっても、陽愛は絶対に私より多く弾く。一曲でも多く、一小節でもより正確に。私より良い演奏に仕上げてくる。ピアノの取り合いなんてしょっちゅうだったが、いつからか陽愛が前よりも強く主張するようになった。

 コンクールでも前より自信がなくなった。何をよりどころにして緊張を解いていたのか、私はわからなくなった。


 今まで妹が気にしていた『みんな』からの視線が、私の柔らかいところに刺さるようになった。

 相変わらずピアノ以外はてんでだめだが、ピアノが周りの誰よりも上手いというそれだけで、周囲から向けられる視線が違っていた。お父さんお母さんも陽愛をひとりの娘としてではなく、一人の人間として見ている節があった。私にはそういったものがなかった。コツを掴むのは誰よりも早かったが、それ以上ができなかった。


――咲夜さんの偏差値ですと、第一志望の国立大学は十分合格を狙えます。本人にはもう少し上の大学を狙ってみてはと相談したのですが、ここでいいと仰るので。

――そうですね。咲夜に関しては、ほとんど何も心配していません。咲夜はお姉ちゃんとして、本当によくやってくれています。わたしの『自慢の娘』です。


 そりゃあね。お母さんに褒められたくて、お姉ちゃん役をやっているのだから。特別行きたい大学があるわけではなかった。ただ、陽愛が音大に進学するのならば、その後のことも考えて、きっと私は家から通える国立大学を選択した方がいいだろうなと思った。大学でやりたいことが見つかればいいな、と思いつつ、一年後にどうなっているのか、不安もあった。


 私が自慢の娘でいるだけじゃ満足できなくなったことを、お母さんは知ってるの?


――うちが親だったら咲夜みたいな子がいいよ。絶対手が掛からないもん。

 そうだね。だって、それが今までずっと褒められてきたやり方だったんだもん。


 『家族が生きた証』という映画を観たくなかった理由の一つは、単純に家族映画が嫌いだったからだ。家族の中での剥き出しの感情、葛藤、それだけならどうでもいい。しかし、誰しもが一回はテレビで観たことがある、古き良き家族像の押しつけをする家族映画は、私が欲しいものとは一番遠い距離にあると断言できるほど対極的で、特に最後、家族がミツルに『ありがとう、お姉ちゃん』と言うシーンなんかは、胃の中を空っぽにしておかないと観てられなかった。


 今本当に欲しているものは、全部陽愛が持っている。私が持っていないものを全て。


 嫉妬できたらどれだけよかっただろう。ずっと彼女のピアノを聞いてきた私は、どうやって陽愛が上達してきたのかを知っている。


 嫉妬なんて、できるはずがない。

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