お姉ちゃん
Massu
お姉ちゃん ①
長い距離を走ることが、私は昔から好きだった。高校でも陸上部に入ってこれまでより長い距離を走っても、練習がきつくても、好きなことに変わりはなかった。
――走れ。
けれど、走れと誰かに命令されるのは嫌だった。わかるでしょ?ほら、勉強しようとしてるときに親がやれって言ってくる感じ。これは陸上部顧問の太くのっぺりした声でもなければ、八月に引退した先輩の鈴のように綺麗な声でもない。これは私の一部だ。頭の中を私の声が反響する。
もうこれで何十回目だろう。走っているときに『走れ』だなんて、全く意味不明だ。私はずっと走っているのに、あとどれだけ走ればいいのだろう。私の肌は大会用の赤いユニフォームと、青いラインの入ったお気に入りのランニングシューズが覆っている。外がいくら寒くても、走ってしまえば内側は狂い死ぬほど滾ってしまう。
――そんなんじゃダメだ。
うるさい。だからもうずっと走ってるんだって。足はぼろぼろで筋繊維が悲鳴を上げて今にも痙りそう。今足を止めたらもう走れない気さえするのに、いつから走っているのかさえわからないのに、この声はどれだけ過剰要求しているの?
――遅い。もっと腕を振ってストライドを大きく。顎が下がってる。呼吸を整えろ。そんなチンタラ走ってたらあいつに追いつけない。
私は『あいつ』に反応して目だけを動かすが、私以外には誰もいない。そもそも、辺りが真っ暗じゃあ、真っ直ぐ走れているのかすらわからない。
それに『あいつ』って誰?
「本当はわかってるくせに」
今度は耳元で囁いた声に、背中をびくりとさせる。
私は舌打ちをした。とぼけることを許してくれなかった。
「ずーっとずーっと先を走っている、あれだよ」
声の主が伸ばす手の遙か先、そして私の走るずっと先には、人の形をした小さな光が走っていて、またさらに遠のいていくのが見える。
「見失っちゃだめだよ。ほら、頑張って」
――走れ。
二つの手が背中を強く押す。私は勢いを活かしきれずに転び、地面に膝を擦り剥いた。声を上げようと後ろを向いたけど、誰もいなかった。
「立って」
地面についた私の手を引っ張ったのは、私と瓜二つの顔をした妹の
「ほら、靴紐が解けてるから転んだんだよ。縛ったら、早く追いかけて。お姉ちゃん」
私の視界には白い息がヒュウヒュウと立ち上り、白い冷たさが肌に染みを作った。雪が降り始めたんだ。止まる前よりも足が重くて、息するのも辛い。
でも、光がどんどん遠ざかっていく。
「嫌だ」
私は首を振った。
「だめ。約束したでしょ」
「もう、いいでしょ……」
体が動かないのだから、仕方ないじゃないか。
陽愛の表情が一瞬曇ったように見えた。
――まだ。走れ。走れ。ずっと走れ。
空っぽの頭に再び声が反響するが、私はそれでも一歩たりとも踏み出せなかった。陽愛は宥めるように私の背中をさする。ようやく諦めてくれたのかとほっとしながら彼女の方を向くと、今の今花咲いたばかりの希望が両手でビリビリに破かれたことを悟った。私がかつて陽愛に向かって作った表情を、そのまま真似して彼女は言った。
「待ってるね。お姉ちゃん」
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