お姉ちゃん ⑧

 玄関を開けても、ピアノの音が聞こえてこないことに私は驚いた。

 記録会で重くなった足で自分の部屋には直行せず、私は『ピアノ部屋』と呼んでいる部屋をのぞく。ドアは少し開いており、七畳ほどの部屋の真ん中にはヤマハのグランドピアノが部屋の半分以上の面積を占めている。残りのスペースは譜面がしまわれている棚と、小学校まで使っていたアップライトピアノが隅にある。私はこのグランドピアノを触ったことがない。けれど、弾きたいと思ったことは、ないわけでもなかった。

 私は部屋の中に入り、グランドピアノのイスに座る。高さを調整する必要はない。グランドピアノのキーカバーは外されていた。あとは弾くだけだ。だが、何を弾けばいいのかわからない。指が動かなかった。


「弾かないの?」

 諦めてイスから降りようとしたとき、私の声が部屋に響く。陽愛がドアの前にいた。外出用の恰好をしている彼女は、今日も東京にいる先生のところまで行ってきたのだろう。こんな所を見られて、私はばつが悪くなった。適当にごまかそう。

「弾くつもりはないよ。だって弾ける曲がないもん」

 私は部屋から出ようとするが、陽愛はドアの前から退かない。

「適当に叩くだけでも、わたしは文句言ったりしないのに」

 面白くないね、と言いながら後ろからキャリーバックを引っ張り出した。

「もうすぐ行くから、その後好きにすれば」

 そうか、明日か。私はこの部屋からピアノが聞こえなかった理由を理解した。明日大阪でコンクールがあるから、そのための荷物を詰めていたのだろう。

「いやいや、弾かないよ」

「そう?わたしはお姉ちゃんが弾きたそうに見えたけど」

「やめてよー。今のはたまたまそういう気分なだけだって。私がピアノはもう弾かないって言ったの、忘れてないでしょ」


 自分の言い訳が白々しいことはわかっていた。しかし陽愛はふーん、と唸るだけで深くは追求しなかった。

「今日の記録会はどうだったの?」

 陽愛が部活の話を訊きたがるのは、よくあることだった。安堵した私はそのまま応える。

「順位はまあまあって感じ。でも、同じ学校の後輩に抜かれちゃってその子が一位だった」

「あー、前見せてもらったあのひょろ長い子か。けど、抜かし抜かされって感じでしょ?これから頑張って抜かせばいいじゃん」

「どうだろうね。できるかな」


 千春には次の記録会でも勝てる気がしない。あとどれくらい走ればいいんだろう。ただ走るだけならどこまで走れるかなんて考えないのに。記録を縮めるためにはどうすればいいのか、どうやったら縮められるのか、どうしたら千春に勝てるかは想像がつかない。


――こりゃ、練習計画から見直しかな。

 そうなのかな?


「また弱気になる」

「別にそんなつもりじゃあ」

「なってる」

 私はただわからないだけなのに、陽愛は強気に断定する。そうであるという事実に、無理やり落とし込むように。

「できるかどうかわからないなんて、みんな一緒だよ。だからみんな何かに縋ろうとする。でもお姉ちゃんのは、できるかどうかの前に気持ちで負けてるんだよ」

「そうかもね」

 私は否定できずに、すっぽりと陽愛の論理に型取られて収まった。

「コンクール頑張ってね」

「え、ああうん。まあ滅茶苦茶緊張するけど、一番目指すよ」

 一番を目指せるだけの実力を持っていても、陽愛には硬さがあった。でも本番前に硬さがあるのは、陽愛にとってはいい結果が出る前兆だ。きっと今回も結果を残す。

「私は本当にいい妹に恵まれたよ」


 これは本心だった。

 目覚ましをかけなくても、毎日ピアノの音で起きる。私の家の中にはずっとピアノの音があった。勉強しているときも、スマホをいじっているときも、トイレにいるときも。私はこの部屋にあまり近づきたくはないれど、陽愛のピアノは止まることなく、高々と飛ぶように上達している。


「はぁ?」

 だから、陽愛の目つきがこちらを咎めるかのように剣呑なものになっていることは、私にとって意外だった。陽愛は今怒っている。どうして?

「何それ。わたしに対する当てつけ?」

 陽愛はなんでもお見通しな目で私を捉える。釘打ちされたかのように顔が動かなかった。

「わたしが今怒っているのはわかるでしょ」

「……うん、なんで怒ってるのかはわからないけど」

「あーもう!この姉はぁ!」

 陽愛は髪を掻きながら私に詰め寄った。狼狽して後ろに下がると、背中に硬い感触が当たる。グランドピアノだ。

「わたしが今苛ついてるのはね!お姉ちゃんがそういう目でわたしを見て、『自分は何もできません』とか『自分ができないのは仕方がないね』みたいな感じを出してることなんだよ!」


 陽愛の唾が頬に飛んだ。熱い。

 私はただ陽愛のことがすごいと思って口にしただけなのに、陽愛からすれば、私が陽愛を見てできないことに諦めていると解釈されていることが心外だった。

「ずっとそうだよね!わたしが初めてお姉ちゃんより上の賞とったときから、お姉ちゃんはわたしより練習しなくなったじゃん!」

「いや、違うそれは陽愛の練習量が多かったか――」

「違う!」

 しんと冷えた廊下は、陽愛の声でまた一段と肌に刺さった。

「わたしがずっと上手くなりたくてお姉ちゃんに勝ちたかったころよりも、明らかにサボるようになったじゃん!つまらなくてピアノをやめたんだったら、それでいいとわたしは思ってた!」


 違う。


――走れ。

「だけどさ!本当は目標があって、そこに向かって走らなきゃいけないのに!」

 違うと否定しなければいけないのに。


――走れ。

 うるさいうるさいうるさい。


「お姉ちゃんはいっつも少し手前で止まるじゃん!」

「それは……」

 やってもやっても、陽愛は私を意識してか絶対に私より多く弾く。一曲でも多く、一小節でもより正確に。私よりよりよいピアノに仕上げてくるから。

「わたしに偉そうなこと言っておいて、自分じゃ何にもしようとしないじゃん!」

「そんなに怒ることないじゃん」

「怒るよ!だから『わたしたちを比べるやつなんて全員ぎゃふんと言わせよ!』って言ったじゃん!いつになったら本気で走るの⁉いつになったらぎゃふんと言わせられるの⁉わたしたちはまだできてないんだよ!」

 思い出した。薄い記憶の断片が蘇る。でもそんなの――、


「そんなの、子供の頃にしたちっぽけな約束じゃ――」

 口に出しちゃいけなかったと気づいたときには、陽愛はもうわなわなと烈火のごとく震えていて、今にも噴火しそうだった。

 だけど、私には無理だよ。陽愛みたいな努力も、千春みたいなひたむきさも。


 陽愛はやがて諦めたように肩を落とした。

「じゃあ、お姉ちゃんが今したいことは?」

 そのとき、玄関が開いた音がした。お母さんが帰ってきたんだ。私は陽愛が言い出すことを必死で止めようとした。だが、陽愛は細い手で私の腕を押さえる。

「ただいまー。あれ、陽愛?もう行く時間だけどトランクは?」

 緊張感のない声が、陽愛を押さえる力を強める。

「わたし知ってるよ。お姉ちゃんは『自慢の娘』じゃなくて――」


――今本当に欲しているものは、全部陽愛が持っている。私が持っていないものを全て。

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