お姉ちゃん ⑨
ピアノをやめたのは、陽愛に勝てなくなったからだ。
――走れ。
いや、違う。
ピアノをやめたのは、陽愛に勝てないと思っただけじゃない。
陽愛を追いかけることに、耐えられなかったからだ。
――走れ。
姉として妹を追いかけることに、私のプライドが邪魔をした。羞恥心が勝った。かっこ悪いから。ピアノから逃げたのではない。結局、私は陽愛や私から逃げたのだ。
いつだって走りたいと思うときがある。風が気持ちいいとき、晴れているとき、いいことがあったとき、嫌なことがあったとき、なんでもないとき。だからこそ、どんなに風が気持ちよくても、晴れていても、走りたくないとき、猛烈に止まっていたいときがある。深い水の中に体を投げ入れて、水の流れに身を任せて魚の餌にでもなってしまえという無警戒さと無計画さで、目を閉じて沈んでしまいたい衝動が暴力的に私を打ちのめすときがある。
――走れ走れ走れ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
「ヘイ、サク!」
レヴィが教室で流した演奏動画。あれは陽愛ではなく、昔の私の演奏動画だ。最初の一音で確信した。燃えた楽譜の灰を瓶詰めにした砂時計が、私の前で流れ落ちたのだと思って鳥肌が止まらなかった。あの曲は陽愛に勝つために、あえて難易度の高いものを選んだものだ。しかし、要求水準を満たせず後半はぼろぼろで、私は無様な演奏をして陽愛に負けた。
陽愛は特別だけど、私はどこにも踏み出せていない。
「ヘイサク、おい無視すんな!」
「いたっ」
頬をぐりぐりと指で突っつかれ走るのをやめると、私の隣には唯がいた。
「いたの?」
「いたわ!」
いつも中長距離組が使っている湖周辺のランニングコースも、今日はオフのためほとんど人が見当たらず風通りがいい。というか、どうして唯がここに?
「窓見たらサクが走ってるから、気になって待ってたら通り過ぎてっちゃうんだもん」
唯の家はこの近くだった。私はびっくりするほどのことでもないでしょ、と呟く。
「薄着で寒くないの?」
唯は呆れ交じりに訊いた私の恰好は、十二月なのに半袖ハーフパンツだ。ちなみにこの服装で、八月の練習にも余裕で出れる。
「……止まってると寒い。てかめっちゃ寒い」
「ほら。無理すると風邪引くか、中学の時みたいに怪我するよ」
ああ、あれか、ともうほとんど残っていない手術跡を一瞥する。
「陽愛と喧嘩したの?」
エスパーか。私を見る唯はしたり顔だった。
「仲いいね」
「ちょっと言い争いしただけだよ」
「なーにが『ちょっと』だよ。中学のときはマックで口喧嘩したあと『走らなきゃ。走らなきゃ』ってぶつぶつ言って、何言ってんだこいつと思って放っておけば、いつの間にか膝をやって手術だったじゃん」
そんなこともあったな、と苦笑する。
「今日のは違うよ。ただ気分変えたくて走りに来ただけ」
休日でも走ることはあるでしょ、と唯を納得させる。
「千春に負けたくなくないじゃなくて、喧嘩したから走る方があたしには異常な感じするけど」
「もちろんそれもあるよ」
トラックで走っているときには聞こえない『走れ』という命令は、陽愛のことを思うだけで掻き立てるように意識させられる。
「もうここから逃げ出したいなって、ずっと思って走ってた。でもさ、いつの間にかまた一周してここに戻ってきた」
「ランニングコースは一周するようにできてるんだから、そういうもんじゃないの?」
「その話じゃなくて」
陽愛のことだよ、と念押しする。
「『走れ。走れ。』って私の後ろの影が囁くの。『止まったらだめだ。もっと速く走れ』って。可笑しいと思わない?陽愛とはもう競争しないって決めたのに。陽愛から逃げたのに。私はまだ陽愛と競争しているつもりでいるんだよ?」
だから私の先には千春でも他の速い選手でもなく、いつも陽愛がいる。私が作り出した陽愛の幻影が、私の後ろから伸びる影が、背中を押して手を引っ張って、前に前にと進ませようとする。
「陽愛と競争して、どうしたいの?」
唯の目は真っ直ぐこちらを捉えていた。踏んづけた枯れ葉がカサッと小気味よい音を立てて、足をどけるとくしゃくしゃに割れていた。
「咲夜は何をしたいの?あたしにはそれがわからない」
唯は多分知っている。私が千春に負けて悔しさを感じていないことを。
「わたし知ってるよ。お姉ちゃんは『自慢の娘』じゃなくて――」
陽愛が唯に喋っているのかと思った。
しかし、実際の唯は首を傾げたまま、私の口から出るものを待っている。
「私は――」
私の舌は枯れ葉のように水分が抜けて、動かすことができなかった。
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