後篇


【五】


 玖嶄とゆらの闘いの直後。

 ゆらの死体だけが残された山小屋に、ふたりの男が姿を現した。


 一人は、三十を越えた頃合いの男だった。

 黒く、伸ばし放題の長髪。藤色の着流し。

 飢えた獣のような雰囲気を放つ男だった。

 大小を脇に差し、その柄に手を乗せていた。


 男の特徴として、一番特異だったのは、彼の右目だった。

 右目の光彩の色が、金色なのである。

 さらに、右の眼球は絶えずぎょろぎょろと動き、常に上下左右とあらぬ方向を向いている。時折、左目と同じ方を凝視する瞬間はあるものの、大概は、あっちを見て、こっちを見てを右目だけで行っているのだ。

 さながら、男の右眼球だけが独立して意思を持っているかのようだった。 


 男の名は、渦葉うずは眼之介がんのすけといった。


 もう一人の男は、腰の曲がった老爺である。

 つい先ほどまで畑仕事をしていた、といったような風体だった。

 ほっかむりを着け、好々翁然とした雰囲気を身に纏っている。

 眼之介とは違い、荒事とはてんで無関係といったような風貌である。


かわうそ」眼之介が言った。「いつまでその格好でいるつもりだ」

「――おっと、忘れてた」


 かわうそと呼ばれた男が返事をする。

 次の瞬間、男の顔が膨らんだ。


 ごきり、という骨が砕ける音とともに、眼の位置が、鼻の位置が、口の位置が変わる。

 位置だけでは無く、形も変わる。

 ぐにぐにと肉が動く様子は、さながら粘土細工のようであった。

 見えない、巨大な手にこねられているかのように、みしみしと音を立てて変形しているのである。


 否、変わるのは顔だけではない。

 その体躯にも、急激な変化が訪れていた。

 関節が外れ、筋肉が裂け、骨格が砕ける。

 そして、壊れた部分がつなぎ合わさり、新たな身体を形作っている。


 数十秒後、眼之介の隣には、一人の美青年が立っていた。

 牛若丸もかくやというような美貌である。

 少年と青年の狭間のようなあどけなさを持ち、――同時に、口にたたえる笑みは、見る物をぞっとさせるような妖艶さを含んでいる。

 身長はすらりと高く、さきほどまで小柄な老爺の服を着ていたからか、袖口と足の部分の着物の丈が足りていない。

 獺は、被っていたほっかむりを外すと、懐へ仕舞った。


 ふたりは、地面へ転がっているゆらの死体へと歩み寄った。

「やっぱり、死んでる?」獺がへらへらと笑った。


 眼之介は、ゆらの首を足蹴にし、長い髪が隠していた彼女の顔を上へ向かせた。

 膝を屈めてしゃがみ込むと、彼女の首筋に指を当てる。

 口と鼻の前に手をかざしたあと、彼女のまぶたを上げ、瞳孔を確認した。


「死んでいるな」

「うわー。まあそうだろうと思ったけど、掌底一発で即死かよ、えげつねえ忍法だな」

「『一発』ではない」

「え?」

「二発だ。一撃に見えてあの一瞬で二発入れていた」

「マジ? 俺、遠眼鏡使ったのに全然見えなかったわ……」


 眼之介はおもむろにゆらの忍び装束の襟を力任せにひっぱり、胸のあたりをはだけさせた。

 彼女の、西瓜ほどもある大きな乳房が、まろび出る。重力に従い柔らかく揺れた。


「ちょ、ちょ、ちょっと、何してんの旦那!」

 獺が焦ったような声を出す。


「傷を調べるに決まっておるだろう。玖嶄が手首に何か刃物でも仕込んでいて、掌底の瞬間にそれを突き刺していた――といった可能性もある」

「ああ、そういうことね……。俺はてっきり眼之介の旦那がいきなり我慢できなくなっておっぱじめる・・・・・・のかと」

「たわけ。死人とまぐわう趣味は無い」

「まだあたたかいよ? きっと」


 獺の言葉を無視して、眼之介は検屍を始める。

 とはいえ、調べるべきところは限られている。玖嶄の打撃を受けた、胸部しか無い。

 豊かな谷間の奥、彼女の心臓のあるべきところを確認する。


「傷は無いな……刃物で突いたわけではない。純粋に打撃のみによって心臓を止めて見せたようだ」

「できるの? そんなこと」

「発勁――『鎧通し』に近い要領だろうな。外部ではなく内部だけを破壊する技術わざだ」

「……内部だけ・・・・?」

「そうだ。傷がないというのは、刺し傷だけではない。打撲痕や青痣もなく、あばらも折れていない」


 そう言うと、眼之介は立ち上がった。


「内に響く発勁を、素早く二度打ち込む。おそらくその衝撃の微妙なずれ・・によって、心の臓を即座に止める――というのが、この術の正体であろう」

「恐ろしい技だなぁ」

「否、そうでもない」

「え、なんで?」


 眼之介は、右手をすっと伸ばし、獺の胸の前で止めた。


「戦いにおいて、そもそも相手から胸に一撃を入れられるということは、死を意味しているからだ。別に今回のような忍術で無くとも、腕に隠した仕込み針でも打ち込まれたら同じことだろう」

「それもそっか」

「それに、『勁』を用いた打撃ということは、ただ殴るだけでは駄目だ。地面に両足を付けた状態で、身体の重心を移動させるための『溜め』が必要になる」

「つまり?」

「相手の胸に掌を付けた状態で、一瞬――力を籠める隙が生じるということだ」

「なるほどね」獺は得心が言ったように頷いた。

「そもそも、俺は兎も角、貴様は心臓を止められた程度・・・・・・・・・・では死なぬだろう」

「あー、たしかに」


 獺は不敵に微笑むと、ゆらの遺体の顔を覗き込んだ。


「それにしても、別嬪さんだよなー、もったいない」

「それが任務だ」

「いやだってよ、拾坐とかゆらとかの雑魚をいくら当てがっても、玖嶄を殺せるわけなくねぇ?」

「奴らの任務は玖嶄を殺すことではない。『探り』と『削り』だ」

「探りと削り?」

「下忍であろうと忍びは忍び。戦えば、今回のように玖嶄が忍法を見せる場合もある。そうでなくとも、どういう戦い方をするのかがわかるし、あるいは動きの癖なども見ることができるかもしれん――で、あれば、それをもとに対策を立て、次へ活かすことができる」

「それが探り?」

「そうだ。また、立て続けに敵に襲わせ続けることで、玖嶄を精神的にも、肉体的にも休ませないことが重要だ。戦いが続けば疲労する。疲労が溜まれば失敗をする。失敗をすれば傷を負う。傷を負い続ければ――いつかは死ぬ」

「それが削り?」

「そういうことだ」


 獺は、将棋の捨て駒みてえな扱いだな、と吐き捨てた。


「にしてもだよ。そんな使い捨てにできるほど、〈劫牙〉は人がいるわけ?」

「むしろ、余っておる」

「え?」これには獺も目を丸くする。「そうなの?」

「そうだ。天下泰平の世。忍者は数が増えすぎている。各地で諜報をするにしても――だ。それだけ、銭やら米やらが必要になる」

「じゃあ、もしかして今回の任務ってさ」

「そうだな。〈劫牙〉の里の口減らしも兼ねている。そう考えていいだろう」


 どひゃー、と、頭を搔いてから、獺が眼之介に向き直る。


「――それって、俺達・・も?」

「どうだろうな」眼之介は言った。「上の考えはわからん。だが、まあ俺達は本命――飛車や角であると、そう信じてやるしかない」

「世知辛ぇなぁ」獺が大きく溜息を吐く。「あーあ、俺も抜けてぇなぁ……」

「お前が抜け忍になったら、探す方は骨が折れるだろうな。ほら、行くぞ。――いまの科白は、聞かなかったことにしてやる」

「はいよ――と、なあ、死体これはどうすんの?」

「捨て置け。ここなら、明日にでも山犬が片付けておいてくれるだろう」


 そうして、ふたりは玖嶄が去った道を追い始める。


 山小屋には、ふたたびゆらの死体だけが残された。





【六】


 日が暮れる。

 蜩が鳴いていた。


 ゆらの死体のところへ、ひとつの影が姿を現した。

 山犬である。

 肉の匂いに惹かれ、死肉を喰らうためにやってきたのだ。


 野生動物特有の慎重さで、ゆらの死体の元へと近づく。

 涎を垂らした口には、鋭い牙が生えそろっていた。


 匂いを嗅ぐ。

 すんすんと鼻を鳴らし、顔を遺体に近づける。

 生きてはいないのか、何度か鼻先でゆらの顔を小突いて確かめる。

 反応は無い。

 間違いなく死んでいる。


 そして、この死体に在りついたのは、自分が一番乗りだ――。


 山犬が大きく口を開けた。


 その時、

 びくん――と。


 ゆらの身体が跳ねた・・・


 まさか――。

 山犬が、驚き、距離を取る。


 死んでいるはずの、ゆらの身体が動いたのだ。

 偶然ではない。


 離れた山犬の視線の先で、ゆらの身体が痙攣している。

 水からあげられた魚のように、びくびくと反射運動を繰り返しているのだ。


 動いている。筋肉が――そして、心臓が。


「がはっ――」


 彼女の口から、血の塊が飛び出した。

 そして、呼吸が戻る。

 

 こひゅう――という音を立てながら、何度も肺に息を吸い込む。吐き出す。

 目が開き、上半身が起き上がり、そして――。


 そして――。


 ゆらは、生き返った・・・・・。 


 地面にへたり込み、大きく深呼吸を繰り返している。

 彼女の呼吸は、水の中に長く潜り続けた者のように、激しい。息も絶え絶え、といった具合だ。

 しかし、それでも、確かに。

 彼女は生きていた。


 ――ありえない。


 そして、一番驚いているのは、ゆら自身であった。


 自分の手を見る。指を一本ずつ動かす。

 手を握る。開く。問題ない。

 ぐいと地面に手を付け、力を入れる。


 痺れのようなものが少し残っている。

 寝起きのように、身体に力が入らない。


 しかし、それでも、足取りはふらつきながらも――ゆらは身体を起こすことに成功した。


 ふらふらとした足取りで、小屋の中に入る。


 喉が渇いていた。

 水瓶から柄杓を使い、口をゆすぐ。

 そして、水を飲む。

 生ぬるい水が、喉を通る時には氷水のように感じられた。


 瞬く間に二杯を飲み干し、三杯目は頭からかけた。


 ふう――と、ゆらは息を吐き出した。


 落ち着いて、自分の状況を見直す。


(やはり――有り得ない)


 そう。死んでいた。間違いなく、自分は死んでいたはずだ。

 で、あるにも関わらず、いまこうして生きている。

 いったい、なぜ――。


 理由はひとつしか考えられない。

 玖嶄が自分に使った術、『忍法・仰ぎ蝉』だ。


 つまり、〈仰ぎ蝉〉は撃った対象の心臓を止めるだけではなく、時間が経過した後に蘇らせる蘇生の効果まである、そういうことだ。


(だが、いくらなんでも時間が経ちすぎている)


 〈劫牙〉では、心肺停止状態からの蘇生方法も学ぶ。

 人間は、心臓が止まれば呼吸が止まる。

 そして、呼吸が止まれば、二〇〇から三〇〇を数える間に、脳に回復不可能なダメージが残ってしまう。

 そして、五〇〇も過ぎれば、救命は絶望的になる。


 それが覆せない人体の仕組みだ。


 だが、ゆらは、明け六つから暮れ六つまでの半日もの間、死に続けていた――。

 そして、なんら後遺症無く生き返ることができている。


 どういうことだ。

 考えても答えは出ない。


 いったいどういう術理なのか、ゆらの理解の及ぶところではなかったのだが――とにかく、あの忍法は、人を長時間仮死状態にさせることができる。そういうことなのだろう。


 ゆらは、小屋を出た。

 夕暮れ。

 山の影に沈む太陽が、景色を橙色に染め上げていた。

 周囲にそびえる木々が、長い影を落としている。


 ゆらは、山小屋の周囲を調べる。

 自分と、玖嶄の物以外の足跡がふたつ見つかった。 


 おそらく〈劫牙〉の者の足跡だ。

 ゆらと玖嶄が闘うところを見て、そして、死体を確認しにきたのだろう。


 つまり、里にはゆらは死んだものとして報告される。


(玖嶄は、私を助けてくれたのでしょうか――)


 わざわざ、ゆらを仮死状態にする忍法を使い、このまま彼女が姿をくらましても、〈劫牙〉の追っ手が来ないような偽装工作を行なったのだ。


(いったい、なぜ――)


 答えは出ない。

 ゆらは、玖嶄を騙していたのである。命も狙った。

 殺される理由こそあれ、生かされる理由は無い。


 いや、それを言えば、わざわざ戻ってきたわけも不明だ。


 拾坐が忍びだと判明した時点で――あるいは、ゆらの身体を見た時点で――玖嶄は、ゆらが嘘をついていることは分かっていたはずだ。

 ならば、ゆらのところまで帰ってくる理由もないはずである。


 とっとと姿を消したほうが安全に違いない。

 それでも、危険を冒してまでゆらの前に姿を見せたのは。


(はじめから、私を助けるつもりだった……ということでしょうか)


 ゆらは頭を振る。

 いくら考えても答えは出そうにない。


 それより今は、ここを離れることが先決だろう。


 せっかく玖嶄が作った絶好の機会だ。

 これを逃すわけにはいかない。


 ゆらは、小屋に戻り、忍び装束を着替え、一通りの荷物を急いで風呂敷に包むと、山道を走り出した。


 考えてもいなかったことだ。

 自由。


 物心ついたころから、ずっと〈劫牙〉の里に居た。

 厳しい訓練を積み、忍びとして生き、そして、闇に消えるのだと。


 そこから解き放たれることなどないと、そう思って生きていた。

 しかし、今、ゆらは自由だった。


 突然もたらされた未来の可能性。

 戸惑う気持ちもあるが、とにかく、今は、逃げることだ。


 ゆらは、走り続けていた。

 山道を、ひたすらに駆け降りる。 


 蜩が鳴いていた。


 いまだかつてない状況に、彼女の胸の鼓動は高鳴り続けていた――。



【了】

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忍法・仰ぎ蝉 朽尾明核 @ersatz

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