第33話 帰ってきたよ(おまけエピローグ)

 夕方。家の呼び鈴が鳴るのを、私は玄関で待ち構えていた。


 ちょっと深呼吸。それから不自然じゃないくらいの間を空けて玄関口へ降りる。


 ドアを開けながら言った「はーい」の一言が、いつもよりワントーン高いのが自分でもわかった。


「お邪魔します。遅くなってごめんな」


 練習帰りで、大きなカバンを持った真司くんがドアの向こうに立っていた。


「ありがとう。疲れてるのに寄ってくれて」


「全然いいよ。——裕介先輩は?」


「お買い物頼んじゃった」


 せっけんと、トイレットペーパーと、洗剤と、お米と、まぐろのお刺身と、観葉植物と、ガムテープと、映画の前売り券と、シューズクリームと、ラップと、あと色々ね。


 2時間くらいは帰らないんじゃないかな。


 先輩、いつも買い物行かされてるよなあと真司くんが笑う。……真司くんがうちに来る時だけね。そんな言葉を飲み込んで、私は真司くんをリビングに通した。






 冷たいお茶を運ぶと、真司くんは数学のテキストとノートを広げていた。


 丁寧な文字でノートに数式を書き込んでいる。私がお茶を置くと、目線はノートに釘付けたまま「ありがとう」とお礼を言った。


 なんだか知的に見える。真剣だからなのか。真司くんだから、なのか。


 かっこいいな。


 つい見とれてしまった。


「——なぎさが教えてほしかったのって、ここであってるよね」


「あ、うん。それとね」


 隣に座ってテキストを覗き込むと、真司くんは「あ……」と何か言いかけて、座っている場所を少しずらした。


「なあに?」


「な、なんでもない。あ、いや……」


 じっと真司くんの目を見る。


 私にごまかしは通じない。それを一番よくわかっているからだろう。真司くんはシャツの胸元ボタンをとめながら答えた。


「練習してから直接きたからさ。あんま近づくと、汗臭いかなって」


 そう言って視線を逸らす真司くん。そういうの気にするんだ。

 

 大丈夫だよ、と私はぐっと身を寄せた。レモンのような制汗剤の香り。その奥に、なんだか穏やかな、落ち着く匂いがした。


 うん。気にしなくていいのに。


 少し緊張したような声で、真司くんが問題の解説をしてくれる。そこはさすが学年4位。教え方がわかりやすい。


 難しいと思っていた単元はあっという間に理解ができてしまった。


 ——もうちょっとわかんないフリしとけばよかったかな。でも私、フリとかできないしな。


 本当のことしか言えない体だから。


「真司くん、まだ時間ある?」


「あるけど」


「もう少し一緒にお話がしたい」


 素直なことしか言えない体。でも今は、それでいいと思った。


 頷いてテキストを畳む真司くん。そんな彼に、私は自然と寄りかかっていた。


 ——瞬きもせず、目線をまっすぐ向けたままの真司くん。目、乾いちゃうよ。


 水をうったような沈黙の中で、お互いの心臓の音だけが聞こえるような気がした。


「なぎさ……今朝はごめんな」


 真司くんのそんな声で、私は自然と閉じていた瞼を開いた。


「どうしたの、急に」


「今日の朝さ。せっかくうちまで来てくれたのに、まともに話できなかったから」


 二人で並んで歩く、真司くんとカナデ先輩の後ろ姿が頭に浮かんだ。


 つい数時間前のことなのに、なんだかずいぶん前の出来事のように思えた。


「ううん。カナデ先輩もいたんだし仕方がないよ。お世話になった人なんでしょ?」


「それは、そうなんだけど」


「?」


「お世話になったって言えば、なぎさもそうだし……」


 私? と自分を指してみる。真司くんは静かに首を縦に振った。


「俺が学校に行けるようになったのはカナデさんと裕介先輩のおかげだ。だから俺はカナデさんには本当に感謝してるし、恩人だと思ってる。

 でも、もう一度サッカーができるようになったのはなぎさのおかげなんだ」


 嘘のない、真司くんの本当の言葉。それがちゃんと胸に伝わってくる。


 カナデ先輩は真司くんにとって大事な人。でも、私のことも思ってくれている。


 それがわかった。それでいいと思った。


 でも真司くんが続けた言葉は、私が思っていたのと少し違った。


「俺は二度と取り戻せないと思っていたものを、なぎさのおかげで少しだけ取り戻すことができた。だからカナデさんと同じくらい……それ以上に、なぎさに恩返ししなくちゃって思ってる。勝手にね。

 なのに今の俺は、たぶんなぎさを困らせてると思う。自分に自信がもてなくて……なぎさが欲しい言葉を言えてないと思う」


「ふうん。

 真司くんには、私の欲しい言葉がわかってるんだ?」


「さすがに、なんとなくはね」


「いいよ。私、待ってる」


 真司くんの肩に頭を乗せた。真司くんは「俺は甘えてばっかだな」と困ったように言った。


「あんまり時間がかかるようだと、なぎさも待ってられないだろ。

 早いとこ昔の俺にもどらなくちゃな」


「いいんだよ。私はそんなの気にしてない。

 私が好きになったのは、今の真司くんだよ」


 あ。


「——あ」







「言っちゃった……」


「い、言わせてしまった……」






 二人して顔を覆う私たち。


 力が抜けたように息を吐いた真司くんだったけど、「い、いや」と力強く拳を握って私の方を向いた。


 お願い……顔見ないで。きっとすごいことになってるから。


 そんな私の心のうちにも構わず、真司くんは私の肩に両手を置いた。


「ごめん、ちゃんと俺から言うから。絶対、今の体質治すからさ」


 自分を認める言葉や、自分を想う言葉を受け取れない真司くんの体質。


 過去の辛い出来事によって生まれてしまった悲しい体質に、真司くんは何年も縛られ続けてきた。


 そんなに簡単に治せるわけがない。真司くんにもそれがわかっている。


 ——だから彼は、きっと私のために嘘をついた。


 頬を伝うピリッとした感覚。私は肩に置かれた真司くんの手のひらを、私の頬にそっと運んだ。


「——嘘。

 真司くん。私のために無理はしなくていいんだよ?」


「ご、ごめん。嘘、嫌いだったよな。

 あ、いや嘘って認めるのも変だしそういうつもりじゃないんだけど」


「いいの。嘘も、昔ほどダメじゃなくなってきたし」


 お父さんが騙されて、誰のことも信じられなくなった日。その日から私の体は嘘を受け入れなくなった。


 嘘に反応する身体。嘘を耳にすると、針で刺されるような痛みが全身に走った。


 誰かといるだけで苦痛を味わう人生。それが一生続く。そう思うと、自然と人が嫌いになっていった。






『——嘘。しかもばれるとわかっていて嘘をついてる。

 あなた何者?』






 真司くんと初めて会った日にあんな言い方になってしまったのも、耐えられないほどの痛みを嘘が与えてきたからだ。


 でも今はそんなことはない。


 それはもしかしたら……少しずつ、私の体は治ってきているのかもしれないって思う。


 それこそ真司くんのおかげで。


「大丈夫。真司くんの体質もきっと治るよ」


「簡単に言うね。本当にそう思う?」


「私、嘘つかない。

 今の言葉も。……さっきの言葉も」


 ——さっきは流れで口にしてしまった告白だったけど、今度はちょっとだけ勇気を出してみた。


 昔の真司くんは、あのカナデ先輩が憧れるくらい輝いていたのかもしれない。


 でも私は今の真司くんが好き。本当だよ。


「ありがとう。なぎさのおかげで、俺も少しだけ自信を取り戻せそうな気がするよ」


 そう言った真司くんの目には、光が宿っていた。今まで見たことがないような、吸い込まれるような光。


「……。あんまりカッコよくなられちゃうと、他の子に取られちゃいそうでやだなぁ」


「俺なんか誰も取らないだろ」


「それ本気で言ってる?」


 あかりとかカナデさんとか、名前知らないけどサッカーの応援にきてた人たちとか。


 ほんと危なっかしくて仕方ないよ。


「人気っていえば、なぎさの方がよっぽどだと思うぞ」


「私は他の男の子に興味ないから」


「——あんまはっきり言うなって……ドキドキするから」


「私、嘘つけないもん」


 顔を赤らめる真司くんに、私は自然と笑顔になっていた。


 





『帰ってきたよ』   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なぎさに嘘は通じない! ここプロ @kokopuro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ