にわとりという現代人の寓話

 これはにわとりの話だ。にわとりが自分語りしながら進む。この作者のいつものように、何やら量感を湛えた筆舌を持った物語である。
 というわけで、この感じに誘われて、にわとりとは何を言いたかったのか?それを考えるようになった。書いてあることを書いてある単純なままに読もうとせず、色んな見方をすることでそこから浮き上がる意味を考えてみようとする、私の悪い癖である。
 だから、にわとりを通して読者は様々な表象を感じるだろうし、今後の記述は「私の」ただのひとつの見え方なだけだ。

 主役にして語り手である登場動物を、名前がないので取り敢えず「にわとり」とする。にわとりは徹頭徹尾自分語りするキャラクターだ。でもそれは物語を進めるにあたって誰か語り手がいないとそもそも進まないのだから一見しょうがないことだ。
 しかし、なぜ語る者がにわとりなのか。第三者的な地の文による客観的なにわとりに関する記述ではなく、にわとりが、主観的に自分を語ることによって話が進むのだ。このことは、レビューの後方でまた取り上げることになるので、今は話を先に進めよう。

 ところが、そのなかで奇妙な感じを覚えた。先程述べたように終始自分語りする調子によって物語が展開されていくからこそ、自身の周りに起こる出来事の描写にとても丹念なわりには、例えば優しいだとか仲間想いだとか、遂にそうした自身の内面=自己についてを完全な形で語ることが最後までなかったのだ。
 自己とは、一般には個人が自分自身を客体として捉えたものだ。一度自らではなく他者の側に立ち、その視点から改めて捉え直された自分の在り方を自分自身として受け入れたもの、それが自己だ。自分自身の対象化、つまり一度自分を他者化されて見てみる行動が前提となるので、英語でselfは再帰代名詞に属す。自己とは対象化の視点を内在させることによって、初めて成立するものだ。
 前近代的な社会――それは限定された空間の中で人の一生が閉鎖的に完結するような、現代社会ではもはや失われた生活空間――である共同体においては、その構成員は様々に用意された慣習や地域性といった文化全体にただ従うだけで、安定した生活環境を構築することが可能だった。その環境ゆえ、共同体構成員が観察する世界というのは共同体が観測し得る範囲のものまでであり、いうなれば共同体=世界である。また、事情がない限り共同体の外へ出る機会が無いということは、共同体の外側から共同体の存在を対象化させる機会も発想も無いということになるし、さらには共同体構成員として、文化と身体との同調に従って為される共同体での望ましき行動を学習することで、「対象化可能な個人」レベルで分類可能な行動を作る必要のない行動パターンの中で生きていることが出来ていた。だからこそ、共同体構成員は自らの語る自分自身の性格などについての特性である内面を知り得ない、自我(ego)しか持てない状態となる。実際、途中入舎組の鶏は旧来の養鶏場生活が安定したものであったがゆえに、養鶏場の外や生きる術について考えたことがなかった。養鶏場での生活が外部から視て一体どういうものであったと言えるのか、そもそも外部との相対化という発想自体がなかった。またにわとりにとっても鶏舎環境の自由さを自身の良いステータスに思っているようだが、結局それも鶏舎の周辺、自身が観測し行動できる範囲の自由ということに過ぎないことは解っていなかった。そもそもにわとりには名前が無いのだから、一人称を使ってもそれは自身の状況を指すものになって、それより深くまでは示せない。
 自己が無いから内面を語れない。これはにわとりが置かれていた環境の現実感を補強する要素となっている。(そもそも、騙し易く私利使用し易い知能の奴という意味で「好い鳥」という言葉があるくらいなので、にわとりに高水準の理知的考察を要請することのほうが酷なことなのかもしれないが、それを言ったら物語が機能不全を起こすので措いておくことにする。)
 自己を持てるのは、共同体を飛び出して再帰的に自省した時を切っ掛けにする。にわとりにとってこれがもたらされたのは、自身の糞の違いから彼我の個体差をより明らかなかたちで認識したうえで、そして鶏が連続して行方不明になり始めことによって共同体のさらに外を意識させられるようになった時からだ。にわとり自身の境遇というものが、バーチャル的に設定した鶏から再帰的にみて、家畜のように自由ではなく自律的でもないのではないか?と疑う。途中入舎組の鶏によってかつて経験し単なる知識として受け取った家畜環境というものを、自らの身のこととして振り返られた時に、初めて自身の在り様を、井の中の蛙並みの現状に浸かりきったうえでの自律でしかなく、それは実際大して役に立つものではなかったのでは?と認識を揺さぶられるのだ。
 「不知の自覚」とは、プラトンが『ソクラテスの弁明』の中で記述した認識の姿勢である。実際にはよく知っていないものを知っていると思い込んでいるに過ぎないと看破したうえで、それを正直に自覚していることのほうが思い込みによる虚勢よりも確かな賢さであることを説いて表している。では何を知らなかったのかというと、その根源は環境の自由さだ。鶏が行方不明になるという現象によって、今の自由やそれによる安寧/行動の自律とは皮相に過ぎず脆いものであり、また良いものと受け取っていた自由は実はやはり家畜相応としての質の低かったそれであったかもしれないと、初めて思い至りかける。
 だが結局にわとりは、ここまでのことを無駄な思考として棄却してしまった。不知は自覚されきることなく、自己の形成は不完全なままで終わった。

 にわとりは結果として老いて生き抜いたが、果たしてにわとりは幸せだったのだろうか。

 にわとりは養鶏場から出た鶏を自身よりも不自由だった存在として看ていたが、それとの関わりのあとで、自身の死亡とその価値とは何であるかを心の底で生煮えに思い悩んだ。そしてもうひとつ、結局自身の置かれた境遇は自由さの点に於いて鶏社会(?)のなかでは恵まれた環境にあったかもというだけで、それはたまたまでしかなく、基本にわとりは与えられた環境をそのまま享受するものであった。その二点によって、家畜として奴隷的な生涯だったように見えるだろう。にわとりが生き抜けたのは、あくまで動的な偶然の結果でしかない。
 鶏だからしょうがないのだろうが、まず折角自分語りできるくらいの知性があるというのに、にわとり自身の衛生を自ら改善してやろうとか、物の創意工夫によって環境をより快適にしてやろうとか、エスカレートすればなろう的異世界チート成り上がりめいた薫りの物語になりそうな改善を行うことはない。そんなことをする気持ち自体無いからだ。主人に飼われていると知っていながら、それをひとつの事実としか受け取っているにすぎない。それに、死亡というのが鶏たるもの卵を産出し肉となり誰かに味わわれることを最もな価値のあることと置いたならば、(藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』に見られるように)もしかしたら誰かのみならず自身にとっても価値あることと考えてもっと早くに覚悟ができていたかもしれないが、しかしにわとりは配合餌を与えられず野放し状態であり、従って自身が生かされることでいつか誰かを生かす源になるための価値ある死亡の可能性から外されている。となると死亡してしまえばいよいよ価値も何も残らないことを直感しているゆえに気落ちする素になっているのだが、先の不知の自覚不全と併せて、自身が家畜だからという理由で結局ぼんやりとなあなあなままにしてしまった。現実の鶏のひとつの末路はそんな感じだから純文学としてのこの物語もそれに即している、といえばその通りなのだろうが、ファンタジーがないぶん夢もない。

 夢がないということは、逆に言えば現実を見せているということである。直接的には鶏の現実のことだが、奴隷の自分語りというエッセンスを抽出するとなると、それは鶏に限らず何らかの状況に身をやつしている人間のありさまを婉曲語りしたものとしても立ち現れる。
 いつ読者自身が発展への努力をやめてしまった、面白みうまみのある肉のない枯れた存在になってしまうかわからない。しかもただ肉があったり、そこから継続して生み出される付加価値の象徴としての卵を提示したりするだけではだめなのだ。自らの価値を自律させることなくそれそのものだけでは、惰性で何者かの私利都合によって使用(飼養)されるばかりになる。実際、鶏たちは本来卵と肉目的で飼養され、そして諦められている、非発展的な存在だったわけなのだから。
 となると、にわとりが自己の無い者だったということも、単に物語上の演出に留まらない側面を見せてくる。自己が無い=自省をしないかできない行動によって、自らが何であるか/どうであるかをちゃんと把握することができないままになると、自らを即自的な自分語りなようにしか表現出来なくなる。その社会というものが、もし社会の構成員にとって幸福で優しいものだったら幸いだが、ディストピアに近い状態であったなら、不快感を覚える可能性はあるこそすれ社会に対し戦おうとか外へ出ようとかする発想力が殺がれてしまっているゆえに、現状をそうあって当たり前なものとして甘んじて受け入れるばかりになる。自身を迫害しかねない要素へ戦えなくなるし、自身の価値とは一体何であるのかを覚悟することもままならない。
 イソップ童話の中に『金の卵を産む鶏』がある。偶然金の卵を産む鶏によって富を得た者が、さらなる富を求めて金の卵の根源を取り出そうと鶏を解体したことで、金も金の卵を産む鶏も両方失う、という話である。これを鶏のほうから見てみれば、折角金の卵という絶対的な付加価値を生み出せる資本があったのにそれを上位者である飼養者の意向によって破壊されるという結果を引き起こされた存在になる。このような被害を受けないためには、自らを理解し自衛の手立てを整える、その必要の考察を要求させる。
 にわとりは偶然ながら、自衛の手立てを意識せずとも所有していた。糞である。これが結果として天寿を全うする道筋を作り、かつ誰かを生かすという価値を持ったうえでの死亡を成立させるうえでの鍵ともなった。結果論でしかないが、にわとりは納得できたぶんだけ幸せと言えただろう。
 翻ってみれば、例えば日本の2019年での時間当たり労働生産性はOECD加盟37カ国中21位で、1人当たり労働生産性は26位だという(OECD『OECD Employment and Labour Market Statistic』)。「過労死」はローマ字表記の「Karoushi」で世界に輸出された言葉になってしまった。にわとりとは、闘力の失せて磨り減らされる病的な現代人のメタファーなのだろうか。イソップ童話は寓話、すなわち教訓的な内容を動物などの他の事物にかこつけて表した例え話としての側面を持つことで有名だ。寓話とは『日本大百科全書』によれば「人間を素材にして話をつくったのでは、とかく重苦しい説教調になりやすいが、無邪気な動物を主人公にすることで、いわんとするところが簡明に表現でき、しかもどことなくユーモラスな味さえ加わって、思わず聴き手を誘い込む魅力をもつ」と紹介している。この物語の「殺されるか、それとも死ぬか」というアオリは、物語を寓話の切り口から視て読むと、その主体が現代人としても解釈される。物語は、にわとりという、特性を保持した擬人化された動物から見た状況描写から、現代におけるひとつの寓話として鑑賞できる。
 そう読みだすと、にわとりによる自分語りという特徴が効いてくる。その自分語りは、読者を客観視ではなく没入視させることを促される。読者自身の「にわとり」を視て取らすことに寄与する。なのでにわとりは自分語り“される”のである。そしてそのなかで、読者自らの居る環境というものが実際何であるか…自由は皮相ではないのか?自律は誰かの思惑に従ったものに過ぎないのではないか?自身の価値について納得しているか?…これらを想い致す契機を提供されることになる。

 動物のかわいげのない現実的な物語といわれてふと連想する作品は、G.オーウェル『動物農場』や、宮沢賢治『フランドン農学校の豚』がある。特に後者についてこの物語とかなり共通した読みが可能だが、主役がその結末における感じ取り方はとても違っている。違いをもたらすのは、決定的な自身の場面に本意なように居られたかそうでないかに由るところが大きい。豚のほうは飼養される弱者として、自身が何のために生きているかを外部に質として取られたまま、とうとう死亡に価値を見出すことが出来なかった。
 読者が『にわとり』をもし寓話として読んだなら、自分とは何であるかを考えてみるのも良いだろう。