第3話 再会

「君に、智昭さん、と呼ばれるのは久しぶりだ」

 笑いながら言う智昭の頭髪にはすっかり霜が降りていて、目尻にはたくさんの皺があった。

あの頃の智昭が年をとったら、きっと、こんな感じだろう。

 いつだったかそんな風に想像したとおりの智昭がそこにいた。

「本当に、本当に、久しぶりね。そう呼ぶのも、あなたに会うのも」

 明子は、また泣きそうになって、滲んだ涙を手で拭った。

「――今はどうしているんだい?」

 智昭は明子の向かいの席に座りながら、穏やかな優しい声で尋ねた。

「一人で暮らしているわ。下の子がこの間結婚してね。それで今は気楽な一人暮らし。毎日のんびり、散歩なんかして。今日はたまたまこのお店に入ったのよ。まさか、あなたに会えるなんて――」

 あの日とは逆に、今日は明子の方が饒舌になってしまっている。話しながら、手では拭いきれない涙がぽろぽろと頬をつたって流れ落ちた。

「Hush little baby, don't you cry」

 智昭が完璧なジャパニーズイングリッシュで明子に声を掛ける。それを聞いて、明子は思わず笑ってしまった。

「サマータイムね」

「そう。覚えてるんだね?」

「ええ。もちろん」

 明子はうろ覚えの歌詞を続けて口ずさんだ。この曲を気に入った明子はあの日智昭と一緒にレコードを買って家で聴き、智昭が好きだといった最初の部分だけは自然と覚えた。その後、うっかり落として割ってしまってから、「サマータイム」を聴くことはなかった。今日、この日まで。

 

 智昭に聞きたいことが、たくさんあった。言いたいことが、たくさんあった。それでも、今はただ、智昭の優しい笑顔を見ているだけで、十分だった。どうか神様、もうしばらく、このままでいさせてください――


#


「そうですか。この席で、母は――」

「てっきり眠っていらっしゃるのだと思ってしまって、気付くのが遅くなってしまいました。本当に、申し訳ありません。もう少し早く気付いていれば」

そう言い掛けたマスターに、智子は慌てて、そんな、仕方がないことです、こちらこそ、ご迷惑をお掛けしました、と頭を下げた。


 最近、よく頭が痛くなるのよね、と電話で話したときに、病院に行って、とちゃんと話していればよかった。一人にしなければよかった。連絡を受け駆けつけた弟と二人、冷たくなった母の前で泣き崩れた。父が早くに亡くなって、苦労しながら二人の子を育てて、やっとこれからのんびりさせてあげられる、そう思っていた矢先だった。

 それでも、母の顔は穏やかに微笑んでいて、なぜか幸せそうに見えて、少し救われた。


 母が最期に座っていたというソファに智子は座り、鞄からフォトフレームを取り出し、見つめる。母さん。父さんには会えた? 

「智昭と明子。19○○年5月、初めてのデート記念に」

 写真の中の、若い頃の父と母が智子に優しく微笑んだ気がした。





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