第2話 Summertime
Summertime and the livin is easy
Fish are jumpin and the cotton is high
Oh your daddy is rich and your mam is good lookin
So hush little baby, don’t you cry ――
「この曲はサマータイム、っていうんだ。お母さんが子供に唄う子守唄だよ」
智昭がそう教えてくれた。店内に流れる歌は英語で、明子にはその意味が分からなかった。分からなかったけれど、歌い手の声が妙に耳に心地いい。子守唄だったのか。だからどこか優しい響きなのだろうか。
智昭とはこれが初めてのデート、だった。デートという言葉を使うのは照れくさかったので二人とも口に出してそうは言わなかったけれど、妙に意識してしまって、智昭も明子もぎこちなくなってしまっていた。
智昭に誘われて入ったジャズ喫茶でコーヒーを注文した後も、会話が続かなかった。
けれど、流れてきたレコードからの歌に会話の糸口を見つけたのか、智昭は妙に饒舌になり、サマータイム、という曲の説明をしてくれた。
元々はオペラで使われた歌だということ。
黒人のお母さんが、生まれたばかりの赤ん坊に歌いかける曲だということ。
いろんな歌手がカバーしていて、ジャズだけではなくポップスやロックにアレンジされたものもあるということ。
そして、今流れているこの曲は、日本人の女性歌手がカバーしたものだということ。
その歌手の名前は、明子も聞き覚えがあった。
「いい曲ね」
「そうだろう。僕は、最初の方の「父さんは金持ちで、母さんは美人だ、だから坊や、泣くのはおよし」ってとこが好きなんだ」
「そういう意味なのね」
「ああ。本当に金持ちだとか美人だとか、そんなことじゃなくって、ただ生まれた子供を安心させたくてそう歌っているって感じがしてね。「So hush little baby, don't you cry」の響きが優しくて切なくて、なんとなく好きでさ」
「ジャズに詳しいの?」
明子が感心したように尋ねると、智昭は押し黙った。
「智昭さん――?」
「・・・・・・実は、全然」
気まずそうに智昭は笑った。
「この店に寄ろうって決めてたから、君にすごいって言われたくて、昨日必死に勉強したんだ。付け焼き刃さ。黙ってようと思ったんだけど、これ以上しゃべるとボロが出そうだから、白状するよ」
その正直さに、明子は思わず、ふふっ、と笑った。
智昭も、へへへ、と笑った。悪戯がばれた子供のような笑顔がかわいい、そう思った。
「でも、勉強するのは楽しかったよ。この曲、「ブルーノート」っていうのが使われているんだって」
「ブルーノート? 青いノートってこと?」
「僕も最初、ブルーって、青色のことかな、青いノートを使って作曲したってことかなって思ったんだ。でも違った。「ブルー・ノート・スケール」っていう、音階? なのかな、3つの音を半分下げるからどこか憂うつな感じがする。「憂うつ」って意味の「ブルー」なんだって」
「十分、詳しいじゃない」
そうかな、と智昭は今度は思いがけず誉められて嬉しい、という様子で照れ笑いした。
まじめで一生懸命、でも子供のように素直な智昭らしい、そう思った。
――けれど、智昭とは二度と会えなくなってしまった。ふいにあの頃が思い出されて、明子は泣きそうになる。慌ててコーヒーを飲み干した。
ズキン。頭が痛い。いやだ、本当になんなのかしら。
明子はこめかみを押さえて、目をつぶった。
カチャ。物音が聞こえて目を開けると、マスターがコーヒーカップを下げて、別のカップを置いていた。紅茶、だろうか。でも頼んでいないのに――。
「なんだか、お辛そうでしたので。体調が悪いときは、コーヒーはお止めになった方がいいですよ。こちらはハーブティですが、鎮静効果があるとか。サービスですので、よければお召し上がりください」
髭面のマスターの目がメガネの奥で優しく微笑んだ。一瞬迷ったが、ここは素直に好意に甘えておこう。
「ありがとうございます」
明子は軽く頭を下げて、目の前に置かれたカップを見つめた。紅茶よりは薄い色の液体からはコーヒーとは違う、不思議な香りが漂っていたが、嫌いな匂いではなかった。
口をつけると味はしなかったが、鎮静効果がある、と言われると体に良さそうに思える。
何よりマスターの心配りが嬉しい。
先程まで智昭のことを思い出して切なくなっていた気持ちが和らいだ。
――うーん。なんだか眠くなってきたわ。昨日の夜は寒くてあんまり眠れなかったからかしら――
口からあくびが出そうになるのを噛み殺して、明子はまた少し目をつぶった。ほんの少し。ほんのちょっとだけ、休ませてもらおう。
カランカラン。扉のベルが鳴って、明子は、はっと目を覚ました。いやだわ、どれくらい眠ってたんだろう。マスターにご迷惑掛けちゃった――。
慌てた明子の傍らに誰かが立つ。
マスターかしら、ごめんなさい、寝ちゃって。そう言い掛けたが、それはマスターではなかった。
「――智昭さん」
昔と同じように照れ臭そうに笑う智昭の顔がそこにあった。
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