初夏色ブルーノート

チカチカ

第1話 散歩道

――ああ、今日はようやっと晴れたわ。空が綺麗。

 明子はカーテンを引いて窓を開け、空を見上げた。泣きたくなるほど青く澄んだ空。

せっかくの連休だというのに、初日から雨が降り続いていた。

 昨日は風までひどくて気温も低く、本当に5月かしら、疑いたくなるくらい寒い日だった。夜はしまったばかりの毛布をもう一度押し入れから引っ張り出して、がたがた震えながらくるまって眠った。


 もうトシよね、最近やたらと体が冷える。ここのところ、妙に頭も痛いし。この間も、あの子に心配されたっけ。そのうち病院に行かなきゃね。

明子はため息をつきながら空を見る。

 けれど、今日はせっかくの晴れだし、ゆっくりしよう。


 明子はテレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。パッとテレビが点き、朝のニュース番組中に放映されているお気に入りのアニメが写る。

 口の悪いリスの先輩と、ウサギの後輩の掛け合いが楽しい。子供たちがいた頃は、「母さん、そんなの見てるの」と呆れられたが、明子にとっては平日の朝の楽しみだった。


 電気ポットのお湯が沸いた音を耳にして、テレビに目をやりながらマグカップを取り、インスタントコーヒーの粉を適当に入れ、明子は、さて今日は何をしようか、と思った。


 #

 

 目に入る若葉の色が眩しい。そして、若葉を揺らす風が明子の頬を心地よく撫でていく。

 ああ、気持ちいい。今日は本当に暖かいわね。いえ、暑いくらい。

 初夏の空気を体全体で感じながら、明子はぶらぶらとあてどなく歩いていた。

 

 夫に先立たれ、まだまだ手のかかる子供二人と残されたときには、呆然とする余裕もなかった。ただただ、この子達を育てなければ、という思いでいっぱいで朝も夜も働き詰めた。自分のための時間などなかった。そうして数十年が経ち、子供達は独立して、先日、下の子がやっと結婚した。

 一人になる明子を心配してか、上の子は「母さん、一緒に住もうよ。ダンナも心配してるんだよ」と言ってくれたが、冗談じゃない、母さんはこれから自分の人生を楽しむのよ、と笑って断った。

 ほんの少し強がりも含んでいたが、本当に、これからは自分のために時間を使っていいんだ、そう思うとうきうきした。


 暇になった時間はこうやって近所を散歩して過ごす。下の子の結婚を機に、それまで住んでいた家は引き払い、荷物も整理してこの町に引っ越した。新しい住まいは小さく古いアパートだったが一人には十分だ。

 そして、買い物のついでに普段通らない脇道に入って、見慣れない風景を楽しみながら歩く。

 この間は、可愛い雑貨屋を見つけた。人懐こい店主とおしゃべりしながら、子供の頃に持っていたような小さいマスコット人形を買い、部屋に飾った。

 こんなところにこんなお店があったのか、ここのお庭のハナミズキは今が盛りだ、そんなことを思いながらただぶらぶらと歩く。それだけのことが楽しかった。


 ――あら? こんなところに喫茶店が・・・・・・。

それは最近よくあるお洒落なカフェとは違い、昔懐かしい感じの少し古びた喫茶店だった。

 レンガ風の茶色の壁にいっぱい緑色の蔦がはっていて、そのコントラストが綺麗だ。焦げ茶色の格子の扉の向こうは薄暗くて、中の様子はあまり分からない。けれど雰囲気は良さそうだ。

 そういえば、喉が乾いた。ここで何か飲んで、休憩していこう。

 カラン、カラン。扉を押すと、なんだか懐かしい感じの柔らかいドアベルの音が響いた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうで、初老のマスターが優しい声を掛けてくれた。店内は外から見たとおり、少し薄暗くて、柔らかいオレンジ色のライトがそこかしこを照らしている。

「お好きな席にどうぞ」

 店内には他に客はいない。平日の昼前ならそんなものかもしれない。明子はゆっくり店内を見渡して、奥の窓際の席に腰掛けた。耳にピアノとサックスの音色が流れ込んでくる。これは、ジャズ――?

「ご注文は?」

いつのまにか、マスターがそっと傍らに立っていた。

「そうね、コーヒーを」

「かしこまりました」


 お店の中も懐かしい雰囲気ね。わざとそうしているのかしら。それとも、昔からあるお店なのかしら。

 オリーブ色のベルベット風のソファと茶色のテーブル。出入口や窓には観葉植物。カウンターには白いシャツに黒いベストを着たマスター。その手元にはコーヒー豆とミルが置かれている。ゆっくり丁寧に豆を挽いてくれている。マスターの後ろには、レコードプレイヤーがあった。

 今時、レコードなんて、珍しい。レコードの音は、時々掠れているけれど、それがかえって味わい深くてどこか優しく、明子はゆったりとした気持ちになれた。


「お待たせしました」

 いつのまに時間が経ったんだろう。またしても気付かないうちにマスターが側に立ち、そっと湯気の立つコーヒーカップを明子の前に置いた。気配を消すかのように、わざとそうしているのかもしれない。


 いい香り。カップから漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐる。明子はカップを持ち上げて口に運んだ。うん。苦いけれど、とってもおいしい。


 レコードが次の曲に移った。この曲は――ああ、あのとき聴いた曲だ。智昭と一緒に――

 


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