夜 終着
目が覚めると泣いていたことに気づいた。幸せな夢をみていた気がする。本当にそうだったらいい。今や幸福など夢の中くらいにしかない。幸福に手を伸ばそうとしても伸ばす手すらないのだ。涙もぬぐえない私は、青い小鳥が閉じた窓を突き破ってやってくるのを待つしかない。くだらない妄想だ。くだらない生存だ。
時計を確認すると、もう昼間と言っていい時刻だった。どうにも体がだるく熱っぽい気がする。思考も霧がかかったかのように冴えない。まあいつものことだ。それよりも小腹が空いた。前腕でベッドの脇に取り付けられたブザーを押す。しばらくして硬質なノックがされ、チャカが部屋に入ってくる。
「なんかお腹減った」
「普通に朝食持ってこようか?」
「そこまでの気分じゃない。甘いのが食べたいな」
「この前言ってたチーズケーキあるけどそれでも食べる?」
「食べる」
チャカが小さな紙箱を持ってくる。開けるとそこには真っ白なチーズケーキが入っていた。
「白いね」
「なんかホワイトチョコレートを使ってるらしい」
「チーズケーキなのそれ?」
「や、チーズケーキだったよ」
チャカはケーキフォークで真白い欠片を小さく切り取り、私の口元に運ぶ。私は雛鳥のように口を開け受け取る。はっきりとしたチーズの味わいにくちどけなめらかな甘さ。口当たりの良さはホワイトチョコレートが入っているからなのかもしれない。
「美味しい?」
「美味しい。甘い」
「そりゃ甘いでしょ」
「でもしつこくないんだよね」
「そうそう」
チーズケーキを食べ終えた後は、排泄の補助と湯浴みを頼む。他の世話係と違い、チャカは丁寧に私を洗ってくれるので心地よい。
そうしてベッドに戻ると、湯浴みで温まったせいか私は眠りの海に沈んでしまった。夢はみなかった。波に揺られ再び浅瀬に打ち上げられた頃にはすっかり日が沈んでいた。
「チャカ……?」
「いるよ」
思わず名前を呼ぶと、静かな返事があった。部屋の隅のあるパイプ椅子にチャカは座っていた。チャカは椅子から立ち上がり、私のそばまで近づく。
「おはよう」
「うん、おはよう」
夜だった。それはわかっていた。けれども私達はおはようと言い合った。
「悪いけどそろそろまたおやすみの時間だ」
チャカが鞄から注射器と小瓶を取り出す。それを認識した私の脳味噌が勝手に狂喜し始める。
「薬、貰えるの?」
「ああ。でも君の体はもうぼろぼろだ。今度の薬はとびきり強いヤツらしい。もたないかもしれない」
「そう」
ゆるやかで不確かな死刑宣告にただ頷く。来るべき時がようやく訪れる。その程度の感慨しか湧かない。自分の体がぼろぼろだなんてとっくの昔にわかっていた。死ぬことなんて怖くなかった。薬をやらないと言われる方がよっぽど恐ろしかった。
「打ってほしいんだろ?」
「うん」
「わかった」
チャカはきゅっと眉をひそめ、それでも私の右前腕に注射をする。
これで最後かもしれない。でもだからなんだというのか。冷たくなっていく。脊髄が鉄めいた冷たさを帯び、その下の方からなくなっていく。体の中心を失った私という肉細工は世界から脱落する。冷たくなっていく。くるくると回っている。二頭のパンダが踊っている。記憶の水面が揺れる。プールに飛びこんだような冷たさが体を包む。失った腕を伸ばした。何も掴めなった。何も見えない。何も聞こえない。けれど水面で歪んだチャカの顔が見えた。その顔は普段のチャカとは全く違って見えた。それが可笑しくて懐かしくて零れる。お兄ちゃん。チャカが目を丸くして私に何か言った。でも何も聞こえない。ゆっくりと暗くなっていく。チャカが見えなくなる。それが快楽だった。快楽であることにした。私は失う。何を失ったかすら失う。とうとう水底に衝突してしまうのか、そんなこと私にはわからなかった。
堕ちていく。
薬十夜 ささやか @sasayaka
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