第7話 獣巫女


 ぱちり――と、炭が爆ぜた。


 とうとうと炎を揺らす熾火が、小屋全体を優しく温めている。

 昼飯の名残だろうか。

 囲炉裏の端には洗っていない鍋が置かれ、代わりに自在鍵には白い湯気を上げた鉄瓶が吊るされていた。


 山南の前には、冷めた白湯の入った茶碗が置かれている。

 まだ陽は沈んでいないのに既に雨戸は閉じられ、小屋の灯りと言えば囲炉裏の熾火が仄紅く照らしているだけである。


 橙色に染まる小屋の中に、山南をふくめ三人の姿があった。

 囲炉裏を挟んで向かいには白衣に緋袴姿の女が、山南に対し身体の右側を向けるようにして坐している。

 その緋袴の左膝に頭を預け、先ほど助けた女童、凛音が寝息を立てている。

 小屋の中には、山南の他はこの二人だけだった。



 二刻ほど前――凛音に引かれるようにして、山南は雪の森を奥へと進んだ。無論、香尾は鍛冶場までの道のりを知っているのだが、黙ってそれに従っていた。


 そのまましばらく進むと、眼前に雪に埋もれた石段が姿を現した。

 顔を上げれば思いの外立派な山門が眼に入った。


「ウチはここで――」


 お義理とばかりに会釈を垂れると、香尾は踵を返した。


「一緒に寄らせてもらわないのですか」


 てっきり、凛音の母親に紹介してもらえると思い込んでいた山南にしてみれば、晴天の霹靂ともいえる言葉だった。


「寺田屋の女将さんは、厳しい御方。早く戻って仕事をせねば――」


 叱られます――と、冷たくあしらうと、香尾はそのまま帰って行ってしまったのだ。

 まだ若い娘をひとりで帰らせることに不安はあったが、山南と歩いてきたときよりも軽快な足取りで去ってゆく後ろ姿をに、その思いを仕舞いこんだ。


「早ぉ行こ」


 嬉しそうに手を引く凛音に促され、山南は山門を潜った。

 大打螺神社は古びてはいるが、よく手入れのなされた社だった。

 本殿の左手に進むと、平屋があった。どうやらここが鍛冶場を兼ねた住居なのだろう。


「待ってて」と、凛音が小走りに小屋に入っていった。

 その場で待っていると山南の耳に、凛音の声が聞こえてきた。

 やり取りらしき声は聞こえるのだが、その内容までは聞き取ることは出来ない。しばらくやり取りは続いたが、家人が姿を現すことはなく、山南は待たされた。


 母親は病に伏していると聞いている。そうでなくとも、素性の知れぬ男を家に上げるわけにもいくまい。女所帯に勝手に入るわけにもいかず、かといって剣は諦めるにしても、龍馬に見舞いを頼まている以上、顔も見ずに帰るわけにもいかない。

 香尾に先に帰られてしまったことが悔やまれてならなかった。


 困り果て、思わず陽の沈みかけた空を見上げた。

 そこへ、手桶を持った凛音が戸口から飛び出してきた。


「水汲み行かなきゃ」と山南の手を強引に引きながら、小屋の裏手を流れる沢へと向かった。

 水汲みと言いながら、凛音はあれやこれやとはしゃぎ回り、結局は半刻ほど遊びに付き合わされた。

 しばらくして臼ほどの大きさの切株に、二人ならんで腰を降ろした。


 ふと、静かになった凛音を見ると、山南に身を預け眠っていた。

 そんな凛音を背におぶり、水を汲んだ手桶を持って小屋に帰ると漸く「お上がり下さい」と諦めたような声が迎えたのだ。



 自分の膝に無防備に身をあずける娘の髪を、女は愛おしそうに撫でていた。

 床に届く髪を白い丈長でまとめた巫女装束は、張り詰めた独特の緊張感を醸し出している。


 すっ――と、鼻筋の通った品のある美しい横顔だった。

 肌の色は抜けるように白く、炭火にあてられた頬が、ほんのりと朱に彩られている。

 だが、黒く瑠璃のように深みのある瞳は、山南に向けられることはなく、固く閉ざされた戸を見つめている。


「娘を――凛音を助けてもろうて、ほんにありがとうございました」


 口の中で舌を持て余すようなくぐもった声で、上条宗景の妻、玉音が礼を述べる。

 切れ長の瞳に抜けるように白い肌、凛とした美しさはどこか神々しくも思えた。


「夫――上条を亡くし、ウチまでこのような身体になってしもうて、この子には寂しい思いをさせてしまいました」


 喋りにくいのだろう、玉音は言葉を噛みしめるように語る。


「凛音がこんなにはしゃぐなんて……ほんま久しぶりや」


 愛娘を見つめるその瞳は、どこか遠くを見つめている様であった。


「坂本くんから、御苦労なさっているとお聞きしました。ですが、どうして立派に娘さんを御育てになられているようだ」


 それはお世辞でもなく、山南の本心だった。


「――坂本はん。そんなこと言うてはりましたか」


 紅い唇に微かな笑みが浮かんだ。


「あの御方は変わりまへんなぁ。上条が死んだ今でも、未だに気遣こぉてくれます」

「坂本君らしいですね」

「こんな身体になっても、ウチを怖がらんのは、ほんに坂本はんぐらい……」


 薄明かりの中に浮かんだその指先は、白く長い毛で覆われていた。


「私も別に怖くはありませんよ」

「えっ?」

「別に怖くはありませんと言ったのです」

「山南はん――」


 向き直った玉音の顔の左半分は、白く艶やかな毛で覆われていた。そんな艶やかな毛の中で潤んだ瞳が山南を見つめる。


 これは――と、気取られぬよう、山南が息を呑んだ。

 玉音が姿も現さず、家にも上げようとしなかったのは、この姿が原因だったのだ。

 右半分は端正で美しい顔立ちを残したまま、玉音の顔の左半分はまるで獣のように眼が吊り上り、耳までもが後方に向け尖っている。

 発達した犬歯が唇を捲りあげ、牙のように突き出し、顔の表面を白く長い獣毛がみっしりと覆いつくしている。

 目元を拭った左手の爪は鋭く伸び、指先までもが長々とした毛で覆われていた。

 玉音の左半身は、まさに獣のような姿をしていた。


 なんとも奇異で不可思議な姿である。

 だが身に纏う巫女装束と相まって、玉音の姿はなんともいえぬ荘厳な雰囲気すら感じさせた。

 まるで山の神の顕現であると言わんばかりの、凛とした神々しさまで漂っている。

 おそらくそれは玉音の持つ本来の霊性が、少なからず影響を及ぼしているのだろう。


「それが坂本君の言っていた病なのですね?」

「そうかも知れまへんな。でも――」


 ばちがあたったんです――と、玉音は自嘲めいた笑みを浮かべた。


「どういうことですか」

「はじめ、ウチの患いは旦那はん――上条と同じ労咳……やったんやと思います」

「それが、いつからそのような姿に?」

「――薬を、そう、薬を飲み始めてから」


 言葉を選ぶように、玉音は言った。


「薬ですか?」


 はい――と、頷いた。


「もし宜しければ、詳しく話していただけませんか?もしかしたら私に力添えが出来るかもしれない」


 山南が眼尻の皺を深くした。


「もしかしたら、玉音さんも薄々はお気付きなのではありませんか。あなたのその病、いや敢えてその姿と言わせてもらいます。それは病などではなく『しゅ』だ。だとすればそれは正しく私の領分です」


 そうだ。だからこそ龍馬は、山南をここへ寄こしたのだろう。


「しゅ――――呪……」


 玉音が眼を見開いた。

 どうやら彼女にも思うところがあったようだ。


「宜しければ話してくれませんか。因果を解き明かせば『呪』を解くことが出来るかもしれない」


 力強く頷く山南に、玉音は崩れるように頭を下げた。



 玉音が体調を崩したのは夏の終わりのこと。

 夫を亡くし、娘と二人生きていくのは楽な事ではなかった。

 だが幸いにも、宗景の残してくれた貯えもあった。


 それに最初のうちは、巫女だった玉音を頼ってくる村人からの、疳の虫封じや卜占などの謝礼などもあり、日々の糊口を凌ぐには困らなかった。

 更に、宗景の仕事で付き合いのあった馴染みなどが時折訪れては、霊前に手を合わせると言いながら、生活の足しになるような土産を置いていくこともあった。


 それらが少なからず、母子の生活の助けになっていた。

 龍馬などもそのうちの一人だった。

 生前の宗景の仕事ぶりにいたく感心した龍馬は、宗景の死後も京に訪れた際に暇を見つけては、玉音ら親子を見舞っていたという。


 宗景が死んで半年ほどが過ぎ、母子二人だけの暮らしにようやく慣れ初めてきたある日のこと――玉音は自分の身体の異変に気が付いた。


 咳が止まらない。

 乾いたような細かな咳が日がな一日続き、やがてそれは咽喉に絡む粘液質の痰をともなった厭な咳になった。

 それに続き胸が痛み、身体の怠さが抜けなくなった。

 身体を起こしていることすら辛くなり、師走を迎えるころには布団から起きることすら苦痛になっていた。


 触診でもするかのように山南は、玉音の背に掌をあてた。といっても、普通の触診とは違い、背を押すようなことも触れるような事もせず、少し浮かすようにかざしているだけだった。


 ふむ――と、頷くと、山南は元に座っていた位置に戻った。


「――労咳ですか」

「少なくとも最初のうちは、そうやったと思います」


 成程――と、小首を傾げ、


「いくつか伺いたい事があるのですが良いでしょうか?」


 山南は言葉を選ぶように切り出した。


「はい」


 玉音は山南の眼を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「医者にはかかったのですか」

「いいえ。このような場所では難しく――」


 力なく玉音が首を振る。


「先ほど薬と言っていましたが。それは――」

「労咳に効く薬などは高こうて……そうそう買うわけには――いきまへん。ですが――」


 どこかに後ろめたさでもあるのだろうか。玉音は慎重に言葉を探しているようだった。


「では、どうされたのですか?」


 眼を伏せ、苦悶するように眉間に皺をよせた。

 そうして、暫く考え込んだ後、


「――頂戴いたしました」


 苦いものを絞り出すように、言った。


「それは、どなたが用立ててくれたのでしょうか」


 唇の色が変わるほど、玉音は固く唇を噛みしめた。

 山南はその姿を、静かに見守る。


 重い空気が張り詰め、

 ぱちり――と、炭が音をたて、細かな火の粉がふわりと浮き上がる。


 すると、


「んんっ……」


 玉音の膝の上で、凛音が寝返りをうった。

 赤子をあやすように、玉音がその髪を優しく撫でた。

 そして、深い溜息を吐くと、


「なかむら――」


 覚悟を決めたかのように、玉音が呟いた。


「中村半次郎はん言うお人から、お薬を頂きました」


 玉音の言葉には苦いものを絞り出すような、何ともいえぬ息苦しさがあった。


「中村半次郎? それはもしかして、薩摩の――」


 中村半次郎――土佐の岡田以蔵と並び評される「人斬り半次郎」の異名で知られた薩摩藩士である。

 薩摩に伝わる示現流の名手であり、藩主の父であり、現在も実質的な権力を握る島津久光の懐刀である、大久保一蔵の信も厚い人物である。


 山南の言葉に、玉音が力なく頷いた。


「その中村半次郎がなぜ?」

「こらから話すことは、愚かな女子おなごの卑しき独り言。お耳汚しになりますゆえ、浅ましきけものの遠吠えとでも御思いください」


 そう言って、玉音は深い溜息と共に語り始めた。


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