第8話 情恋憶

 

 薬も買えず、日々弱りゆく自らの身体に死を想う日々。


 一人残される娘の行く末に玉音の不安は募るばかりだった。

 そんなある残暑厳しき日のことだった。

 一人の男が訪ねてきた。


 錦絵から抜け出たような美丈夫であった。

 骨太な体つきに似合わぬ、役者のような繊細な顔立ちだった。

 一見、武士など似あわぬような風を思わせたが、その印象は直ぐに一蹴された。

 お約束していた剣を、受け取りに参りもした――と、差し出す手は、分厚い剣術を嗜むもののそれであった。


 朴訥ぼくとつな調子のその言葉は、意外なほど優しく、耳に心地よい。己の薩摩訛りに、どこか気恥ずかしさを感じていたようにも思えた。

 昨年の春先のころ、半次郎は新しい剣を宗景に依頼したと言った。


「一の太刀を疑わず」あるいは「二の太刀要らず」とも言われる示現流の剛剣。

 剣を携えた手を耳の辺りまで上げ、左手を添えるは八双に近い。だが示現流のそれは八双よりも、更に斬撃に特化した蜻蛉とんぼの構え。

 そこから繰り出される「雲耀うんよう」と呼ばれる撃ちこみの鋭さは、相手に受けを許さなかった。


 そんな示現流にあっても、人斬り半次郎のそれは別格であった。生半可な剣では、半次郎の打ちこみに耐えられぬのだといった。宗景の名を聞きつけ、己に合わせ剣を注文したのだという。


 だが注文をした直後、急な呼び戻しで国許に戻ってしまい、宗景の死を知らなかった――と、半次郎は言った。


 確かに、宗景は死の間際まで剣を鍛えていた。

 だが、それが完成する前に逝去してしまい、玉音にはそれがどのような筋のものであったか、皆目見当がつかなかった。


 ただ、己の最後の命を注ぎ込むような宗景の背中に、玉音は嫉妬にも似た思いを抱いたことが忘れられなかった。

 それが半次郎に頼まれた剣であるのか、玉音には分からなかった。そもそも、宗景は金を稼ぐために刀を打つことはまずなかった。客の殆どが、研ぎ師としての宗景の客である。

 それに玉音は、宗景のところに訪れた客のほとんどに憶えがある。


 だが半次郎の顔は記憶になかった。

 申し訳ないが、覚えがない――――玉音は素直に詫びた。

 宗景から何も聞いておらず、生前にやり残した仕事の事は全く分からないと、詫びるしかなかった。


 分かりもうした――――そう言うと、半次郎はあっけないほど素直にその場を辞した。

 だがそれから三日と経たぬうちに、半次郎は再び訪れた。


 どうやら患い病の様子。精をつけるがよろしかろう――――そう微笑みを浮かべ、魚や野菜を携えてきたのだ。

 施しを受ける謂れがないと、丁重に辞した玉音をよそに、半次郎は勝手に上がり込むと、己が料理し親子に進めた。


 そこまでされれば、食わぬのも失礼であろうと、箸を付けた。

 半次郎が作ったものは素朴ながらも、滋養の取れそうな美味なるものばかりだった。

 玉音たち親子が旨そうに食べる姿を見ると、半次郎は満足そうな微笑みを残し帰って行った。


 それからまた三日ほど後に、食料と薬を持ち半次郎はやってきた。

 そしてまた同じように、半次郎は喜ぶ二人を見ては嬉しそうに微笑み帰っていく。


 そんな事が、ひと月余りのうちに十回以上あった。

 夫を亡くし子がまだ幼いにもかかわらず、三日と空けずに男が訪れる――村人たちが、下世話な勘ぐりをし、あらぬ噂していることは想像に難くない。


 だがなんの見返りえお求めず、見ず知らずの自分らに尽くしてくれる半次郎にたいし女としての情が湧くことを誰が責められよう。


 その気持ちの揺らぎの中には、縁もゆかりもない女に、身銭を切って薬を買い滋養のあるものを食べさせてもらっているにも関わらず、一向に病の治らぬ心苦しさもあったのかもしれない。


 ある晴れた日のこと。

 昼前に来た半次郎が、その日は珍しく陽が落ちるまで滞在していた。

 半次郎が帰ろうとした矢先、季節外れの雷雨が襲った。


 雨が止むまで――と、そう口にしたのはどちらの方だったか。

 だが、雨は一向に止む気配を見せず、いつしか夜になり、凛音は先に眠ってしまった。


 酌をする指先が、半次郎に触れた。

 そこから忘れかけていたような熱が広がった。


 玉音殿もどうじゃ――

 差し出された盃を受け――

 情を許したのは、玉音からだった――

 その日、半次郎は雨が上がっても帰らなかった。


 そして、そんな日々が当たり前となったある日のこと。

 半次郎がいつもとは違う丸薬を持ってきた。


 小指の先ほどのそれを、閨で半次郎は玉音に手渡した。

 これは南蛮渡来の妙薬じゃ――己の胸に重さを預ける玉音に向かって、半次郎は言った。


 そんな高いもの、頂けまへん――玉音は首を振った。

 構わん。早ぅ治して、おいと一緒になっちょくれや――いつもよりも機嫌がよさそうに半次郎は微笑む。


 その言葉に、玉音の頬を涙が濡らした。

 水をとってきます――と、ほだされた玉音が身を起こしたのを半次郎が制した。

 それは上の口でんなく、下の口で呑むんじゃ――

 意味が分からず眼を丸くする玉音を引き寄せ、

 ここじゃ、ここ。女陰で呑むんじゃ――翁面のように半次郎が破顔した。

 最早、玉音にその言葉を疑う余地は無く、丸薬を差し入れ、また再び情を交わした。


 翌朝、眼を覚ますと半次郎の姿はどこにも無かった。

 そして三日が過ぎ、やがて半月が過ぎても、その日を境に、半次郎が玉音の前に姿を現すことはなかった。


 だがそれと引き換えのように、玉音の身体は見る見るうちに回復を見せていった。

 半月が立つ頃には咳は止まり、身体は軽くなった。


 しかしそれと同時に、玉音の身体に変化が起こった。

 高揚感と共に、全身を得体の知れない熱の塊がうねりのたうつのだ。その感覚は、御神託を受ける時の感覚に似ていなくも無いが、そうではない。

 もっとよこしまで原始的な衝動だった。


 腹の奥底から爆ぜるような衝動に苛まされ、凛音が寝静まるのを待って山を駆けたこともあった。

 また、時に湧き上がる熱の塊を吐き出さんと、獣のような叫びを上げることもあった。


 そんな獣のような振る舞いに、凛音は怯えながらも、気丈に玉音を支え続けた。

 全身の氣脈が乱れ狂い激しく猛る衝動に、己を見失わずいられたのも、凛音がいたからだった。

 それでも昼夜を問わず襲いくる衝動は玉音を苦しめた。


 そしてある朝。

 左半身に、いつもとは違う違和感を覚えた。

 顔の左側が、ひきつれたように痙攣していた。顔だけではない。手も足も痺れ、まるで力が入らなかった。


 ひきつる頬を確かめようと左の掌を持ち上げた時――最初、玉音は夢を見ているのだと思った。己の手が、白く長い毛に覆われていたのだ。

 左半身を下にして眠っているから痺れているのだ。それで自分はこんな夢を見ているのだ。


 そうでなければ――

 そうでなければ――


 玉音は跳ねるように起き上がると、這いずるように水瓶に向かった。

 そして変わり果てた姿を見て、玉音は気が狂わんばかりに叫んだ。


 これは夢だ。

 夢だ。

 夢であって――


 刃物のように鋭い爪で、全身を掻きむしろうとした時、優しい温もりが玉音を包んだ。

 絶叫に眼を覚ました凛音が、玉音の背に抱きついていた。

 何も言わずただ、必死にしがみつく幼い温もりが無ければ、玉音はこの時、獣に堕ちていただろう。


 だが今思えば、いっそこの時に、獣に堕ちてしまった方が、幸せだったのではないかと思うことがある。

 夜中にふと目が覚め、傍らで眠る凛音の白く柔らかな首筋を見た時、歯をたて喰いちぎってしまいたいと、何度思った事か。醜い獣毛に覆われた爪を伸ばしかけたとき、無邪気見つめ返す凛音の瞳に、何度も我を取り戻した。


「これもみな、心弱き己の浅ましさに故に、淫邪の穢れが憑りついたんかもしれまへん」


 そう呟く玉音の横顔には、諦めに似た笑みが浮かんでいた。


「山南はん。治せへんのでしたら、いっそウチを斬ってもらえまへんやろか」


 覚悟を決めた言葉だった。


「玉音さん、ちょっと良いかな?」


 おもむろに立ち上がると、山南は囲炉裏を回り込み、再び玉音の背後に立った。


「山南はん――?」

「失礼」


 柔らかだが、有無を言わさぬ声だった。

 山南は右手に剣印を組むと、左手を玉音の首の後ろにかざした。


「……急々如律令――」


 山南が呪を呟くと、玉音は首筋から温かなものが流れ込むのを感じた。

 その瞬間――山南から流れ込む何かに反応するかのように、玉音の体毛が逆立つ。

 己が身の内で蠢動する何かに耐るように、玉音の全身に力が入る。


「……おかん?」


 玉音の異変に凛音が眼を覚ました。


「起こしてもうたな」


 震える手で、凛音の頭をなでる。

 山南の掌から流れ込む氣に抵抗するように、玉音の下腹部が熱もつ。

 全身から、ぷつぷつと玉のような汗が噴き出した。


「思った通りだ」


 山南がかざした掌をそっと降ろす。

 すると玉音の震えも治まった。

 だが全身を汗で濡らし、玉音は虚脱感で大きく喘いだ。


「凛音、お母さんの身体を治すの手伝ってくれ」


 跳ね起きた凛音は、山南の言葉に瞳を丸くする。


「いいかい、今から私が言うものを集めてくれないか」


 そう言うと、凛音に分かりやすく幾つかの指示を出した。

 突然の事に困惑しながらも、凛音は力強く頷くと、戸口から飛び出していった。


「や、山南はん。いったい――治すって?」

「玉音さん、あなたのそれは労咳からくる病でも無ければ、淫邪の穢れなどでもない。いや、穢れと言えばこの上なく穢れているかもしれない」


 そう話しながらも山南は忙しなく辺りを見渡し、しきりに何かを探しているようだった。


「これはあくまでも私の推論だが」


 そう前置いたうえで、


「あなたが中村半次郎と称す者から呑まされたモノは薬などでは無い。むしろ毒――いや毒でも無い。強いて言うなれば『呪薬』とでも言うべきか」


 山南ははっきりと言いきった。


「毒? 呪? 山南はんは、半次郎はんがうちに毒を飲ませた言うんどすか?」


 見つめ返す視線に険が含まれる。


「いいですか。中村某なる者が、いかなる理由で玉音さんにそれを与えたかは存じません。ですがその材料とされたものであれば見当が付きます」

「そ、それはなんどすか? 」

「恐らくは人外――あやかしの精でしょう」

あやかし――」

「時に妖は、女を襲い孕ませることもあるといいます。恐らくはそのような時に放つ精をもちいて呪薬を作ったのでしょう。そういったものが玉音さんの体内に溶けだし、氣血を増し、精力を増大させたのでしょう。それ故、病患いからは回復もしたのでしょうが――」


 そこまで言って山南は言葉を詰まらせた。


「なんですの? 言うてください」

あやかしの精が増殖し、玉音さんの血肉と融けあいだしたのだと思います」


 あぁ――と、玉音が力なく項垂れた。


「いうなれば呪をかけられた毒。つまりある種の憑き物と言っても過言ではない」

「それならば、ウチかて神職の端くれです。そのような穢れなど――」

「玉音さん。あなたが巫女であったとしても、否。なればこそ、このような妖に対しては効かぬのです」


 体内に巣食う妖は、宿主とも言うべき玉音の霊力を糧にし成長していくのだ――と、山南は言った。

 もしかしたら、なにか霊的なものに憑かれたのかと、考えたこともあった。だからこそ医者にも行かず、己の霊力を用いて祓おうと試みたのだ。

 だがそれは全て逆効果だったのだ。


「そんな医者でも絶対に治せまへん。ましてお侍さんの山南はんに治せるわけ、ありゃしまへん――」


 先程の山南の言葉に、一瞬湧き上がった微かな希望が、儚くもしぼんでいく。

 それだけに玉音に浮かんだ落胆の色は一層濃く見えた。


「仰るとおり私は医者でも薬師でも漢方医でもない。ですがある意味、私は侍でもない」


 そう言って山南は自嘲気味に微笑んだ。


「ですが、私の本来の生業なれば、それを解決することも出来ると思うのです」

「山南はん、あんたはんは一体――」

「騙されたと思って、任せてくれませんか」


 暖かな春風のような笑みに、玉音は自然と頷いていた。


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