第9話 五行祓


 ぱちり――と、囲炉裏の中で炭が爆ぜた。


 囲炉裏の脇に、玉音が身を横たえている。

 眠ってはいない。

 その瞳は天井の梁を見つめている。

 玉音の頭の上には、葉を残したままの杉の枝が置かれていた。


 先程、凛音が山南に言われて手折ってきたものである。

 横たわる玉音の右側には、水の入った木の椀。

 左側は囲炉裏が面し、炭からは炎が立ち上がっている。

 右の足元には、宗景の仕事場にあった剥きだしの小柄が置かれている。

 そして、左の足元には土間より集めた土が盛られていた。


 玉音から少し離れたところに、凛音が座っている。心配そうな表情を浮かべ、玉音を見つめるが、山南には、期待に満ちた視線を向けている。


「では始めましょう」


 玉音の足元に坐した山南が、静かに告げる。

 すくっ――と、立ち上がる山南の眼尻には、先ほどまでと変わらぬ柔らかな皺が刻まれていた。


 だが先程までと、何かが違った。

 人の好い商家の若旦那とも見える雰囲気はそこにない。

 それどころか、山谷の闇に佇む幽幻のような近寄りがたい空気を纏っていた。


 途端に、凛音には、山南の姿がとてつもなく怖いものに見えてきた。

 そんな凛音の心持など知ってか知らずか、山南は確認するように玉音を見つめ、続いて凛音に頷いた。

 それに応える様に玉音が頷くと、凛音も頷いた。


 山南は右手の指先を立て、剣印を作り、何ごとかを呟くと、玉音の傍らに立った。

 ぴん――と、空気が張り詰めていく。

 凛音の肌が、ぞわぞわと粟立った。

 ぶるりと、身震いをすると逃げ出したいのを我慢するように唇を噛みしめた。

 山南は剣の柄に手をかけると、白刃を抜いた。


「あっ……」


 凛音が思わず声を漏らすと、


「――大丈夫や」


 任せましょ――と、震える声で、玉音が諭す。

 山南の切っ先がゆっくりと動くと、玉音の頭――正確には、頭の上に置かれた杉の枝を指した。

 つつっ――と、玉音の身体をなぞるように剣が奔り、足元の盛り土の上で止まった。


 そこから剣は、右の脇に置かれた水の入った椀へ至り、玉音の身体を横切りながら、囲炉裏の炎を指す。

 山南は切っ先を返し、右の足元に置かれた小柄へ。

 剣先は再び頭部の杉の枝へ戻ると、玉音の身体の上で剣の切っ先は弧を描き、山南の柄へ戻された。


『五行』――すなわち、この世の万事の根本を成す五つの構成要素。


 木・火・土・金・水。


 山南はそれらを玉音の周囲に配し、結界を張ったのだ。

 次に山南は、懐から人の形をした白い紙片を取り出した。

 玉音の脇に膝を着くと、山南は再び印を組み、呪を唱える。

 その紙片を緋袴の上から、玉音の臍下――丹田に押し当てた。


 それは『撫物なでもの』と呼ばれる呪術――人の形の紙片を形代とし、これに厄災を移し祓う呪の一種だろう。

 山南は指先で紙片を抑え、呪言を唱える。


「ううぅっ……」


 それに反応するように、玉音が身をよじった。


「熱っ――」


 玉音の下腹部に熱が集まっていく。


「おかん!」


 びくんと背を反らせる玉音に、凛音がたまらず腰を浮かせる。


「大丈夫、心配はいらない。そこで見ているんだ」


 山南の視線は玉音を見つめたまま、声色だけは優しく凛音を諭す。

 凛音は頷くと腰を降ろした。

 その様子に、山南の眼尻に皺が刻まれる。


 そのまま再び呪を唱えると、山南の指先と玉音の下腹部で挟まれた形代に、黒い染みが浮き上がってきた。

 玉音の下腹部から泉のように染み出したものが、瞬く間に紙片を黒く染めていく。


 ぬらりとした墨のようなそれは、形代を染めながら、ぞわりと蟲の様に蠕動する。

 細かな線虫が蠢くようなそれは、黒い獣毛だった。

 紙片が全て黒く染まると、獣毛の蠢くそれを山南は掴みあげた。


「そ、それ……」


 凛音の声が震えている。


「これが君の母上の病の元凶だ」

「――それが病。じゃ、じゃあお母んは」


 凛音の顔が明るくなる。


「残念だがこれだけでは、まだ駄目だ」


 山南の言葉を裏付けるように、玉音の左半身は、未だ白い獣毛に覆われている。

 だがそれでも、先ほどまでと比べて毛量は明らかに激減していた。


「山南はん……」


 玉音が肩で息をしながら身を起こすと、背後から抱きつくようにして凛音が支えた。


「身体の様子はどうだろうか?」


 確かに精力をごっそりと抜かれたような虚脱感はある。


「はい」


 だがここ最近にない、清々しさと身体の軽さが実感できた。


「玉音さんの服用した呪薬は、私の想定以上に思強力な呪がこもっていたようです。これだけ強力だと一度で形代に憑かせきるにはさすがに無理がある。だがあと一度か二度――そのくらい行えば何とかなるでしょう」


 その言葉に、玉音の表情が初めて綻んだ。


「ほ、ほんまですか?」

「おそらく。だが、玉音さんも実感しているように、この術はかなり消耗するものです。続けて行うことはかなり危険だ。日を改めて、残りは取り除きましょう」


 山南が手にしていた紙片を囲炉裏の炎にくべると、黒く蠢くそれは悶えるように身を丸め、瞬く間に燃え尽きた。


「山南はん、ほんまおおきに」


 玉音が深々と頭を下げた。


「疲れたでしょう。今日はゆっくり休んでください。明日また伺いたいと思います」

「もう陽も暮れます。よろしかったら泊まっていかれたら――」


 玉音の言葉を山南はそっと制した。


「いや、玉音さんはかなりお疲れのはず。凛音も緊張で疲れているでしょう。ですから明日もう一度こちらに出向き、呪を施します。事を確実に進めるためには、私にもそれなりの準備が必要なのです。ですから明日、また出直してきます」


 声音こそ柔らかだが、有無を言わせぬ響きがある。


「分かりました。よろしゅうお頼み申します」


 玉音が頭を下げると、凛音もその隣で倣った。


「凛音。今夜は母上に何か温かなものを食べさせてあげるんだ。いいね」


 そう言い残すと、眼尻に深い皺を蓄えて、山南は上条母子の家を後にした。



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