第12話 死獣奏
樹々の織りなす陰影の中に、白々とした月明りが射しこんでいる。
まるで丹念に描かれた水墨画を、白刃の煌めきで切り裂いたかのような灰色の森に、朱が一染み――――緋い袴姿の狐巫女が狂ったように奔っていた。
身体が軽かった。
このように自由に身体が動くのはいつ以来だろう。
まるで真綿か羽のように重さを感じない。
だからと言って、風に流され漂うわけではない。
己の脚で地を蹴り、駈ける。
自由に身体が動く。
樹の根の露出する森の中を、苦もなく駆ける。
足の裏は雪を踏みしめるも、冷たさなど感じない。
むしろ熱く血の滾る身体にはちょうど良かった。
真冬である。
繁る葉はなく、梢のみが織りなす荊の檻の様な森を、一匹の獣が駆けてゆく。
迷いはない。
点々と続く紅い血の跡――そこから芳る濃密な獲物の匂いを辿って、ひたすら駈ければよかった。
玉音は自由だった。
己を縛り付けていた人としての、しがらみすら今となってはどうでも良かった。
その身は疲れを知らぬ童のように嬉々としながら、森を縦横無尽に駆ける。
白銀に覆われた樹々の間を風のようにすり抜け、一歩ごとに身の裡から余計なものが剥がれていくようだ。
だが、玉音は囚われていた。
そうたった一つの感情に。
殺――
殺。
殺。
殺。
病に伏した己が身の弱さを、どす黒い怒りで染めるると、身体が軽くなった。
殺。
寂しさを男に預けてしまった弱さを、殺意で塗り込めると、身体が前に出る。
殺。 殺。
怪しげな薬などで、我が身をこのような身体にした男――
殺。殺。殺――
己を辱めた半次郎の顔に爪をたてるところを想えば、身体が熱くなる。
殺――
なにより、娘に、凛音に殺意を向けた男に牙を穿つところを想えば――
殺殺殺殺殺殺っ殺殺ころして殺殺す殺す喰う殺す喰らう穿つ裂くころすころすころす殺殺殺殺殺喰らう殺殺殺殺殺ぅぅぅぅぅぅぅぅぅるぅぁぁぁぁぁぁぁあ刹殺ぅぅぅ!
玉音の口から獣のような咆哮が、美しい旋律となり天へ
金色に瞳を染め、全身を覆う白い獣毛をたなびかせた白狐――白衣緋袴に身を包んだ美獣が歓喜の声を迸らせた。
その時、樹々が途切れ森を抜ける。
周囲を樹々で囲まれた、拓けた雪原――
奇しくもそこは、凛音が山南に助けられた場所だった。
舞台を照らすかのように、白々と月明りが降り注ぐそこには、隻腕の悪鬼がいた。
愛おし(殺す)くて切なく(殺す)て憎く(殺す)て狂おしく(殺す)恋い(愛)焦がれた男(獲物)が独り立っていた。
「玉音――待ちわびたぞ」
中村半次郎と呼んだ愛おしい男――――白鯰が、あの日と同じように微笑んだ。
玉音は睦言のような咆哮を上げ、月下に躍り出た。
恋い焦がれた男の胸に跳びこもうとした玉音を待っていたのは、熱い抱擁でもなければ優しい温もりでもなく、冷たい鋼鉄の牙だった。
ぶわっと、真っ白な粉のように雪煙が舞い上がる。
隻腕となった両腕を大きく広げ、玉音を迎えようとしていた白鯰の姿が突如消えた。
白鯰に代わって玉音を抱きとめたのは、鋼鉄の罠――鋭い牙をもつ虎挟みだった。
鎖に繋がれた鋼鉄の顎が、細くしなやかな玉音の四肢を咥えこんだ。
「るゅぃぃぃぃぃぃゅゅゅ――――ん」
玉音は苦悶の咆哮を漏らし、身をよじり抵抗する。
だが、その一つで巨大な熊すら動きを封じる鋼鉄の顎が四つ。
雪の中に隠されていた凶悪な罠が、玉音の四肢を咥えこんで離さない。
「くはっ。所詮は獣じゃの」
白鯰が下卑た笑みを浮かべる。
「――ぐりゅゅゅぅぅぅぅぅぅぅ!」
今の玉音にとって四肢の痛みなど、どうでも良かった。
だがそれよりも、せっかく得られた自由を奪われることが我慢ならなかった。
離せ!
離せ!
邪魔をするなぁぁ!
――玉音の心が叫ぶ。
この男を――
獲物を――喰らい尽くすのだ!
邪魔をするな!
玉音が鎖を引きちぎらんと、激しく暴れる。
だが、太さが親指ほどもある鎖が、周囲の太い樹にしっかりと括りつけられている。
力任せに引こうとも、鋼鉄の牙がさらに深く喰いみ、玉音の四肢から鮮血を吹き上げさせるだけだった。
「はぁん。生意気にも悔しいか。じゃっどん、貴様をこんまま縛り上げ、洛中まで連れ帰るんじゃ――のう?」
白鯰は誰もいない森に向かって問いかける。
「にしても、まっこといかれじゃの『うぇあうるぶ』言うやつは」
玉音が届くギリギリの距離を見切り、小馬鹿にするように顔を突きだす。
僅か一寸ばかり先に居る白鯰に牙も爪も届かず、まだ人の面影の残る金色の瞳が怒りと屈辱に震える。
「くひっ――くははっ」
腕を失った痛みも忘れ、半次郎は満足そうに嗤った。
その時――
「は……はんじろう……はん――」
「ああん?」
玉音の瞳が、人のそれを取り戻し涙に潤んだ。
その刹那。
さすがの白鯰がほんの一瞬。瞬き一つにも満たない刻に、身を重ね合わせた女の温もりを思い出した瞬間だった。
ぞぶり――と、
玉音の突きだした顎が、白鯰の喉笛に喰らいついた。
「――ご……ぼば――くぽぽ……」
何が起こったのか。白鯰が眼を見開く。
咽喉元をごっそりと喰いちぎられ、声の代わりに大量の血が溢れ出す。
骨まで達するほどに喰いこんだ虎挟みから、力任せに手足を引き抜いた代償に玉音の四肢の肉は、襤褸雑巾のようにずたずたに千切れた。
だが、全身を朱に染めながらも白鯰を見上げる金色の瞳は、凄まじくも美しい。
玉音は満足そうに微笑んだ。
微かに揺れる瞳に滲むのは、怨嗟を晴らした愉悦か、哀切ゆえの憎しみか。
断末魔の白鯰の瞳に、玉音とよく似た光が浮かんだ。
だが、己を見上げる玉音の頭部を、そっと抱きしめようとするその手には、鋭い光を放つ長い針が握られていた。
白鯰の口角が、微かに歪んだ。
針が振り降ろされるよりも一瞬早く、玉音が力任せに爪を振るう。
ぶちんと、音をたて白鯰の首が月下に舞った。
夜空で、白鯰の首と月が、ほんの一瞬、重なった。
その光景を見つめる金色の瞳は、首が落ちた後も呆けたように白い月を見つめていた。
るぃぃぃ――――ぃん――――――
るぃぃぃぃぃ――――んん――――――
咽喉を突き上げ、鈴が鳴るように月に響くは、玉音の嗚咽だった。
――と、月に哭く玉音の背後に、黒い人影があった。
呆けたような玉音が、ゆっくりと振り返る寸前――玉音の首筋に、一尺はある鍼が刺しこまれた。
びくん、と玉音の身体が硬直する。
「大陸伝来の秘薬じゃ。凶暴な人食い虎でも一瞬で眠りに落ちるしろもんじゃ」
そう呟きながら玉音の首筋に二本目の鍼を刺す。
大きく牙を剥きだした玉音の耳の下にも一本ずつ、合わせて四本の鍼を打ちこんだ。
すると、玉音の身体が、力なく沈んだ。
そんな様子を眉一つ動かさずに氷のように見つめるのは、宗景の家で終始口を開かなかった山くぐりの男だった。
何の変哲もなく、平凡な容貌のこの男。不思議な事に気配を一切感じさせない。
生き物としての匂いも皆無に等しく、凡庸過ぎて記憶にも残らぬ顔立ち。
まるで無味無臭、空気を固めたかのような男だった。
ほんの一瞬、白鯰の首を一瞥するも、なんの感慨も窺わせない。
男は機械的な動きで、懐から取り出した紐を使い玉音を縛り始めた。
「ほぉう――」
急速に傷口が修復してゆく玉音の四肢を見て、感心するような声を漏らした。
自分たちの頭であるはずの白鯰が殺されても表情一つ崩さなかった男も、急速に傷の乗っていく様を見させられては、声を漏らさずにはいられなかった。
だが次の瞬間――男は振り返りざまに、背後に向かって懐から抜いた鍼を放った。
ぎぃん――
ぎぃんん――
両断された二本の鍼が、月明りに煌めいた。
「それ以上その方を傷つけることは許さない」
そこには、白々とした月光を身に纏い、山南啓助が立っていた。
ぱちりと、山南が剣を鞘に納める。
「貴様はあの時の――」
山南は漸く思い出した。
眼前に立つ虚ろを形にしたような男は昨日、斉藤との別れ際に伏見湾で見かけた、一団の先頭に居た男だった。
山南を見つめる男が、手にした鍼を宙に放り投げる。
くるくる――と、それが月の光を絡みつかせ、再び男の手に吸い込まれた。
「おはんこそ何者じゃ?」
感情を感じさせない蛇のような眼が、山南を舐めるように見つめる。
「会津藩御預り、新撰組。副長山南啓助」
「新撰組?
「薩摩の山猿こそ、よほどお暇とお見受けする。女子供を辱め邪法にまで手を出すなど薩摩隼人が聞いて呆れる」
朝廷の中枢に入り込み
それを画策したのが京都守護職を務める
それまで朝廷に影響力を持っていた三条実美ら攘夷派の公家らは、参内を禁止され長州勢と共に都落ちした。
それに代わり朝廷での発言力を増し、京で実権を握りつつあったのが薩摩藩である。
つまり山南と山くぐり達は同じ派閥の最末端同士と言うことになる。
「長州になり替わり朝廷での発言を強め、京で幅を利かすのはよいでしょう。だが、娘の成長を願い、日々の安寧を願う無辜の民草を巻きこんだ鬼畜にも劣る所業。許されると思うのか」
山南の口舌が刃のように斬りつける。
「薩摩言うても、おいらは薩摩隼人なぞという高尚なもんではなか。所詮、おいらは『捨てがまり』じゃ」
「捨てがまりだと?」
戦国期――勇猛果敢で知られる島津家は退却時に少数の兵を残し、敵の追撃を妨害する戦術を用いた。茂みなどに潜み、追手が近づくと至近距離から銃などを使い、敵をかく乱し味方の逃走を助けた。この生還不可能な決死の戦法は『捨てがまり』と呼ばれ、そこで用いられた者たちが『山くぐり』と呼ばれる忍衆であった。
「目的遂行のため、死地に命を捧ぐどじゃ」
朴訥で感情の起伏がない。極当たり前のことを淡々と呟くのみ。
だがそれだけに、その言葉には抗い難い怖ろしさを感じる。
「文字通り、頭目が死んでも任務遂行に躊躇いがないと言うわけか」
動かぬ玉音と既に息絶えた白鯰を、交互に見据えた山南の眉間に皺が浮かぶ。
「頭目じゃと」
男の薄い唇が、ひきつれたように持ち上がった。
「こやつは頭であって頭でなか」
「なに?」
「こいはは
「陰と陽――捨て面?」
「甘か面で人をたらし込むが表ん顔なら、己を殺し周囲に溶け込ませ、周りをたらし込むが裏の貌じゃ」
陰の輪郭が歪んだような気がした。
「弟が死なねば、おいが表に出ることも無かったが、仕方あるまい」
ふん――と、白鯰――陰が嗤った。
「おはんがここまで来たいう事は、他の奴らも死んだゆうことじゃろ」
斉藤と久三の決着を山南は見ていない。
だが、斉藤の勝利は揺るぎないものと確信があった。
「そうまでして玉音さんを、人外に変じさせてなにを企むのだ」
「手ば引けぃ」
陰は山南の質問に答えない。
「こんまま黙って帰んであれば、おいも見逃すっど」
確かに、山南は会津藩預かりの身分である。薩摩の命で動いている山くぐり衆と敵対することは得策ではない。
「こん
陰が顎で玉音を指し示す。
「おいども薩摩がエゲレスから仕入れたこの呪薬ば使えば『うぇあうるぶ』っちゅう化けもんを作れっとじゃ」
「エゲレスだと」
山南の眉間に険が浮かぶ。
「薬で化けもんば作れんであれば、幾らで作れもんそ」
「なに――」
「獣でんあればいくらでも使い潰せんど。ほなら攘夷の尖兵として、立派な捨てがまりとして役に――」
「――ふざけるな」
「あん?」
陰の言葉を山南が遮る。
「獣だと? ふざけるな! この人を見ろ。夫を亡くし自らも病を患いながらも、愛娘を想い必死に生きていた。だがそんな心の隙に付け込み健気な女心を弄び、薄汚い野望に利用しようなどと――武士の風上、否! 人の風上にも置けぬ」
山南の身体から熾火の様な殺気が立ち昇る。
「あぁん?」
「この人は人間だ。真に獣と蔑まされるは貴様らだ! 貴様らこそが畜生以下の薄汚い化け物だ!」
陰の頬がピクリと引きつる。
いままで全く感情の色を見せなかった陰に、初めて感情が動いた。
「我らは京都守護職預かり。すなわち、京におわす天子様の御身と市井の人々の安寧を守護することこそが使命――なれば、無辜の母娘に仇なす貴様ら鬼畜の如き醜き者を討つも我が使命」
――と、山南がにじり寄る。
「今この場にて我が剣が斬るは鬼畜にも劣る外道の獣――西南の雄である薩摩隼人に獣はおるまい」
なれば――と、剣を抜き、
「遺恨はあるまい」
山南は青眼に構えた。
星の瞬きが煌めくように、山南の剣先が独特の拍子を刻み揺れる。
「なれば剣で語っとか」
陰も剣を抜くと、こめかみの横で刃を立てた。
それは久三と同じ示現流、蜻蛉の構え。
だが、示現流独特の、烈火の如き気迫はそこに無い。
ただそこには、人の形に空を切り出したかのような虚無があるのみである。
それに対し、山南の剣には煌々とした月明りが注ぎ込まれていくようである。
月光が刀身を白く染め上げ、山南の放つ氣と融けあい、さらに輝きを強める。山南の放つ光が強くなればなるほど、陰の纏う虚無はより一層凝っていく。
「術師崩れが――おいと剣で語れるっとか」
先に動いたのは陰だった。
そこには迸る気迫も、烈火の如き気勢も無い。
月明りに落ちる影が伸びるかの様な――闇に吸い込まれるような動きだった。
虚無がいくら積み重なろうとも虚無である。初動も気配もまるで感じられなかった。
一瞬にも満たぬ刹那のうちに、陰の剣が山南に襲い掛かった。
その斬撃は久三の比ではない。
陰の虚無の太刀は、山南に一瞬の反応も許さず、頭頂から尾骨までを蝋を斬るように断ち斬った。
「むぅ?」
だが、一刀両断したはずの山南の身体が、陽炎のように掻き消えた。
残像――
陰は反射的に剣を掃うと、跳ねるように間合いを取る。
「幻術か――」
陰の視線の先には、先ほどと変わらず青眼に構える山南がいた。
「示現流は剛の太刀の極み。実の剣だと思っていましたが、虚の剣とは恐れ入った」
山南が感心したように呟く。
陰の剣は、久三の使った一般的な示現流とは全くの異質。
己が全てを灼熱の炉にくべ、爆発的な力で一刀の下に斬り捨てるのが示現流の表、すなわち剛の剣であるのならば、陰の放った一刀は、己が感情も存在も捨て去り、虚空より放つ示現流の裏。まさに虚の剣だった。
「むんっ」
陰が露を掃うように剣を振るう。
「貴様相手に、我が術など必要ない」
山南がその剣を弾いた。
「鬼畜生を退治するには、剣で斬り伏せるがよかろう」
山南の切っ先が、陰の咽喉元をぴたりと指し示す。
「おはんが!」
陰が力任せにその剣を弾く。
打ち合い刃を交え、激しく鎬を削る二人の剣が火花を散らす。
まるで乱舞するかのように撃ちこまれる陰の剣は静寂なれど、その全てが雲耀を超える必殺の太刀。
その凄まじき斬撃は、掠めるだけで骨肉を断つ。
だが山南は、久三や権八を凌駕する斬撃を、舞うかのような優雅さで捌いていく。
柳に雪折れなし――
虚であるはずの陰の剣が、山南に捌かれ剛へと転じ、そして山南の虚に飲みこまれてゆく。
「せいぃぃ!」
刃筋の乱れた陰の剣を、山南が下から弾き――沈み込むように踏み込むと、そのまま胴を抜く。
「きぃぃゃ!」
体制を崩された陰が宙に逃げるも、山南の剣が一瞬早く脇腹を斬る。
躱し際、陰が苦し紛れに放った鍼は、返す山南の剣に阻まれこ、とごとく宙に消えた。
雪の上に手を着き、二転三転――蜻蛉を切ると、陰は何事もなかった様に剣を構える。
だが右の脇腹から滴る血が、足元の雪に赤い華を咲かす。
柄から手を離し、自分の傷を撫でると血のついた指先をべろりと舐めた。
「殺す――」
紅を塗りたくったように口元を汚し、陰が口角を上げた。
「やってみるがいい」
山南が走った。
月光を纏った山南の剣が、白い軌跡を残し闇に煌めく。
「ぜやぁぁぁぁ!」
裂帛の気合と共に撃ちこまれる北辰一刀流の剣は、示現流に勝るとも劣らない。
山南の剣を受けに行った陰の剣が、逆に弾かれ宙を飛んだ。
「覚悟!」
剣を失いがら空きになった陰に、山南の一刀が振り下ろされた。
だがその時――
ゆらり――と、陽炎のように玉音が立ち上がった。
「玉音さん」
視界の右端にその姿をとらえ、山南の動きが一瞬止まる。
「きひっ!」
浅かったか――と、山南の背筋を冷たい殺気が走った。
戻した視線の先には、喜悦の貌を浮かべた陰がいた。
「殺すっど」
陰の手には、懐から抜かれた短銃が鈍い光を放っていた。
山南が脊椎反射の速度で跳んだ。
ぐぉおんん!
轟音を響かせ、陰の銃が火を噴いた。
灼熱の鉛玉が山南の頬を引き裂き、闇に吸い込まれる。
刹那。山南の剣が煌めくと、銃を持つ陰の腕が宙を舞った。
「――っ!」
喜悦の表情を貼りつかせ、陰の顔が凍りついたように固まった。
「因果応報――」
山南の剣が跳ね上がり陰の首を
ぽとり――と、雪の上に転がった陰の貌は、嗤ったままだった。
喜悦の表情のまま、陰の首は月を見つめていた。
「罪なき母娘の犠牲の上に成り立つ明日の世など――私は断じて認めない」
血糊を振り、山南は剣を鞘に納めた。
「玉音さん」
山南が振り返ると、そこには、未だ獣の姿をした玉音が茫と月を見上げていた。
しらしらと月明りを浴びる、白銀の獣巫女。その姿は神々しく美しかった。
「――玉音さん、大丈夫ですか」
山南は疲労する身体を引きずり、玉音に歩み寄る。
二人の距離が二間ほどになった時だった。
ようやく山南の存在に気が付いたのか。玉音が視線を向けた。
月光を浴び、全身を白銀に輝かせた美獣――
耳は尖り、口元は緩やかに突出し犬歯が唇を捲りあげ覗く。
そんな中で、はだけながらも辛うじて身を覆う巫女装束と、獣毛の奥で山南を見つめる瞳だけが、人であったことを伺わせてくれる。
「……やむぁ、なにぃ――」
長い舌を持て余すのか。不明瞭な言葉で呼ぶのは山南の名か。
「玉音――」
だが、その金色に輝く瞳に宿る光は、獲物を見つけた獣のそれだった。
月光を絡みつかせ獣毛が白銀にうねる。
玉音が跳ねるように
鎌のように鋭い爪が頭上より振り下ろされるのを、山南は剣で受ける。
りぃぃぃ――――――ん
「ちぃ!」
だが山南は剣を途中で止めると身を捻り、爪を寸前で躱す。
「くうぉぉぉぉぉぉぉ――――ん」
山南の首筋めがけ、玉音が口を大きく開き牙を打ち鳴らす。
「止めるんだ玉音さん!」
玉音の攻撃は、飢えた野獣が獲物を狙うそれだった。
爪で敵の戦闘能力を削ぎ落とし、大きく開いた顎(あぎと)で肉の柔かな部位に喰いつこうとする。
そんな人間を超えた野獣の動きに、山南の身体が反応し剣がでる。
りぃぃぃ――――――ん
だが、山南の剣は寸前で剣を止める。
その隙に、玉音の爪が山南の腹を抉った。
「ぐっう!」
山南が転がるようにして距離をとる。
まただ――咄嗟に、山南が剣を止めるよりも一瞬早く、剣が重くなる。
それはまるで剣自身が、玉音を斬ることを拒んでいるかのようだった。
「――上条宗景。死して尚、妻を護ろうということか」
凛音から託された宗景の鍛えし剣である。妻を斬れぬのは当然であろう。
思わず、山南が眼尻の皺を深くする。
だが、そんな感傷を知る由も無く、本能に突き動かされた獣巫女が山南を襲う。
横薙ぎに振るわれた玉音の爪を、山南は
沈み込むように外側に転身すると、刃を玉音に当てぬよう注意を払い側面から肩関節を
「これなら文句はあるまい」
だが玉音の勢いを殺しきれず、力任せに振りほどかれた。
「やはり簡単にはいかないか」
自嘲気味に呟くと、すかさず懐から呪符を放った。
「雷火招来!」
片手で印を組み、呪を唱えると呪符から眩い雷光が発せられる。
それがまるで生きているかのように玉音の脚に絡みつくと、白銀の身体が弾かれたように転がった
「さて、どうしますかね」
腹の傷を撫でながら山南は苦笑する。
深くは無い。出血はあるが中までは達していない。
だが玉音を傷つけず、呪薬を祓うのは困難を極める。
このように玉音が自我を失っていては、昼間のような術式を行うのは無理だ。かといっておとなしくさせる為に手足を斬るわけにもいかない。
りぃぃぃぃぃぃ――――ん
りぃぃぃぃ――――りぃぃぃぃ――ん
突如、山南の手にした剣が、震えるように鳴った。
「むっ」
手にした四神刀の刀身が、淡い光を放ちながら身を震わせていた。
凛音からこの剣を手渡されたときから、もしやとは思っていた。
「これは霊剣か――」
権左を斬った時、全身を四神が駆け巡った。
四神――すなわち、白虎・青龍・玄武・朱雀の聖獣。
おそらく鍔にあしらわれた四神の力を念じて、上条宗景が鍛え上げた霊剣なのであろう。
りぃぃぃぃ――――ん
山南が確認するように柄を握ると、それに応えるように刀身が光を強くし、鍔が鳴り響いた。
「よし」
意を決し山南が立ち上がるより、玉音が雷の呪符から逃れる方が速かった。
「いない?」
ほんの一瞬のうちに玉音が姿を消していた。
もしもあの姿のまま山を下りたりしたら――山南の背を旋律が走る。
その時――
「きゃぁぁぁぁ――!」
森の中から悲鳴が上がった。
山南のやってきた方向――つまり、鍛冶場の方向だ。
獣巫女は、森の中に山南よりも捕食しやすい獲物を嗅ぎつけたのだろう。
おかん止めて――と、響く幼い声。
「凛音!」
叫ぶと同時に山南は走り出していた。
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