第13話 玄武翁


 探しに行く――と、凛音が外へ飛び出した。


 この女童に義理はない。

 だがこの子になにかあれば、山南に対して義理が立たない。

 仕方がない――と嘆息し、斉藤は後を追った。


 事情はまるで分からない。だがこの状況を見れば、山南がとんでもなく厄介な事に巻き込まれたのは明らかだった。

 不思議な高揚感に、斉藤の鼓動が高鳴った。


 そもそもが、

 山南を探れ――副長の土方歳三の命令であった。

 何者かから手紙を受け取った直後、非番を使い「伏見に行く」という山南を探れというのである。


 土方と山南は同じ副長と言う立場でありながら、まるで水と油。真逆の人間である。

 厳なる規律と理をもって新撰組を取り仕切るが土方歳三であれば、仁徳と智をもって新撰組を支えるのが山南敬助。

 まさに剛と柔。或いは陰と陽、虚と実。どちらも局長たる近藤勇の両腕として新撰組を支える要である。


 しかし、江戸は試衛館以来の付き合いである山南であるが、土方は何か含むものが有るのであろうことは薄々、斉藤も気が付いていた。

 なんであれ斉藤にとっては関係のない話である。故あって土方には一角ひとかどならぬ義理がある以上、命令されれば従うと決めているだけのこと。


 それに山南に関しては、斉藤自身も惹かれるものがあった。というよりも、興味があるのだ。

 元来、斉藤は他者に対し興味を示す質ではない。

 だが山南敬助という男に対しては少々違った。

 人斬り集団とも揶揄される新撰組にあって、山南敬助と言う男は一際異彩を放つ存在であった。


 一見すれば、商家の若旦那か学者を匂わせるような優男。だが新撰組随一の博識を驕ることもなく、常に冷静沈着。常に春の陽射しのような笑みを絶やさず、温厚な人柄は武士とも思えない。

 だが一度ひとたび剣を持てば、北辰一刀流の達人。新撰組にあってもその剣の腕前は五指に入らずとも劣るまい。新選組は人柄や博識ぶりだけで治められるような、集団ではないのだ。


 人格者として人望を集める山南であるが、時に斉藤はその裏にある怖いものを感じる瞬間があった。

 それがなんであるのか説明は出来ない。だが幼いころ、暗闇を覗いたときに感じた底知れぬ深さ――土方の感じているものも、正体は同じなのかもしれない。


 だからこそ斉藤は「大阪に行く」と嘘をつき、山南に同行したのだ。

 周囲に気づかれぬよう船を降り、泳いで寺田屋浜に戻った。

 見知らぬ男と寺田屋に入っていく山南の姿を見つけ、身を潜ませた。


 それから一刻以上過ぎたころだろうか。流石に濡れた身体が冷え切り、現界を感じ始めたころ、山南と一緒に寺田屋に入った男が眼の前に現れた。

 才谷――と名乗った男から「明日の夕刻、こん場所へ行ってみるがええき」と一枚の地図を渡された。


 面白いもんが見れるぜよ――と、熱燗の入った瓢箪を斉藤に押し付け、才谷は何処かへ消えていった。

 不覚にも、寒さに耐えきれず酒を口にすると、斉藤はそのまま眠りこけてしまったのだ。


 眼が覚めた時は正午を過ぎ、すでに寺田屋に山南の姿はなかった。半信半疑のまま地図に描かれた場所に向かうと、山南が襲われていたのだ。

 この不可解な状況を見届けることが、山南のもう一つの顔を知ることに繋がるのだろう。

 そう思うからこそ斉藤は、凛音の後を追ったのだ。


 迷うことなく森を進んでいく凛音の後ろを斉藤がついてくる。もう間もなく行けば、森を抜け開けた場所に出る。

 自然と、凛音の足が速くなった。


 その時だった。

 突如、獣の吠える声が鳴り響いた。


「な、なんやの――」


 それは凛音がこの山で暮らしていて一度も聞いたことがない、なんとも怖ろしく、物悲しい声だった。

 だが同時に凛音は、その声を美しいとも懐かしいとも思った。


 隣を歩く斉藤が脚を止め、腰を落とす。

 斉藤のただならぬ雰囲気に、凛音身も脚を止めた。

 そんな凛音の背を、斉藤が優しく叩いた。

 凛音は、強面の無表情な侍の顔を見上げ頷くと、ゆっくりと歩き始めた。


「――あっ」


 だが、雪に隠れていた樹の根に足をとられ、躓いたその時――



 くぅぉぉぉぉぉぉぉん――と、再び、あの鳴き声が聞こえた。


「危ない!」


 倒れそうになる凛音に差し出されたのは、受け止めてくれる手ではなく、小さな身を突き飛ばす斉藤の手だった。


「えっ?」


 雪の上に倒れていく凛音の頭上を、白銀の獣が通り過ぎた。


 ぎゅぃん。


 鋭い金属音が背後で響き、肉が肉を打つ重い音が続いた。


「ぐっ」


 振り返ると斉藤が仰向けに倒れている。

 だが、凛音に背を向け、斉藤の前に立つその姿は――


「……おかん?」


 傷つき破れ汚れてはいるが、見覚えのある巫女装束は玉音のものだった。

 その身体は獣のような姿に変じようとも、その柔らかな背中は間違いなく母である。


「おかん!」


 その叫びに、玉音がゆっくりと振り返る。


「逃げろ!」

「えっ?」


 思わず駆け寄ろうとする凛音の足を止めたのは、斉藤の叫びではなく、振り向いた獣の顔で輝く金色の瞳だった。 


「……お、おか――」


 愛おしいはずの娘を見つめるのは、母のそれではなく飢えた野獣の瞳だった。


 くぉぉぉぉぉ――


「きゃぁぁぁぁ!」


 愛娘に向かい牙をむく玉音を、跳ね起きた斉藤が柄で殴り飛ばした。

 不意を突かれ転がる玉音の脇を抜け、斉藤が凛音を抱え上げた。


「逃げるぞ」

「待って。あ、あれ――あれは、うちのおかんや」

「なんだと? ぐっあ――」


 斉藤の背を、玉音の爪が叩いた。

 凛音を胸に抱えたまま、斉藤の身体が木端のように吹き飛ばされる。

 幼い凛音を護るため咄嗟に身を捻るも、斉藤は樹の幹に背をしこたま打ちつけられてしまった。


「――かぁはっ」


 肺の中の空気を全て吐き出し、斉藤が咳き込む。

 だが斉藤は、呼吸もままならぬ状態でありながらも、雪の上に落ちた凛音の上に身を被せた。


「おっちゃ――」


 斉藤の身を案じる凛音の瞳に映ったのは、金色に瞳を輝かせ牙を剥きだす、愛しき母の姿だった。


「おかん、止め――」


 斉藤の両肩に爪を突き立て、その首筋に牙を突き立てようと白銀の獣が顎を開いた。


 その瞬間――


「――急々如律令!」


 闇よりもなお黒い、漆黒の鴉が玉音を襲った。

 堪らず身を反らした玉音の身体を跳ね飛ばし、斉藤が凛音を抱えて転げ出した。


「大丈夫か?」


 駆け寄った山南に、二人は無言で頷いた。


「――あれは?」


 滅多に感情を表に出さない斉藤に、微かな動揺が感じられた。


「あれはこの子の母親だ。悪しき呪のせいで、穢れをその身に受け過ぎて獣へと変じてしまったのだ」

「呪――ですか」

「あぁ」

「山南のおっちゃん……」


 眼に涙を浮かべた凛音が、訴えるように山南にすがる。


「大丈夫だ。お母さんは必ず助ける」

「ほんまか?」

「あぁ、ほんまや」


 ぽんぽん――と、山南が凛音の頭を叩く。


「君の父上の想いの込められたこの剣があれば、玉音さんを助けられる。だがそれでも、最後の最後に玉音さんを救うのは凛音。君の力だ。だがそれまでは――」


 山南が振り返り、斉藤を見る。


「頼む」

「承知」


 斉藤が凛音を抱えるように離れた。

 山南の放った式鬼を引きちぎり、獲物を狙う美獣が、じりと間合いを測る。


「行きますよ玉音さん」


 青眼に剣を構えると、山南は静かに調息する。

 手足の隅々まで氣が染み渡り、力が満ち溢れてくる。

 その溢れてきた氣を、手にした刀身に絞り込むように走らせていく。


 りぃぃぃぃぃぃぃぃん――

 りぃぃぃぃぃん――――


 まるで山南の氣に共鳴するかのように、剣が淡い光を放ち始めた。


「おおっ……」


 その光景に、斉藤が思わず声を漏らす。

 凛音はただ黙って見つめている。


「――天地陰陽 五行開門……」


 山南が手首を返し、正眼の構えからゆっくりと剣を横に寝かせた。

 同時に、柄から離した右手の指で印を組む。

 それは時に鎌首をもたげた蛇の頭のようでもあり、はたまた亀の甲羅を思わせる形を作った。


 山南は印を組んだ手を、刃の峰に沿うように走らせた。

 すると、鍔にあしらわれた四つの聖獣のうちがひとつ――玄武が黒く輝いた。


 だがその時、痺れを切らしたかのように玉音が動いた。

 放たれた矢の如く、山南に向かい疾走する。


「応っ!」


 山南が指を打ち鳴らしながら、宙に五芒星を描く。

 すると、鍔の玄武から黒い光が溢れ出した。

 不思議な事に、それの光は漆黒なれども黒曜石のように煌めき、足元の雪の上にはらりと零れた。


 その瞬間――飢える獣と化した玉音が牙をむき出して跳んだ。


「凶将水神冬氣応! 水氣来々! 鎮護北神! 五行招来 玄武翁げんぶおう!」


 それは突如現れた。

 無防備な山南に向かい、玉音が頭上より襲う。

 その瞬間――玉音の眼前に黒く輝く岩が現れた。

 白銀の毛をたなびかせ襲い掛かる玉音を阻んだのは、岩ではなく艶やかに輝く漆黒の甲羅だった。


 山南と玉音の間に、突如現れた巨大な亀。

 まるで薄墨を凝らせたかのようにどこか曖昧模糊としながらも、黒曜石のように煌めきを纏う巨大な甲羅。

 その身には、尾より生えた黒く透き通った蛇が、荒縄の如く身を絡めている。


「こ、これは……」


 斉藤が言葉を失う。


「き、綺麗や――」


 凛音にはその姿が、喩えようもなく優しく温かく見えた。


「将門流陰陽ノ術 五行招来 天守五獣門 玄武翁 顕現」


 その身に蛇を絡みつかせた巨大な陸亀――それは山南が使役する護法童子だった。


 くぉぉぉぉぉん。


 玉音が威嚇するように吠える。

 だが、玄武翁の圧倒的な霊力の前に、玉音がじりじりと後退する。


「時間がありません。行きますよ」


 強大な力を操るには術者にも相当の負担がかかる。まして、山くぐり達との死闘で山南自身の疲労も極限である。

 そんな山南の言霊に応えるように、玄武翁がゆったりと動いた。その動きは名の縛りの如く、緩慢かんまんとしながらも堂々たる風格を纏っていた。


 その姿に、玉音は一転。

 舞うように跳ねると、横に跳ねた。

 回り込んで斉藤と凛音を襲うつもりなのだ。


「吽っ!」


 山南の発氣と共に、玄武翁から鞭のようなものが伸びた。

 たちまちに玉音を絡め取ったそれは、玄武翁に巻きついていた黒い蛇だった。


 くぅぉぉぉぉぉ――ぉおおん!


 玉音が爪で掻き、牙を突き立てようとしても、高密度の氣の塊である護法童子はまるで意に反さない。

 玄武翁は玉音を手繰り寄せると、その巨体に白銀の身体を飲みこんだ。

 

 くぅるぅぅぅぅぅぉぉぉぉぉ――んんん――!


 まるで水中に没したかのように、玉音がもがくような悲鳴を上げる。

 すると、玉音の身体からどす黒い泥のようなものが染みだし、玄武翁の身体の中で渦を巻く。

 玄武翁の体躯は半透明で夢幻の存在。その中で苦しむ玉音の姿は、山南はおろか斉藤や凛音にもはっきりと見ることができる。


「お、おかん!」


 飛び出そうとする凛音の身体を、斉藤が抱きとめる。

 刹那――幼き我が子の声が届いたのか。玉音の金色に輝く瞳に、人としての光が戻った。


 ぐぅるるるるるぅぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁああああああぁ!


 だが次の瞬間、玉音が咽喉を掻きむしり、空気を求めるように喘ぐと、再び金色の瞳が輝きだす。


「凛音、母を呼ぶのだ」


 山南が諭すように呼びかける。


「えっ」

「今しかない。母を人に戻せるのは今をおいてない!」

「う、うん」


 凛音が乾いた咽喉に唾を飲みこみ――


「お、おかん……」

「凛音!」


 震え掠れる声に、山南が叱咤する。

 再び、息を吸い込み――


「おかん! ――お母ん!」


 必死で呼びかける娘の声に、玉音は金色に染まる眼を見開く。

 だが、玉音の身体から染み出す汚泥は、その声に抗うように一層濃く渦を巻く。


「凛音、続けるのだ。母を想うお前の声が、母を人に呼び戻す何よりの力になる。玄武翁が……お前の父が、母を抱きとめているのだ。今のうちに呼び覚ませ!」


 あの時、凛音が玄武翁に感じた温もりは、今は亡き父のもの。

 凛音が力強く頷いた。


「――おかん!おかん!行かんといて……おかん、帰ってきて!」


 涙を流し叫ぶその声は、母を求める娘の心の叫び。


 ――――りぃ……ぃん――――


「おかん!」


 ――――りぃぃ……ん――――りぃん……


「おかぁ――――」

「――りん……ね……」


 その瞬間、玉音の瞳に人としての確かな光が戻った。


「今だ」


 かん!


 山南は刀を納めると、両手を打ち鳴らした。


「ひふみよいつむなやこことぉ――」


 かん!


 両手を打ち鳴らし合掌する。


「ふるえゆらゆら――ふるえゆらゆら――」


 山南の呪に合わせ、玄武翁が黒曜の煌めきを強めていく。


「ふるえゆらゆら――――ふるえゆらゆら――――」

「おかん!」


 玄武翁の中で、玉音の身体が黒い塵と化していく。


「り、ん……ね――――」


 玉音が凛音を見つめる。

 その瞳は娘を想う母のそれだった。


「おかん!」

「……ご、めんな――りん――ね……ほんま……堪忍な――」


 玉音が力なく微笑む。


「嫌や、嫌や!おかん――嫌や!」

「りん……ね――――」


 まるで玄武翁に溶け込んでゆくかのように、玉音の姿が希薄になってゆく。


「おっちゃん! 山南のおっちゃん、おかんが! おかん……助け、助ける言うたやん!」


 凛音が山南に掴み掛からんとするのを、斉藤が押し止める。


「おかん! おかん!おかん――」


 凛音が狂ったように泣きじゃくる。


「副長!」


 思わず斉藤が叫んだ。


「ふるえゆらゆら……ふるえゆらゆら――――――」


 かぁん――!


 一際強く、山南が両手を打ち鳴らした。

 その瞬間――玄武翁が弾けた。

 細かな水の粒子と化した玄武翁が、月明りを煌めかせながら闇に消えた。

 




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