第2話 龍船頭


 すでに正午を過ぎていた。


 一昨日まで降っていた雪はすでに止み、澄みきった蒼天が広がっている。

 気持ちの良い空である。

 だが、そこかしこに残る真白い雪を見れば、途端に寒さを思い出させる。


 そんな中、雑多な人々のひしめく伏見の喧騒は、江戸の騒々しさにも似た熱気を、山南敬助に思い出させた。


 京市中の、物静かでどこか品のある空気も嫌いではないが、賑わいにより生じる熱気は、民草の躍動する生命力を感じさせ、山南の頬を緩ませた。

 仲間たちと共に、江戸から京へ来たのは昨年の春。まもなく一年が過ぎようとしていた。


 庄内藩郷士・清河八郎きよかわはちろうの献策により、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で募集された「浪士組」。身を寄せていた試衛館の近藤勇たちと共に、山南は浪士組に参加した。だが、将軍警護の目的であったはずの浪士組は、京へ到着後すぐに瓦解した。


 到着した夜。壬生の新徳寺に浪士を集めた清河は一同を前にし、

「我らは尊皇攘夷の先鋒である」

 と、ぶち上げたのだ。


 尊皇攘夷そんのうじょうい――幕府では無く天皇を尊び、外国を打ち払う為にあると言い切ったのだ。


 つまり、清河八郎と言う男は将軍警護などするつもりはなく、最初から尊皇攘夷の尖兵を集めていたのである。

 これは幕府に対する裏切り行為も同然である。当然のことながら幕府は浪士組に、すぐに江戸に戻るように命じた。だがそれに対し、本来の目的である将軍警護の為に京へ残ると主張する者たちがいた。


 近藤勇を筆頭とする天然理心流・試衛館一派と、水戸藩士・芹沢鴨せりざわかもを中心とした、いわゆる水戸派である。


 京へ残留した山南らは「壬生浪士組みぶろうしぐみ」を結成。芹沢鴨を筆頭局長とし、紆余曲折を経て京都守護職きょうとしゅごしょくである会津藩主・松平容保まつだいらかたもりのお預かりとなった。

 そこで市中警護の任を与えられた壬生浪士組は、その活躍により「新撰組しんせんぐみ」の名を賜った。


 だが芹沢ら水戸一派の、目に余る数々の暴挙により新撰組は会津の怒りを買った。苦渋の決断の末、血の粛清により芹沢らを排除したのは、昨秋のことである。


 その後、近藤勇を局長とし、同じく試衛館からの仲間である土方歳三と、山南が副長として隊を治めている。


 日夜刻々と変化する状況に追われ、怒涛のごとき任に忙殺される日々。気がついてみれば年は明け、松の内すら過ぎようとしていた。


 こんな時期では、長州残党を始めとする攘夷派過激志士らも、さすがに派手な動きは控えると見えた。

 そのおかげで山南ら新撰組にも、少しばかり息を吐く間ができた。

 喜ぶ隊士に対し「気を緩めるなど許さぬ」と、土方は難色を示した。だが局長である近藤の粋な取り計らいにより、山南らは京に来て以来、初めて落ち着いた休みを取ることができたのだ。


 とはいえど、勤番を残しての交代なのは当然。だがそれでも、一人当たりで三日ほどの暇ができた。しかしだからといって、さすがに江戸や国許くにもとに戻るほどの暇は無い。

 精々いつもより深酒をするか、懐に余裕のあるものは馴染みの芸妓のところに転がり込むのが良いところである。


 そんな中、山南は、斉藤一さいとうはじめと共に、伏見の地にいた。

 孤狼――そう言い表すのが、これほど当てはまる男はいないのではないか。

 群れることを好まぬたちなのか。その顔に、喜怒哀楽を浮かばせることはほとんど無く、無口で他者を寄せ付けぬ空気を漂わせている。

 だがその剣の腕前は凄まじく、その長身から繰り出される剣技は、隊内でも五本の――否、三本の指に入るだろう。


「それでは自分は……」


 宇治川へとつながる伏見港――寺田屋浜の前で斎藤は頭を下げた。

 伏見港は数多くの荷船問屋が軒を連ね、活気にあふれた喧騒が尽きることがない。


 そもそもが、気配の薄い物静かな斉藤であるが、この様な喧騒の中にいると隣にいるのに、つい存在を失念してしまいかねぬほど寡黙である。


「斉藤くん、帰りは明後日だったかな?」


 山南はいつもと変わらぬ柔和な笑みで、斎藤の刃のように鋭い瞳を見つめた。


「はい。明後日の昼過ぎには」


 ぼそりと、呟くように斉藤が応えた。


「山南さんはどうされるのです」

「知り合いに紹介された刀匠を訪ねてみようと思っています」


 山南は年明け前に、ある事件で剣を失っていた。もちろん、代りの剣は腰に差している。だがどうにも馴染まないのだ――そう斉藤に語った。


「剣は必ずしも銘ではありませんから」


 朴訥ぼくとつに呟いた言葉だが、斉藤が言うと妙に説得力がある。


「手に馴染みそうな業物わざものがあるか分かりませんが、行ってみますよ」

「それが良いと思います」


 微かに、斉藤が口元を綻ばせたように見えた。


「一日二日は物見遊山ものみゆさんを兼ねてこの辺りにいるつもりです。君が大阪から戻ったら一緒に飯でも食べてから、壬生へ戻るというのはどうだろうか?」


 その言葉に斉藤は、山南を暫し見つめ――


「旨い店を探しておいてください」


 今度は、明らかにそれと分かる微笑をもらした。


「それは責任重大だ」


 腕を組み、山南は肩を揺らした。

 一瞬、二人の間に和やかな空気が漂った――だが、その瞬間。


「副長」


 和んだ空気を嗜めるように、斉藤の鋭い視線が動いた。

 その理由に、山南も気が付いていた。

 斉藤の視線の先――いま着いたばかりの船から、錆びた鉛を思わせるような、男たちが降りてくる姿があった。


 その旅姿を見れば、長旅だったことがうかがえる。

 だか、どこか無骨な侍の一団は旅の疲れも感じさせず、周囲の舟客とは明らかに異質な、錆びた鉄のような空気をまとわりつかせている。


 六尺はあるだろう。鍛えこまれた体躯の屈強な男が先頭を歩く。だがその身体とはあまりにも不似合いな、色の白い女のような顔がなんとも奇異に眼を引いた。


 五人の男たちは、その美丈夫を先頭に港を上がっていく。

 どれも癖の強そうな連中が、山南らを気にも留めることなく過ぎ行く中で、最後列にいた男だけが、ほんの一瞬、山南と視線を絡めた。


 強烈な磁場を纏う四人に対して、この男だけが余りにも凡庸であった。

 中肉中背。癖のない薄い笑いを浮かべている。

 このまま市中に踏み入ってしまえば、二度と判別がつかなくなるくらい印象が残らない。

 この一団にあって、それが逆に山南の気を引いた。

 だが、それもほんの刹那のこと、男らは足早に去って行った。


 その姿が消えると、斉藤も張り詰めたものを緩めた。


「御身お気をつけて」

「君も」


 山南の涼風のような微笑を背に、斎藤を乗せた舟は伏見港を離れていった。


「さて――」


 静かに岸を離れていく船を見送り、山南は辺りを見回す。

 剣を観にきた――と、斉藤には言ったが、半分は嘘である。

 手に馴染む剣を探しているのは本当であるが、知り合いの伝手つてと言うのは嘘である。

 そもそも、山南がこの伏見界隈に来たのは、剣を求めてきたわけではないのだ。



 三日ほど前のことである。


 壬生の屯所に、山南宛てに手紙が届いたのだ。

 差出人の名は無く、ただ「柔」と一文字書かれていた。

 だがそれだけで、山南には誰からのものであるか直ぐに分かった。


 山南に手紙を寄こしたのは「葛城柔志狼かつらぎじゅうしろう」という男である。

 万荒事屋よろずあらごとやを称し、やっとうチャンバラ人探しはもとより、呪い怨霊魑魅魍魎。妖怪変化に用心棒。荒事ならば何でもござれと豪語する、ひと際変わったおとこである。


 ある事件で知り合い、新撰組の仲間も知らぬ山南のもう一つの顔を知る、数少ない人間である。


 その手紙には、ある頼みごとが書かれていた。ようは、自分の手に余る仕事を代わりに請け負ってくれ――そういう話なのである。


 ――ふたりの胸の内にありし秘め事にかけてお頼み申す。


 などと、知らぬ人間が眼にすれば、あらぬ誤解を招きそうな言葉で締めくくり、且つ、断れば山南のもう一つの顔をばらすぞ――と、暗に脅しまでかけているのである。


 仮にも、新撰組の副長という責を担っている山南に対して、余りにも一方的で理不尽な話に心底呆れ果て、腹立たしさすらおぼえた。

 だがそれと同時に、柔志狼がそこまでして頼みこむ件に、並々ならぬ興味を覚えたことも事実であった。


 ちょうど良く、非番の重なった斉藤が大阪まで行くというので、それにかこつけて壬生を後にしたのだ。


 そして斉藤を見送り、目的の場所である旅籠「寺田屋」を見上げると、山南は無意識のうちに口元を綻ばせていた。


「お仲間との別れが寂しいのかの?それとも、今宵しけこむ宿の女子の事でも考えちょりましたか?」


 山南のほんの僅かな心の弛みに、なんとも心地の良い声がするりと入り込んだ。


「馬鹿なこと、何をつまらぬことを。そのような事あり得ない。だいたい私はだな――」


 咄嗟のことに思わず山南は、まるで旧知の友を相手にするかのように振り返った。


「ちゃちゃ、山南さんに限ってそんなこちゃ、あり得んかったの」


 ぼりぼりと音をたて、視界を遮るかのような大柄の男が髪を掻いた。

 荒波に揉まれたかのような蓬髪を無理やり縛った男が、なんとも惚れ惚れする笑顔で山南を見下ろしていた。


「き、君は……誰だ?」

「そりゃないぜよ、山南さん。ワシぜよ、ワシ。坂本ぜよ」


 真顔で小首を傾げる山南に、坂本と名乗る男は笑顔を引きつらせた。


「お玉ヶ池の山南敬助さんじゃろ?憶えちょらんかのぉ。ワシじゃ、ワシ。桶町の定吉先生のとこの坂本龍馬ぜよ」


 怪訝そうに眉を寄せる山南に、身振り手振りで説明する様は、まるで成りの大きな童のようであった。


「定吉――もしかして、桶町の千葉定吉先生か」


 山南が眉を上げた。


「そうか、君は玄武館の塾頭の、確か――坂本君」

「そうじゃ、そうじゃ。その、坂本じゃ。坂本龍馬です」


 ようやく繋がった線に、龍馬は思わず泣きそうな顔をして喜んだ。

 山南も龍馬も、江戸三大流派ともいわれる『北辰一刀流』を学んだ同門である。

 とは言えども、二人の関係は兄弟弟子というよりも、いうなればイトコ弟子の間柄とでも言うべき関係だった。


 山南が学んだのは神田お玉ヶ池にある、北辰一刀流の創始者『千葉周作』の玄武館。

 それに対し龍馬が学んだのは「小千葉」とも呼ばれる、千葉周作の弟である『千葉定吉』の桶町千葉道場である。

 主に上級武士の通う玄武館に対して、小千葉の道場は下級武士に門戸が開かれていたが、両者は不可分であり、その実力には甲乙は付けられなかった。


 龍馬は土佐藩より剣術修行は来た身でありながら、その小千葉において「塾頭」まで勤めた男だった。

 確か山南がまだ江戸にいた頃、龍馬が玄武館に訪ねてきた際に、一・二度顔を合わせたことがある。竹刀を交わしたことこそないが、剛の剣をつかう、相当の腕前であったと記憶している。

 失念していた事が不思議なほど、存在感のある男だった。


「そうだ坂本龍馬君だ。これはなんとも申し訳ない」


 深々と頭を下げる山南に、龍馬はすっかり恐縮した様子だった。


「止めとうせ。ほんに気にせんでください。ワシゃどうにも昔から悪い癖での、一度会っただけでも勝手に旧知の間と思ってしまうんじゃ。ろくに挨拶もせんうちから図々しくていかんと、国許の姉ぇやにも、良ぉ叱られるがじゃ」


 山南よりも頭ひとつ大きな身体を折り曲げ、頭を下げる。


「言い訳をするようでなんだが、声を掛けられたとき、どうにも人違いをしてしまい困惑したようです。本当に申し訳ない」

「ワシが誰かに似てたのかの?」


 龍馬が含んだ様に微笑んだ。


「いや知人に頼まれごとしていて、その事を考えていたものですから」

「――頼まれごとですか」

「本当に申し訳ない」


 山南が再び頭を下げようとするのを、龍馬は必死で止めた。


「止めとうせ。なにも、そんなに恐縮せんでもええですよ」

「しかし同門で、小千葉の塾頭まで勤めた坂本君を……」

「ですから、もうええちゃ。けんども、そんなに言うならお詫びの印にと思うて、ちっくとワシに付き合おうてくれませんかの?」 


 くい――と、龍馬は親指を丸め盃をあおる真似をした。


「久々の再会を祝して、一杯付き合ぉうてください」


 あそこで――と、寺田屋を指さした。

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