54 エピローグ  比翼連理

 在天願作比翼鳥

 在地願為連理枝

 天にりては願はくは比翼の鳥と

 地にりては願はくは連理の枝とらん


 白居易「長恨歌ちょうごんか






 神のいます島に夜が来る。

 波間に立つ鳥居の上、空に、星が。

 ひとつ、ふたつと輝き、気づくと満天に。


 厳島いつくしまけ、今や夜は、深く、深く。

 濃い藍色の夜天。

 白銀に輝く星々。

 波音を立てて、海。

 そして、夜と海の間に、朱の鳥居。


 安芸の宮島、厳島は今、深き、深き夜に包まれた。


「あ、三ツ星……」


 砂浜に寝そべる少女が、空に、手を伸ばす。

 少女の隣に、やはり寝そべった青年は、その三ツ星を見た。

 冬の夜空を燦然と光る、三ツ星。

 寄り添う姿は、親子のようであり、兄弟のようである。


「綺麗……」


 吐く息を白くしながら、吉川家の雪は呟いた。

 隣の多治比元就は、何を思っているのか、無言だった。

 雪は隣を見た。


「……どうかなされましたか、?」


 われながら、照れる言い方だ、と思った。

 しかし「わが君」は悪びれるつもりもなく、天を眺めていた。


 もしかしらたら、気づいていないかもしれない。


 そう思った雪は、もう一度、と口を開いたところで。


「……どうもしない。ただ、ようやくここまで来たな、と」


 ふたりが初めて出会ったこの島。

 そしてふたりはそれぞれの道を行き、家と生き、やがてふたりの道と家は交わった。


「長いようで短く、平坦なようで勾配があり……」


 安芸守護代・武田元繁の「叛乱」など、その最たるものだ。

 あれがなければ、元就と雪は、このように結ばれることなど、なかったかもしれぬ。


 ……そういうことを元就が言うと、雪はうなずいた。


「しかしまあ、何はともあれここまで来ました。それで良いではありませぬか」


「……私が言おうと思っていたのだが」


 ふたりは笑った。

 ひとしきり笑うと、元就はまた話す。


「……しかし、これからの日々も、決して良いものとは言えまい。むしろ厳しいものになるかもしれない」


 多治比元就には予感がある。

 この神なる島を血で染め上げるいくさに身を投じるのではないか、という。

 こうして浜にいると、その予感がいっそう、強まるのだ。


「…………」


 ふと気づくと、元就はその手で浜の砂を掴んでいた。

 砂が震えていた。

 否、震えているのは、元就の手だった。


「もしかしたら、毛利の家をめぐっての陰謀を企てるかもしれない。吉田郡山の城も、盗ったの盗られただの、争いが……」


 そこで震えが止まった。

 雪が、元就の手を握ったからだ。


「わが君」


 雪が上体を起こして、元就を見つめる。

 満天の星々を背景に、少女の美しさは、いっそ神秘的だった。


「そのを、ください」


「恐れを……?」


「皆までとは申しませぬ。ですが……半分くらいなら、負いましょう、共に」


 微笑む少女の顔は、天女のようにも、亡き実母ははのようにも、見えた。


 嗚呼。

 自分は守ろうとしていたのではない。

 守られたかったのかもしれない。


 元就がそう感じた瞬間、少女の顔が、そっと落ちてきた。



 夜明け前。

 厳島の港。

 冬の気配を感じさせる朝靄あさもやの中。

 一艘の小舟は、瀬戸内の海へと漕ぎ出した。

 船べりに立つ青年は、隣に座る少女に聞いた。


「もう、戻って良かったのか? どの」


 吉川家の雪――鬼吉川の妙弓――は、いつしか、夫である多治比元就から、「妙弓みょうきゅう」と呼ばれるようになっていた。


「良いのです。じじ様……いえ、は、次は分からぬとおっしゃったのでしょう? なら、はよう帰って、地固めです」


 妙弓は、にっこりと笑った。

 元就はその笑顔を見て、何か自信のような、安心のような、そういうものをもらった気がした。


「あ、見て下さい、東を」


 海中から、朝日が昇ってきた。

 曙光が、あたりを照らし出している。

 冬が近づきつつあり、寒気も厳しいものになりつつあるが、だがそれだからこそ、寒々とした波間から浮かび上がる太陽は、神々しく見えた。


「わが君」


 もはや照れることもなく、妙弓は、まるで後光を受ける菩薩の如く、日の光を背に、元就に声をかけた。


「……念仏十遍、いたしませんか?」


「……よく、知っているな。私が朝日に念仏十遍をすることを」


「杉大方さまに、教えてもらいました」


 いつの間にやら、継母と妻女の間で、女たちの結束が生まれたのか。

 いや、元から妙弓は多治比猿掛城にたまさかに来ては、杉大方と楽しそうに会話をしていたか。

 ……それぐらいから、杉大方は、妙弓に、元就のいろいろを教えていたようだ。

 つまりは、杉大方には、元就と妙弓のことを見抜かれていた、ということらしい。


「……帰ったら、真っ先に挨拶に行かないと」


「……いえ、そこまで気を遣わずともよい、とのおおせでした」


「そうか」


 妙弓は妙弓で、元就と杉大方のことを見越している。

 これは、なかなかな家族になりそうだ。

 苦笑しつつも、元就は朝日に向かって手を合わせる。妙弓もそれに倣う。


「南無……」



 瀬戸内海に、安芸に、朝が来た。

 冬なればこそ、その朝日の輝きは冴えわたり、厳島を、鳥居を黄金きんに照らしていく。

 神の島、厳島。

 安芸に生き、安芸に力を伸ばす以上、避けては通れない地。

 その場所で。


「戦うことも、あるかもしれぬ……」


 こうして海上から島を眺めていると、夜来の予感が、確信へと変貌を遂げていくのを感じるのだ。

 隣の妙弓が、そっと、手を添える。

 無言の言葉が、元就の胸に届いた。


 は、わたくしも――と。











 ――時は流れ、天文二十四年(一五五五年)十月一日。

 夕刻。

 厳島沖。

 嵐の海。

 大船団を浮かべて、厳島に攻め入らんとする多治比元就、今は元就の姿があった。

 敵方、「西国無双さいごくむそうの侍大将」陶晴賢すえはるかたの率いる兵力は、元就のそれの五倍とも言われる。


妙玖みょうきゅう、見ているか」


 あの有田・中井手の戦いから、およそ四十年。

 雪――妙弓は今は亡く、法号を「妙玖」という。

 そして安芸を制覇するに至った元就が、ついに中国を手に入れんと、大内家を牛耳る陶晴賢に戦いを挑んだ。

 ――世にいう、厳島の戦いが、今、まさに火蓋ひぶたを切って落とされようとしていた。


 その時。

 荒れ狂う風雨。

 揺れる波濤

 その中。


「わが君」


 そんな声が聞こえた気がした。


「分かっている」


 そう答えた。

 たしかに妙玖は、もう、いない。

 しかし、彼女の残した三人の息子たちが今、元就を支えている。

 だから、分かっている。


「村上は? 村上水軍は?」


「手はずどおりに」


 元就の問いに答える若者は、妙玖によく似た目鼻立ちをしていた。

 名を、毛利隆元という。

 元就と妙玖の長男である。

 悠揚たる、そして知勇に均衡のとれた武将である。

 その隆元の背後から、声がかかった。


「敵将、陶晴賢、動きなしとのよし


 巨躯精悍な青年は、吉川元春。

 元就と妙玖の次男であり、吉川の名を継いだ男である。

 文武に秀で、鬼吉川を体現する勇将だ。


 そのとき、一瞬ではあるが、嵐が晴れ、つづく小早川家の艦隊が見え、旗艦に立つ若武者の姿が覗いた。


隆景たかかげ……」


 元就と妙玖の三男である、小早川隆景。

 のちに、豊臣秀吉から「日本のふた」とたたえられる賢将となる男だ。


「わが君」


 もう一度、妙玖の声が聞こえた気がした。


「分かっている」


 だから、もう一度、答えた。

 三人の息子たちも、何かを感じたのか、神妙にうなずいた。


くぞ」


 陶晴賢率いる大内軍は、毛利軍の、およそ五倍。

 あの時と同じだ。

 あの、有田中井手の初陣の時と。

 だから、勝てる。

 あの時と同じく、自分には、共に戦ってくれる者たちがいるのだから。


「そうだな、妙玖」


 嵐がまた猛威を振るおうとする最中、天上に、亡き妻が、そっと微笑んだような気がした。



 厳島の戦い、あるいは厳島合戦。

 その大戦おおいくさに、元就は挑む。

 妻・妙玖と――彼女の遺した、三人の息子と共に。


 その果てに見える――昇る朝日に向かって。




【西の桶狭間 ~毛利元就の初陣~ - rising sun -  了】

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