擬似「円盤に乗ったコミューン」――みんなが臨場しあえる稀な空間

 文字ラジオ。それは、不思議な共同体である。

 『京丁椎の真夜中MIDNIGHT∞』とは、言ってしまえば著者である京丁椎による一連のエッセイだ。だがその語りの体裁は、京氏自身が、通常のようにエッセイを書き連ねたものを投稿するものではない。DJ京となってラジオのように、自身の近況や読者(あえてリスナーと記しておこう)からの応援コメントという名のお便りに答えていくのだ。だから、リスナーはただ過去のとある時点で著者によって出来上がり提示された文章を閲覧することによる、独りでの物語世界に没入する感覚を得るのではない。「自分もまたこの文字ラジオを創り上げている一員なんだ!」という高揚感に似た連帯感を、DJ京氏と顔の見えない不特定多数のリスナーとともに共有し合う。『京丁椎の真夜中MIDNIGHT∞』という番組にたまたまチューニングを合わせたリスナー誰しもが共同で作り上げる、情報空間上のエモーショナルな共同体なのである。

 このような、情報送受信について双方向の性質を併せ持つ作品は、今まで作者から読者へ一方向にもたらされる物語しか読んだことのなく、またそうあるものだと思いなしている読者からすれば、新鮮な印象を以って受け止められるだろう。それにこの作品、お便りに対するレスポンスが早い。場合によってはお便りを投稿したその日の数時間後に文字ラジオに反映されている。TVの情報番組では、視聴者によるSNSに投稿されたその日の番組内容で覚えた疑問を紹介しパネラーが回答する、ということが行われるのを見かける。それと同じような所業をカクヨム上の機能を使って実行しているのだから素適だ。現実のラジオ番組では(有名な番組ほど)読まれないで終わってしまうハガキ・メールが出るものだが、DJ京氏は来たお便りにはまめまめしく何らかの返事を出しているので、見捨てられて悔しい思いを独り抱くことは無いはずだ。この空間には、リスナーに対するこうした誠意の安心と臨場感(現実感)が在る。だから、リスナーは文字ラジオが放送されるとあればお便りを寄せること絶えないのだろう。

 この雰囲気は(このひとつ前の令和3年3月まで続いた作品にて投稿されたお便りの1通に対してDJ京氏が語るところによれば、二十世紀末辺りのAM深夜ラジオをイメージしているそうだが)、なんだかふと1970年代前後の深夜放送を思い起こさせた。その時代、取り上げられていたのは人生や生活の悩みなどウェットな話題で、当時はラジオがメディアとしての権力を持っていてリスナーが知人とラジオ番組の話題を共有し合える状態だったからこそ、DJを介したリスナーたちの擬似共同体が在った。中野収と平野秀秋が著した『円盤に乗ったコミューン』によれば、それを「円盤に乗ったコミューン」と名付けている。円盤とはラジオのメタファーだ。
 1980年代終盤になると、取り上げられる話題はネタや遊びばかりになっていった。例えば『伊集院光のオールナイトニッポン』に「伊集院光の大予言」という、伊集院の事前の「予言」を匿名のリスナーがヤラセで工作しておき完成した状況を伊集院が予言的中と報告するという出来レースのようなコーナーがあった。共同体的な意識から実名性を掃い、話題からプライベートな感覚を掃い、ただラジオという公共の場で集まってお遊びする共同性をそこで持ち寄るようになっていた。
 今はもうラジオの権力など相対化してしまって、コミュニティは完全に匿名化した。この作品はウェットな話題もありはするが、ほぼ全部が日常の話題だ。1970年代も1980年代も無い。だが、何となくこの空間にかつてのラジオの雰囲気を見たのは、匿名とはいえ固定ファンが付いていて、パーソナリティが居て、ここが群れる場として作られていることに実感を持ち擬似共同体的に機能しているからかもしれない。初めて来た・放送後にやって来たリスナーでも、語られる時間とリスナーの時間とを一致させたような筆致やリスナーたちのお便りの数々を見て、その擬似共同体の臨場感に触れることができるのだ。

 作品に擬似共同体を生じさせるものは何だろう。先ほどまでは以前のラジオの雰囲気を見たことを説明してきたが、これをもう少し掘り下げてみる。

 この作品にはDJ京というパーソナリティが居る。パーソナリティは当然ながら臨場感空間を支配する。心理学では人間関係で相互に信頼し合っている感情のことを「ラポール」というが、それは臨場感空間を支配している人に強く持たれる傾向がある。だから有名人はTVに映し出されることで幅広い視聴者層の好感度を稼げるのだし、DJ京氏もその態度と制作という裏打ちがあるからリスナーたちは好意的になれるのだと思う。
 加えて言語学者A.マルチネによれば、人間のコミュニケーションには「伝達」と「表出」の二種類があると指摘する。まず伝達の場合、それは「いかに他者に対して自分の思考内容を正確無比に伝えられるか」が、そして表出の場合、「さして重要でない任意的な内容で相手との連帯感を高めること」が重要となる。人間のコミュニケーションは、その殆どが表出の側面によるといっていい。情報を伝達しているような行為をすることで、相手と空間を共有し感情を表出するとともに、ストレスを解放させカタルシスを得る。空間を共有して情報の臨場感を覚えるとともに、お便りが投稿されそれを確かにDJ京氏に読まれていることによりリスナーにカタルシスが与えられ相互の親密性が生まれる。この臨場感と親密性の二つが、連帯感を催すのだ。

 現代社会では、対面的コミュニケーションの機会は減り続けている。
 戦後日本にもたらされたイデオロギーである民主主義は、1960年代高度経済成長によって経済競争に突入すると、商品消費に生活全体が覆われる消費社会に回収された。経済環境の充実が個人生活の自立化を促し各々の自由を謳歌することを望み始めるとなると、旧来それが出来ない必然として存在していた共同体的性質が払拭されるばかりか、他者への配慮を必要とする共同生活が煩わしいものとして排除されるようになっていく。民主主義の諸理念は、何をしようと自分の都合勝手として、消費文化と個人の欲望最大化を正当化させる論理的根拠になった。
 この上で、1980年代以降あらゆる分野にコンピューター・ネットワークが配備されることで、物だけでなく情報も他者を介在せず入手可能になる生活を営めるようになる。それらメディアに接した時、情報送受信の主体は常にそれをする個人に固定されるので、必然として自分にとって都合のいい情報ばかり受容するようになる。そうして個人は個別の基準に沿った価値観形成をしていくが、それは他者の価値観を受け付けない心性に繋がった。価値観のリアリティが徹底して個別化・相対化すると同時に、むしろ個別の価値観が絶対化され、これを脅かす存在を排撃する心性、すなわちミーイズムが助長された。
 こうした個人のプライバシー防衛のための全人格的人間関係の回避という傾向は、人間関係を断片化させ対面的コミュニケーションを減らしていく。だがコミュニケーションの表出の側面は、連帯感を得るために必要なものだ。そこで対面的接触のひとつの代替になったのが、『京丁椎の真夜中MIDNIGHT∞』だ。インターネット上にある文字ラジオというインタラクティブ・メディアにおいて対面的コミュニケーションの双方向性が擬制されることで、ある程度表出の側面をまかなう。こうして共同体のコミュニケーションが変質化された形で取り込まれたので、擬似共同体のなかで一過性ながら連帯が生まれる。リスナーは、認識論的に興味関心があるから文字ラジオに参加するし、存在論的にも対面的コミュニケーションを匿名化しながら得られる稀な場だからこそ意義があると感じられるのだ。

 だが、ミーイズムの登場は消費社会化の必然によるものなので、個人は思考行動様式を規定・拘束されることを好まない。従って、文字ラジオにリスナーとして参加することによって連帯感や「今ココ感」を持てたとしても、放送が終わってしまえばここでの繋がりは鎮静化・喪失化してしまう。行動様式を規定する共同体は無く、あるのは感情に基づいた擬似共同体なのだ。感情によるから、個人の欲望が温存されたままで、同時に社会の一員である実感と連帯感を確保できる。しかしそれは限られた時間でのものだ。はじめに「情報空間上のエモーショナルな共同体」と表現したのは、こうした見解による。
 さらに、文字ラジオという存在はプル型メディア上にある。TV・ラジオはプッシュ型メディアであり、それは視聴者の主体性を要求しない。リモコン・スイッチを付ければ、あとはコンテンツが向こうから延々流し続けられる。それは視聴者にとって楽な暇つぶしであり、だからこそ娯楽的で頻繁にアクセスしやすいことから、多くの人々が取り上げられた話題を話のネタとして共有しあえる。一方プル型メディアは自分から積極的にメディアにアクセスして情報を引き出す目的を持っていなければならない。暇つぶしでネットサーフィンするにしても、当該のサイトまで向かうという主体性は要求される。私もこの作品を知ったのは能動的に情報を拾っていた中での偶然であったし、作品のことを知らなければ誰かと話題を共有し得なかった。このことから文字ラジオは、擬似共同体に居る人の数的規模も、擬似共同体に対するアイデンティファイの深さも、ニッチ化かつ相対化の影響を免れられない。
 とはいえこうは言うが、べつに文字ラジオはやっても空しいとか貶めようとか意図するのではない。文字ラジオという実験的試みによって、著者から提示されたものを読者が受け取る基本的に一方向性の場で、双方向性ならびにそれによってもたらされる連帯感を実現するという意外さを知ることが出来たのは、見識の新たな広まりとして感じられて快いものだった。かつ、継続する努力を以ってして放送していることから、ファンは今後もわくわくして待っていられる。

 世の中には様々なネットラジオサービスがある。例えば、P2Pラジオ。それは、インターネットにつながる端末があれば世界のどこにいても音声を受信でき、さらにマイクがあれば自分自身が放送局となってリアルタイムで世界に音声を配信できるシステムだ。ということは、やろうとすれば個人がプッシュ型メディア特性を得て放送できる、ということになる。文字ラジオを聞いていると、なんとなくもし市民が自らプッシュ型メディアのなかで自発的に放送を始めるのが当然な世界はどんな感じだろう……と雑想したときに、これがひとつの情調の姿としてあり得るかも、と思った。