追伸、木漏れ日の揺れる家へ

奥山柚惟

追伸、木漏れ日の揺れる家へ

 冬を越え、春を迎えた森では木々が若葉を芽吹かせていた。萌黄色の木漏れ日が射し込む中、一軒の小さな家の戸と窓が開け放たれていた。



「『塵は外へ、汚れは水場へ。悪しきものは此処よりね。つ気よ澱みを散らせ……』」



 家の中では少女が次々と唱えていた。落ち着いた声には魔力が灯り、こだまして聞こえる。

 春になったので、元〈オウル〉の少女ノエルは“言霊ロゴス”を使った家の大掃除をしていた。体の小さなノエルにとって“ロゴス”はとても便利だ。本当は人に知られてはいけないこの術を、ノエルは割と頻繁に使う。


 いつもより念入りに家じゅうを清め、窓は開けたまま花瓶に花を生ける。するとそれを合図としたかのように、森の入り口辺りに待ちわびた気配を感じた。



「ノーエールーちゃーん」

「……“クロウ”時代とおんなじにしなくたっていいのよ、イザク」

「いやァついつい。ずっとだったからさ」



 花を生けたら魔力回復役の同僚が現れる。もう同僚なんて関係ではないのに、長く貫いた習慣はそうそう解けないようだ。

 細身の男イザクは、もう面をつける必要のない顔で柔らかく笑った。



「食材買ってきた。ランチにしよう」

「…………」

「どうした」

「……ッ、イザク、あの……」



 ノエルが両手で顔を覆った。

 耳が真っ赤だ。手で隠しきれていない頬は更に真っ赤だ。

 イザクは柔らかな笑みを苦笑いに変えて、シャツのポケットからサングラスを取り出して掛けた。



「あー忘れてた。これでいいか?」

「……うん」

「まったく。慣れてくれよ」



 逃げるようにしてノエルはキッチンに駆け込んだ。心臓がまだ暴れまわっている。

 慣れろ、とイザクは言うが。未だ慣れぬことに申し訳なくも思うが。



(苦手だわ……)



 未だ熱を持つ頬を手で冷やす。

 傷のある顔が怖いわけではない。どちらかというと、彼の目だ。

 昔は深緑だった瞳は、彼の固有魔法“反魔法アンチ・マギカ”のせいで紅に変化している。人によっては禍々しいと取れるその目に見つめられると、それだけで体中がかき回されるような、そんな心地になってしまうのだ。


 早く慣れたいとは思っている。だから、日中だけサングラスを掛けて貰って、明かりの少ない夜に目を見るようにしている。最近になってようやく、日の落ちた頃なら直視できるようになってきた。



「サンドイッチでいいか?」



 イザクが買い物袋を手にキッチンに入ってきた。

 足りなかったレタスやチーズ、それからビーフパストラミが入っている。



「そうね。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーかな。湯沸かすよ、二人分?」

「うん。わたしもコーヒーにする」






 ──最初は、こうした他愛のない話すらできなかった。

 今でもそうだが、時々“イザク”と“クロウ”どちらかが分からなくなって、どう接すればいいのか困る。同一人物ではあるのだけど、分かっていても混乱してしまうのだ。


 “クロウ”としての一面も、結局“イザク”の持ち合わせるひとつで、幼い頃の自分が知らなかっただけの話だったのだと、ゆっくりではあるが折り合いをつけられた。






 二人で昼食を食べて皿を片づけ、食後のひと時をそれぞれ過ごす。

 イザクは仕事の書類をやっつけに。ノエルは読みかけの小説に取り掛かる。


 ソファーに二人並んで、イザクは自分にノエルを寄りかからせる。どんなに離れて座ってもいつの間にやらこの体勢にさせられるので、かなり早い段階でノエルは諦めている。今では自分からイザクの肩に身を預けるようになった。



「まだ片付かないのね」

「そうなんだよ。国が解体されたってのにさ、どうしてこんな面倒な後処理をしなきゃならないんだ。それも元暗部にやらせる仕事じゃないだろ」

「暗部だからこそ、でしょう? 元からあなた、あちこちから情報収集していたからじゃないの」

「お国のためじゃねえっての」



 そう、すべてはノエルのため──少女はまたも顔を真っ赤にした。

 いたたまれなくなって身を起こして逃げようとしたが、その前に大きな手が肩を抱いて失敗に終わった。



「ノエル。逃げんなよ、そんなことされたら俺泣くぞ」

「……逃げたら捕まえに来るでしょ」

「よく分かってるな」



 視界いっぱいに彼の喉元が映る。傷を隠すためか、暖かくなってもイザクは首まで覆うインナーを手放さない。

 腕の中にノエルを抱いたまま、イザクは作業を続ける。やりづらくないのだろうかと訝るノエルをよそに、彼は難なく紙に文字を書いていく。その筆跡は間違いなく、“オウル”を支え続けた手紙のそれで、ノエルは彼の筆運びに目を奪われていた。




 ノエルも元暗部だが、こうした仕事が回ってこない。何故かとイザクに問うれば、元上司イーグルが彼女の分をすべて引き受けた取り上げたのだという。

 国王亡きあと、イーグルは隠居した王妃ネラの側役を買って出た。その仕事もあろうに、一体いつ後処理などする暇があるのだろうか。あの人ももう若くはないのに、とノエルが溢すと、おじいちゃん気取ってるのさ、とイザクは面白くなさそうに鼻で笑った。ならばせめてイザクの仕事を……と言えば、それはそれでダメだと躱された。


 理不尽だ。“クロウ”時代の彼にも、何度そう思ったか。




 文字を綴る彼の手に見入っていると、耳元で低く笑う声がした。



「そんなに見なくても逃げないぞ」

「見……てない」

「いやバレバレだから。嘘下手だな」

「見てません」

「そうかい」



 こめかみに柔らかい感触。

 既に顔が赤かった少女が、ぶわっと耳まで赤くした。その様子に可笑しそうにまたくつくつと低く笑って、大きな手で黒い髪を乱した。



「や、もうやめてよ、放して」

「嫌でーす」

「こんなだからいつまでも仕事が終わらないのよ!」

「まあそうだけど。終わったら終わったで、ノエルがもっと困るだろ?」



 どうして、と彼を見上げれば、サングラス越しにでも紅い垂れ目が柔らかく細められているのが見えた。多少意地悪さを含んで。



「こんなもんじゃ済まないぜ。両手が空いた俺は」

「…………」

「あれ、実は楽しみ?」

「…………バカぁ…………」



 消え入るような声に、やはりイザクは笑った。ペンを置いてサイドテーブルに手を伸ばし、チョコチップ入りのスコーンをひとつ掴む。



「悪かったって。これで機嫌直して」



 直せと言う割に手ずから食べさせるつもりらしい。長年本当のことを言えなかった反動なのか何なのか、イザクはずっとこうしてノエルをひたすらに甘やかす。時折顔を出す“クロウ”の意地悪さすらも甘い。



「……甘い」



 スコーンが、だ。



「もう一個食べる?」

「食べる」

「ん」



 ノエルはやられっぱなしなのが癪だった。たしかに、自分はずっと、手紙を書いた本人の前で読んだりしていたけれど。その仕返しなのだとしても、自分ばかり手のひらの上で転がされているようで、少し悔しい。


 だから少女は反撃することにした。

 スコーンをくわえるついで、骨張った人差し指に軽く歯を当てた。



「されるがままだと思わないで」

「…………」

「……え、ごめん。痛かった?」



 恐るおそる背後を見上げる。途端、男が天井を仰いだ。書類がばさりと床に落ち、手の甲で口元を押さえ、そのまま動かなくなってしまった。

 そんなに痛かったかしらと思いつつ、ノエルはスコーンを頬張った。口の横に付いた食べかすを舐め取ってイザクの手を握る。顔を忘れても手を覚えていたから、“クロウ”は手袋を外せなかったのだろう、とようやく思いが至る。



「……ごめんなさい、イザク」

「…………」

「ちゃんと慣れるから。あなたに」

「……ノエル」

「なあに」

「なあに、じゃねえよ……」



 意味が解らない。今度は後ろから長い腕が伸びてきて抱きすくめられるし、肩口に顔を埋められるしで、ノエルは混乱した。落ちた書類が折れていないか見ようと身を乗り出すと、腕が体を引き戻した。



「ちょっと。書類折れていたら大変よ」

「あとで直せばいい。お前の“ロゴス”で」

「嫌よ。自分で直してよね。ねえ放してよ、どうしたの? そんなに強く噛んでないよ」

「……ノエル」



 少女を抱く男の腕に力が籠る。

 髪を梳く。黒髪を束ねる赤い髪紐を指で弄ぶ。

 紅い瞳を隠すサングラスが取り払われた。



「ノエル」



 吐息混じりに呼ぶ低い声が耳朶を打つ。こめかみに唇が触れ、長い指で閉じられた瞼にもキスが落とされる。瞼を持ち上げると、真っ直ぐな紅と目が合った。


 体中がかき回される。

 目を逸らしたい。逃げ出したい。


 でも、逃げたらきっと、このカラスは性懲りもなく捕まえに来る。髪紐に彼の証がある限り。

 額から目の下まで走る傷跡を指でなぞりながら、そんなことを思った。



「ノエル」

「……そんな顔しなくても、わたしはもうどこにも行かないよ」

「本当だろうな」

「本当よ。わたしだって、しつこいカラスにつけ回されるのはご免被りたいわ」

「お前が嫌ならしないよ。そんなこと」

「どうかしら。何年も探し回ったくせに、よく言う」



 向き合って額をくっつける。

 イザクは傷跡を消さないつもりらしい。前髪で隠すのも楽ではないだろうに、「忘れたくない」と頑なに治癒魔法ヒールを拒む。



(心配しなくても、あなたはお父さんのようにはならないよ)



 そう気持ちを込めて、傷跡に唇を押し当てる。

 だってあなたの手はずっと優しかったもの。大丈夫、わたしももう寂しくはないから、慰めるようなことをしなくてもいいの。






 ──紅い目はわたしをかき乱すけれど、胸の奥が満たされる。


 いつかもう一度、あの万年筆を執ろう。

 そしてちゃんとあなたと向き合って、隣で歩いていくと返事を書こう。




 元〈梟〉の少女は、そう心に決めている。

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