小羊の降る午後
藤光
小羊の降る午後
真っ青な空が広がっている。風はまだ冷たく、飛ぶように流れる雲も多いけれど、その向こうにのぞく空は、澄み渡って青が濃い。眼下に広がる街並みも遠くまで見渡せて気持ちがいい。でも、わたしは冬を好きになれない。
「梨子ぉ。寒いんだけど。閉めない?」
「あ、ごめん」
校舎の四階にある教室の窓からは、校庭も、プールも、フェンスの向こうに広がる住宅地もよく見渡せる。が、窓を開けたままだと、さすがにこの時季は寒さが身に染みる。
「ぼうっとして。あたしの話きいてた?」
「ごめん、なんだっけ」
さっきから謝ってばかりだ。わたしは目に前に座っている美咲に向き直った。
「あきれた。今日はバレンタインデーだよ。なにってその話に決まってるじゃない」
そうだそうだ。美咲のいうとおりだ。今日は聖バレンタインデー。意中の男性に(ときには意中でなかったり、男性でなかったり……)チョコレートを渡すとともに、じぶんの好意を相手に伝える日ではないか。花も恥じらう(どんな花だ?)女子高生としては、ぼうっとするにしてもうかつすぎたかもしれない。
「そうそう、バレンタイン」
「梨子はどうすることにしたの」
「どうって?」
「やだ、チョコレートのことよ」
ああ、そのことか。ってか、バレンタインデーにそのこと以外、なにをどうすることがあるというのだ。
「作ってきたんだよね」
「作ったのかな」
「渡すんでしょ」
「だったらいいよねえ」
「……梨子って、否定しないくせに肝心なところは人ごとのようにいうんだね」
ぐっと詰まって二の句が継げなかった。そのとおりだ。でも、そういうことってあるだろう。はぐらかそうとするのは誠実でないからでなはく、むしろ誠実であろうとするからだ。なにに対して?
「美咲はどうするのよ」
「決まってるじゃない、あたしは睦月くん。もちろん手作りのを渡すわよ」
はあ。ため息が出た。
睦月くんは、同級生でサッカー部のキャプテンをしているイケメンだ。見た目が爽やかなだけの筋肉バカだけれど、ぽうっとなってしまう女の子もたくさんいる。学年一のモテ男だけれど、それだけにライバルも多い。
サッカー部の羊ね……。
「だから、ちょっと行ってくる」
「行くって」
「だから、チョコを渡してくるに決まってるでしょ。いま彼、渡り廊下にいるんだって!」
ケータイの画面を示しながら、美咲があわてて席をたつ。きっとSNSででも睦月くん情報が回ってきたのだろう。アイドルの追っかけじゃあるまいし、そんなモテ男にチョコを渡したところで、美咲の薄い顔立ちとがさつな性格じゃあ、本命以外のその他大勢として処理されるに決まってるじゃないか。
「じゃ、梨子もがんばって」
美咲はさっさと行ってしまった。仕方がない。イベントには参加しておかなくちゃ損したように感じる感覚はわたしにも分かる。バレンタインは女子高生にとって一大イベントだ。美咲が前のめりになるのも無理はない。ただ、
そういうものなのかという疑問は残ったままだが。
わたしは校庭に背を向け教室に視線を移した。バレンタインデーの朝は、どことなく不穏な空気に満たされていると感じてしまうのは考えすぎなのだろうか。そんな教室のなか、目が吸い寄せられるのは、机をひとつおいて斜め前の席にいる鈴菜だった。わたしは今朝から彼女のことが気になって仕方がない。
鈴菜はこの日に向けてチョコレートを用意したのだろうか。用意したチョコレートを渡すのだろうか。そしてそれはだれなのか。もっぱらそんなことばかり考えている。それもこれも元凶は彼羊のせいなのだが……。
扉が開いて如月くんは他のクラスメイトと一緒に教室へ入ってきた。
とたとたとた……。
のどかな足音をたて、机の間を縫って近づいてきた彼羊は、真っ先にわたしのところへやってくると柔らかい鼻づらを膝頭に擦り付けてくる。
「おはよ」
羊は小さな声でメェと鳴いた。
その柔らかい桃色の鼻先は温かかった。そりゃ温かいだろう。今朝の気温は2度で凍えるような寒さだったけれど、もこもこふわふわした毛皮に守られた如月くんの身体はぽかぽかだ。
「今日はあったかそうだね」
どきどきしているわたしのことを知ってか知らずか如月くんは、愛想もそこそこにあっさりと身をひるがえして、とたとたと机のあいだを歩いていってしまう。次の行き先は、ななめ前の鈴菜の席だ。
読んでいた本から目を上げた鈴菜が如月くんをみとめて微笑む。固く結んだ花の蕾が柔らかく綻ぶような笑顔。わたしの胸の奥がきゅっとなる。見たいわけではないのに、二人のことから目が離せない。
如月くんが身体をすり寄せると、鈴菜がその真っ白な毛皮に両手を沈めながら、なにか話しかけている。小首を傾げる如月くん。おかしそうに笑う鈴菜――羊と会話が成立してる? わたしなんて羊がなに考えてるかさっぱりわかりゃしないのに!
見ているとその後も鈴菜は羊の鼻先を撫でたり、柔らかそうな毛皮の感触をうれしそうに確かめたりしている――うう。わたしも抱きしめてもふもふしたい!
羊はなかなか鈴菜の元を離れない。わたしのところからはすぐに離れていったのに。如月くんは、わたしと違って本ばかり読むおとなしい女が好みなのだろうか。華奢で吸いつきたくなるような唇と小さなお尻をした女がいいのだろうか。
でも、わたしだって、性格はともかく、はっきりした顔だちや形よく張り出した胸なら鈴菜に負けていない。いったい男子って女のどこにどうやって惚れるんだろ。だいたい、なんだってわたしが朝からこんなことで頭を悩ませなくちゃいけないんだ。
始業のチャイムが鳴ったことで、行き場のない思考からわたしは解放されたけれど、問題はなにも解決したわけではなかった。わたしは気になって授業中もちらちらと羊たちを見てしまう。
如月くんたち、群居性の強い羊は授業中、大きいのも小さいのも、白いのも黒いのもひとところに集まって、メェとも言わず教室の真ん中で、ただ押し合いへし合いしている。もこもこした毛皮がおしくらまんじゅうしている様子は見ているだけで暑い。
バレンタインデーの光景といえばそれまでだが、なんでそうまでしてと男子の気持ちを推しはかろうとするけれど、とてもわたしの理解の及ぶところではなさそうだ。
昼休み。バレンタインの緊張はますます高まってきて、教室内の空気は痛いほどだった。
「まだ、渡してないの」
しぃ! 美咲は声が大きい。向かい合ってお弁当を広げているが、ごはんつぶが飛んでやしないかと顔とまさぐる。
「先を越されていいことなんてなにもないんだよ」
「わかってるって。そういう美咲はどうなのよ、うまくいったの」
当たり前じゃないと美咲は鼻息も荒く、ケータイの画面をわたしの鼻の頭に突きつけた。美咲と美咲のチョコをくわえた黒い羊のツーショット。快く受け取ってもらえたことに間違いないようだ、羊に。
「ヒツジ? 睦月くんはニンゲンよ」
「うん、まあそれはいいから」
だって羊じゃない。
「よくないよ、梨子。先を越されてるんだよ」
「え」
頭の中からいっとき羊を追い出す。先を越されてるって?
聞くと鈴菜はもう如月くんにチョコを渡しているらしい。2時間目と3時間目の教室移動の際に、ラッピングされた袋をさりげなく如月くんに渡すのを美咲が目撃したらしいのだ。
「おとなしそうな顔して、やることはやってるのよ」
だから、声が大きいの、美咲は。
さいわい鈴菜は美咲の陰口に気づいていない。いつものようにひとりでお弁当を済ませた彼女は、自分の席で静かに本を開いていた。にぎやかな昼休みの教室でひとりだけ異質なたたずまいだ。美咲の口ぶりとは逆に、ひとを出し抜いてやろうなんて雰囲気からもっとも遠いところにあるように見える。
「だから、梨子もさあ」
美咲に急かされるようにして、わたしはSNSで如月くんにメッセージを送った。
『渡したいものがあるので、放課後、体育館裏へきてください』
送信してしまったあとで笑ってしまった。なにマンガみたいなことしてんだろ、わたし。
放課後、チョコレートをラッピングした小袋だけをもって、わたしは体育館裏へ向かった。美咲は部活があるからといってしまった。人気のない場所にひとり。日陰に向かって吹き付けてくる風に手がかじかむ。こんなに心細い思いをするのは、じぶんひとりでおつかいに出かけた小学生のころ以来かもしれない。
いつやってくるのだろう。いまどこにいるのだろう。来てはくれないのだろうか。むくむくと胸のうちに雲が湧き上がるように不安が首をもたげてきたちょうどそのとき――。
如月くんがあらわれた。
すっぽりと柔らかそうな毛皮に覆われた小さな身体、ゆっくりと近づいてくると金色の瞳を潤ませてわたしのことをじっと見てくる。
――なにかくれるの?
「き、如月くん、よかったらこれ、あの……」
いきなり核心から切り出すなんて、なにテンパってるんだ、わたし。これは羊だぞ――ってじぶんに言い聞かせても無駄だった。わたしの身体はわたしのコントロールを離れてる。
「食べて」
みもフタもないないことをいうが早いか、わたしの身体は後ろ手に隠していたチョコレートの小袋を羊の鼻先に突き出した。
ぱくり。
如月くんは、さも当然とばかりに口に咥えて受け取った。さんざん悩んで選んだコバルトブルーの包装紙と黄色のリボンが、長い顔の口元からちょろっとのぞいている。これが犬ならしっぽを振って喜びを表してくれるところだが、羊はどこを見てるか分からない瞳をきらきらさせるばかり。そして――もしゃもしゃもしゃ。包装紙ごと食べてしまった。満足そうに目を細めながら。
――まだなにかくれる?
あっけにとられて固まっているわたしをしばらく見つめていたが、もうなにももらえそうにないと分かると、静かに去っていった。如月くん、チョコレートを渡したって気づいてくれたかな。さっきまで羊が立っていた地面を見つめながら唇を噛んだ。
いつものようにバスケ部の部活に顔を出し、帰り支度を済ませて校舎を出ると、西の空が赤くなりはじめていた。いつも男子の声でにぎやかな校庭も今日だけはひっそりとしている。
ながい一日だった。今日は疲れた。わたしってひとを好きになる資格があるのだろうか。好かれる価値があるのだろうか。
うなだれてため息をつきそうになったそのとき、鈴菜を見つけた。校門へ続く坂道を歩いてゆく。わたしは駆け出した。なんだかそうしなくちゃいけないように感じて。
「ねえ、鈴菜」
クラスメイトというだけで、さして親しくもないわたしが急にあらわれて鈴菜は目を丸くしている。
「……葉月さん」
今日だけは戦友だろ。
「わたし、如月くんにチョコレート渡したんだけどさ」
そう言いかけたわたしは、「あ」と鈴菜が指さす空をみて言葉を呑んだ。
赤く染まりはじめた校舎の向こうから、ひとつ、ふたつ、みっつ……いくつもの白かったり黒かったりするふわふわとした塊がはずんで、とんで、落ちてくる。
校庭へ、中庭へ、テニスコートへ。風に流されて縦になったり、横になったり、回ったり。音もなく、鳴きもせず、つぎからつぎへと落ちてゆき――とつぜん止んだ。通り雨のように。
「……ヒツジですね」
「うん、ヒツジだね……」
バレンタインの羊に出会ったふたりは、この日はじめて肩を並べて校門へと続く坂道を下りた。
stray sheep,stray sheep――falls.
小羊の降る午後 藤光 @gigan_280614
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