第5話 献身

 それから一週間。

 俺は絵麻にしたい放題にした。絵麻に体操服を着せた。絵麻に水着を着せた。授業中に絵麻の体を舐め回した。絵麻の好きな一谷くんの目の前で、ベロベロにキスをした。俺は一谷くんから認識されないし、俺が絵麻にキスをしているという事実は一谷くんの認識している世界ではなくなるのだ。俺は一谷くんの前で絵麻にやりたい放題にした。一谷くんは俺も絵麻も無視した。


 しかし満たされなかった。何故か俺は満足しなかった。頭の中ではずっと、あの日記のフレーズが響いていた。


 初めて好きな人ができたの……初めて好きな人ができたの……初めて好きな人ができたの……。


「絵麻」

 水着を着て突っ立っている絵麻に、俺は訊ねた。

「俺が好きか」

「好きです」

「日記に俺のことは書いたか」

「書きました」

「今度見せてくれよ」

「分かりました」


 駄目だった。心が奮い立たない。興奮しない。小さな穴の開いたビーチボールのようだ。空気が抜けて徐々に徐々に萎んでいく。どんなに絵麻を愛しても、絵麻の髪の毛を舐めても絵麻の顔を舐めても絵麻の足を舐めても全然駄目だった。興奮できなかった。絵麻を水着にしても、絵麻を体操服姿にしても、エプロンを着せても駄目だった。本当に、どうにもならなくなった。


「絵麻」

 俺は絵麻に命じた。

「今日、もう一回絵麻の家に行っていいか」

「はい」

「連れていってくれ」


 絵麻の家に行った。絵麻の母親を見た。綺麗な女性だった。俺は絵麻の部屋に行った。

 絵麻の部屋で、もう一度日記を読む。

 あのフレーズを確認した。


〈初めて好きな人ができたの〉


「う、う」

 何故か涙が出た。ポロポロと零れ落ちた。日記が俺の涙で汚れないよう、懸命に袖で拭った。鼻水も出た、嗚咽も漏れた。しかし絵麻は俺の後方で立ち尽くしていた。俺は訊ねた。


「なぁ、絵麻。俺は何で泣いているんだと思う?」

 絵麻は答えた。

「分かりません」

 悲しいのですか。絵麻は訊いてきた。俺は答えた。

「分からん」


 再び日記を見た。この間は「好きな人ができた」のところで読むのをやめてしまったが、今度はその先を読んだ。こんなことが書かれていた。


〈四月三〇日。一谷くんと一緒に帰れた。二人で駅前のスーパーに寄ってアイスを食べた。美味しかったなぁ〉


〈五月三日。部活が休み。フェンシング部のみんなで映画を観に行った。一谷くんの私服を見た。かっこよかった。白いシャツに黒のベスト。細く見える黒のスキニーパンツ。ああいう服、どこで買っているんだろう。私の服がダサくなかったか心配〉


〈五月一五日。また一谷くんと帰れた。休みの日何をしているかとか、趣味は何かとかいう話をした。とても楽しかった。あの時間が永遠に続けばいいのに〉


〈六月二日。一谷くんと仲良くしているから、という理由で三組の女子から邪険に扱われた。ちょっと傷ついたけど、一谷くんかっこいいもんね。一谷くんは悪くない。私が、我慢すればいいことだし〉


〈六月二七日。文化祭。一谷くんと回った。一谷くんは射的の腕がすごくて、持っている弾全てを的に命中させた。ぬいぐるみをゲットできたと思ったら、一谷くんがそれを私にくれた。クマの小さなぬいぐるみ。かわいい。宝物にしようっと〉


 視線を部屋の中のタンスに移した。そこには確かに、小さなクマのぬいぐるみが置かれていた。


〈七月七日。七夕。天気はよかった。織姫と彦星は会えたのかなぁ。私の彦星も一谷くんだったらいいのに……私なんかじゃ、駄目かなぁ〉


「駄目じゃない」俺はつぶやいていた。「駄目じゃない。絵麻は駄目なんかじゃない。絵麻は、俺の絵麻は……、いや、絵麻は……」


〈七月一九日。学期末テスト。成績はいい感じ。英語と古文が上手くできた。数学はちょっと微妙だったけど、一谷くんに教わったところはできた。一谷くん、教師になりたいんだって。教えるの上手かったもん。将来の夢を持って頑張ってる一谷くん。すごいなぁ。私なんてまだ夢ないよ……〉


「絵麻」俺は口を開いた。

「お前は何になりたい」

 絵麻は沈黙した。それから答える。

「分かりません」

「何が好きだ」

「お菓子作りと、英語の勉強」


 俺は目を拭った。

「いいじゃないか。教師とか、向いてるんじゃないか」

 絵麻は沈黙した。俺はまた日記に目を落とした。


〈七月二九日。夏休み前最後の部活。大会に出るから練習しっかりやらなきゃ、と思って一生懸命やっていたら、太腿に痣を作ってしまった。あーあ。女の子が体中傷を作って何をやっているんだろう。でも、練習終わりに一谷くんとお話ができた。楽しかったなぁ〉


「絵麻」俺は訊ねた。「俺との会話は楽しいか」

「楽しいです」

「本当か」

「本当です」


 絵麻は無表情だった。目も虚空を見つめている。楽しいと口では言っているのに笑顔一つ見せなかった。胸の奥で何かが潰れた。


 くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ。


 気づけば俺は膝から崩れ落ちていた。日記を床に取り落とす。その瞬間、日記が痛んでいないか気にする俺がいた。そして気付いた。


 これが……この日記を気遣った時の俺が……、俺だ、と。


「悪魔」


 俺は呼んだ。すぐに続ける。


「いるんだろ」

「いるよ」


 タンスの上のぬいぐるみが答えた。あの一谷くんが射的で当てて絵麻にプレゼントしたとかいう。小っちゃなクマのぬいぐるみだ。俺はそれを見つめた。


「願いがある」


 するとぬいぐるみが震えた。


「おお、おお、願いか。三つ目だぞ。いいのか」

「ああ、いい」


 俺は立ち上がると写真立てを手に取った。一谷くんと絵麻が二人で写っている、絵麻が眩しいくらいの笑顔を見せている写真だ。俺はぬいぐるみにその写真を見せた。


「この一谷とかいう男子と、絵麻をくっつけてほしい。恋人にさせてほしい。できるなら、結婚までさせてほしい。幸せな家庭を築かせてほしい。かわいい子供を持たせてほしい。二人とも、おじいちゃんおばあちゃんになるまで仲良しでいさせてほしい。そして死が二人を分かつまで、一緒にいさせてほしい」


 すると悪魔はおかしそうな声を出した。


「いいのか。お前。その願いはお前が何も得をしないぞ」

「いい」即答した。

「お前は消えるんだぞ」悪魔は囁いた。

「いいんだ」俺は答えた。


「俺なんか、いない方が」


 悪魔は沈黙した。ぬいぐるみだから分からないが、多分、ほくそ笑んでいたのだと思う。それから悪魔はゆっくりと確認してきた。


「この願いでお前の『存在』の全てをもらう」

「ああ」

「お前はこの世に存在しないことになる。無だ。何もなくなる」

「ああ」

「いいんだな」

「いい」

「最後に何か言い残したいことがあったら、聞くぞ」


 じゃあ、絵麻に。と俺は絵麻の方を振り返った。


「絵麻。最後の命令だ」

「はい」

「幸せになってくれ。今までごめんな」


 それから悪魔に向き合った。


「最後の願い、叶えてくれ」


 悪魔の声が聞こえた。


「お前の望み、聞き入れた」























 了

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全地獄対応版納税のススメ 飯田太朗 @taroIda

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