第4話 占有

 悪魔に二つ目の望みを言ったその日の、夜。

 俺は近くの銭湯に行ってみた。悪魔の話では、俺のことを知らない人間は全て俺のことを無視するとのことである。俺の「存在」がどこまで消えているか、確かめてみたくなった。


 銭湯の受付は俺が目の前を通っても無視した。完全に無反応。どうやら本当に見えていないようだ。と、俺の中のいたずら心がむくむくと成長する。俺は誰にも見られていない。となると、男としてやっておきたいことがひとつ。


 俺は女湯に向かった。赤い暖簾をくぐる。途中、髪の濡れた女何人かとすれ違ったがこちらに目も向けない。俺は堂々と女子更衣室に入る。

 下着を外す女、髪を乾かす女、タオルを持って風呂に向かう女、色々いた。俺は浴場へ向かった。


 当たり前だがみんな裸だった。タオルすら巻いていない。生まれたまんま。俺がじーっと見つめても隠そうともしない。俺は今、この女湯の中で「存在しない」ことになっているのだ。


 俺は二つ目の願いまで口にしてしまっている。


 俺の名前だけを知っている人間、もしくは顔だけを知っている人間、が俺のことを無視する。一般人はもちろん俺のことが見えていない。


 ある意味男の夢とも言われる環境だったが、別に面白くはなかった。そりゃ、女湯にこっそり入っているという背徳感、スリルはあったが、中にいるのはほとんど婆さんか中年女性だし、みんな化粧も落としているから美人度、という点ではどうしても劣る。女の化けの皮が剥がれている瞬間を見ても何も面白くない。何なら、その辺の女に触ってみて思ったが、絵麻とのキス以上に興奮することはない。


 つまらなくなったので十分くらいで銭湯からおさらばした。

 家に帰る。母が声をかけてくる。


「出かけてたの」


 母は俺の「顔も名前も知っている」人間だ。今のところ母からは認知される。俺は答える。


「ちょっとコンビニにね」

「あら、そう」


 母はつまらなそうにリビングのソファに座っていた。心なしか、母からの関心も低くなっている気がする。


 部屋に戻った。絵麻とはクレープ屋のデートで連絡先を交換していたので連絡がとれた。俺は試しに〈写真を送れ〉と命じてみた。一分後、写真が送られてきた。


〈これでいいでしょうか〉


 絵麻の顔だった。無表情。でもかわいかった。俺は画面に顔を寄せてキスをした。唇の感覚が蘇る。

 明日、学校で絵麻に会える。そのことに精神が高ぶった。心臓が今までにないビートで鼓動を刻んでいる。俺はベッドの中で布団にくるまった。考える。


 絵麻。絵麻。絵麻。絵麻。絵麻。絵麻。絵麻。絵麻。絵麻……。


 翌日。

 俺は絵麻を部室棟の空き部室に呼び出した。授業中。先生には体調不良だと言えと命じた。絵麻は言われた通り部室にやってきた。部屋に入るなり、俺は命じた。


「服を脱げ」


 言われるままに絵麻は裸になった。その美しい、まだ発達し始めたばかりの女子の曲線をなめるように見つめた後、俺は次の命令をした。


「リボンだけつけろ。ハイソックスを履け」


 言われた通りに絵麻は動いた。全裸で、ハイソックスと、リボンだけつけている。妙なアンバランスさに俺は興奮した。絵麻に近づく。


「キスをしろ」


 言われるままに絵麻が俺の唇に自らの唇を重ね合わせる。むっちりと柔らかい唇が俺のカサカサに乾燥した唇にくっつく。我慢できなかった。俺は絵麻の唇を貪った。


「舌を出せ」


 べー、と絵麻が舌を出した。俺はその舌をしゃぶった。


「俺のベロもしゃぶれ」


 俺は舌を出す。絵麻は言われたままに俺の舌をしゃぶった。彼女の柔らかい口の感触が俺の舌を包み込む。とても気持ちよかった。俺はさらに興奮した。


「何をされてもじっとしていろ」


 俺はそれからやりたいことをやった。

 絵麻の髪の毛をしゃぶった。絵麻の足の指の間を舐めた。絵麻の鼻の穴を、耳の穴を舐めた。顔全体を舐めしゃぶった。絵麻の体は俺の唾液だらけになった。ひとしきり絵麻を堪能した後、俺は命令した。


「愛していると言え」

「愛しています」

「どれくらい愛しているか言え」

「この世のどんな人より愛しています」

「俺のために死ねるか」

「死ねます」

「俺がお前に何をしても許せるか」

「はい」


 愛しかった。絵麻が愛しかった。俺は再び絵麻を堪能した。


 絵麻に命じた。


「服を着ろ」


 服を着た。さらに絵麻に命じる。


「手を繋げ。俺とデートしろ」


 絵麻と学校を抜け出した。

 昨日のクレープ屋に行く。


「何が食べたい」

「聡さんのおっしゃるものなら何でも」

「何が食べたいか言え」

「それでは、これを」

 絵麻はバナナクレープを示した。俺は笑う。

「食わせてやろう。嬉しいか」

「嬉しいです」


 絵麻と並んで座ってクレープを食べた。絵麻はもぐもぐとクレープを食べた。


 昨日の公園へ、行く。

 暗くなるまで過ごした。俺は絵麻を鑑賞した。その整った顔を、完璧なプロポーションを鑑賞した。まるで芸術品のような美しさだった。そして俺は、その芸術品をさっき舐め回したのだと思うとぶるりと興奮した。またそれをやりたい衝動に駆られたが、絵麻は美しかった。これを汚すのは勿体ないとそう思った。だからやめた。


 夕闇が公園を支配した。


 俺は絵麻に命じた。


「キスをしろ」


 唇が重ね合わさる。柔らかい感触。甘美な感覚。


 胸を触る。嫌がらない。


「俺のことを愛しているか」

 唇を離し、そう訊く。絵麻は答える。

「愛しています」

「俺が何をしても許すか」

「許します」


 たまらなかった。たまらなく興奮した。そして俺は、この美しい生き物を、今後もずっと占有できるのだ。ずっとずっと、死ぬまで俺のものなのだ。俺は感動した。悪魔の力に感謝した。そして思えば、最初からこうお願いしておけばよかったのだと少し後悔した。しかし、二回目のお願いで気づけたのだからよしとしようと思った。そして俺は、不意に思い立った。


「絵麻の部屋が見たい」


 彼女が普段どんな生活をしているのか。それが気になった。彼女が家族とどんな会話をしているのか。彼女が普段どんなパジャマを着ているのか。それが気になった。だから彼女の家に行くことにした。


「連れていけ」

「承知しました」


 絵麻について行く。俺の胸は、まるで買ったばかりのゲームを開ける時のように、高鳴っていた。



 絵麻の家に着いた。

 住宅街の一角だった。駅から歩いて十分くらい。静かな街だった。絵麻は鍵を使って玄関を開けた。


「ただいま」

「あら、おかえり」


 絵麻の母親が出てきた。絵麻そっくりの美人な母だった。彼女はやはり俺のことは無視した。俺は心の内笑った。


 絵麻の部屋は、それは綺麗な部屋だった。


 ナチュラル系、と言おうか。木材を使った家具が多かった。掃除も行き届いている。俺の中の絵麻のイメージにぴったり。俺は部屋の真ん中に置いてあった座卓の前に座った。


「絵麻」俺は彼女を呼んだ。

「パジャマ姿が見たい」

「はい」


 絵麻は俺の目の前で着替えた。その様子を俺はワクワクしながら見守った。


 絵麻がパジャマを着た。薄いブルーのタオル生地でできたパジャマだった。かわいかった。もうそのまま食べてしまいたいくらいかわいかった。絵麻を愛していることを実感した。絵麻が愛しい。絵麻がかわいい。


「絵麻」

「はい」

 俺はさらに絵麻のことが知りたかった。


「絵麻の秘密を俺に教えてくれるか」

「はい」


 すると絵麻は机に向かって歩いていき、抽斗を開けた。そこから一冊のノートを取り出して来た。分厚い装丁の、何だか重そうなノートだった。開く。日記だった。


 一番古いページを開く。五年前。五年前だと。


「この日記はどうした」

「父から誕生日プレゼントでもらいました」

「ほう、お父さんから」


 ぺらぺらとめくっていく。中学生時代の思い出、修学旅行、部活の大会などの記録があった。どれもかわいらしい色のペンで書かれている。俺は絵麻の全てが記された日記を読んで満足した。かわいい。かわいいぞ絵麻。そう思いながらひたすら日記を読んだ。


 多分一時間くらいだろう。俺はずっと絵麻の日記を読んでいた。絵麻はこの五年間、毎日欠かさず日記をつけていたようで、絵麻の成長や絵麻の心の機微が詳細に記されていた。それはまるで誰かに語り掛けるように綴られていた。文の末尾が「……なの」とか、「……だったんだ」とかいう風になっていた。読んでいるこちらに語りかけているかのようだ。


 日記はついに高校時代に突入した。一年生の時の俺との出会いが書かれていないか、と微かに期待したが、書かれてはいなかった。少し落胆する。そこで絵麻に命じる。


「今日俺としたことを日記に書け」

「はい」


 よろしい。俺は日記を読み続けた。そしてそれは高二になる頃、やってきた。


〈四月一二日。部活の練習。あのね、初めて好きな人ができたの。三組のクラスの一谷くん。同じ部活の男子なんだけど、かっこいいんだ〉


 一谷。俺は心が冷えた気がした。一谷。誰だ一谷って。そう思って日記をめくろうとした、その時だった。


 絵麻の机に目が行った。写真立てが置かれている。その写真を見た。どうやらフェンシング部で撮った写真らしく、細い剣を持った男女が並んで写真を撮っている。中央には絵麻。そして隣には……。


 俺の隣のクラスのイケメンがいた。


 よく見てみると、絵麻の机の上にある写真にはどれもあのイケメンがいた。もしかして、と俺は思った。


「おい」

 絵麻に訊く。

「この写真の奴は誰だ」

「一谷くんです」


 一谷。俺は写真を睨んだ。絵麻をたぶらかした奴か。写真立てを手に取る。整った顔。カメラを見つめる真っ直ぐな眼差し。俺とは対極にある男だった。


 絵麻に写真を見せつける。


「この男のことが好きなのか」

「はい」真っ直ぐに答えられる。胸の中で何かが焦げ付いた気がした。

「俺のことを愛しているんじゃないのか」

「聡さんのことを愛しています」

「この一谷とかいう男とどっちが好きなんだ」

「聡さんです」

 無表情。絵麻の目は虚ろである。

「おい」俺は絵麻の目を覗き込む。

「本当に俺が好きか」

「好きです」

「大好きですと言え」

「大好きです」

 しかし胸の中の焦げ付きは消えなかった。俺は再び絵麻に命じた。


「俺のことを愛していると言え」

「聡さんのことを愛しています」

「キスをしろ」

 した。熱いのを。しかし、満たされなかった。俺は命じた。

「愛していると言え」

「愛しています」

「好きなんだろ」

「好きです」

「この世の何よりも」

「ええ。この世の何よりも」

「俺の為なら何でもできるよな」

「できます」

 俺は頭を抱えた。

 駄目だ。胸の奥の焦げ付きが消えない。俺は何をやっているんだ。俺は……俺は、何を、何を……。


「帰る」

 俺は絵麻に告げた。

「見送れ」

「はい」


 俺は絵麻に見送られて絵麻の家を出た。


 暗い住宅街を歩く。街灯がまばらにあるだけなので、本当に薄暗い。闇に包まれながら俺は思った。


 絵麻は俺が、好きなんだ。絵麻は俺を、愛しているんだ。絵麻は俺の為なら、何でもできるんだ。絵麻は、絵麻は、絵麻は……。

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