第3話 恋人
「聡くん」
翌日。隣のクラスの女の子、高畑絵麻が話しかけてきた。
「ね、放課後空いてるかな」
「え。あ、空いてるよ」俺は驚きながら答える。と、そこで思い出す。
「お前の望み、聞き入れた」
昨日、俺は悪魔に会った。悪魔は俺の『存在』を対価に俺の望みを叶えると言った。もしかしてその望みが叶ったんじゃないか。そんなことが頭に浮かんだ。
俺は家から学校まで自転車で通っている。通学中に他人と会うことはない。だから、「赤の他人から無視される」ということをイマイチ実感しなかった。だが学校に来てみれば早速高畑絵麻が話しかけてくれた。俺の好きな、俺がどれだけ手を伸ばしても届きようがない高嶺のさらに高嶺の上にある花である高畑さんが、である。俺は心臓が躍るのを感じた。もしかして。これは、もしかして。
「デートしようよ」
高畑絵麻は頬を赤らめる。
「最近できたクレープ屋さん、行きたいな」
俺はぽかんとする。あの高畑絵麻が、俺とクレープ屋さんに行きたいと言っている。
「駄目かな。聡くん甘いもの嫌いだっけ」
「い、いや……」俺は慌てて高畑絵麻に向き合う。
「好きだよ」
すると彼女は表情を輝かせた。
「よかった。じゃ、行こうね。約束だよ」
彼女は去っていった。隣のクラスだから、一緒に教室に入るなんてことはできない。だが、俺の心はバク転をしていた。
高畑絵麻が俺とクレープ屋に行く。高畑絵麻と俺がデートの約束をしている。その事実に俺は胃袋を吐き出しそうなほど喜んでいた。俺は高畑絵麻に恋をしていた。俺のやりたいことが正にこれだった。俺の人生唯一の輝き。俺の人生唯一の潤い。それが高畑絵麻だった。
彼女と俺は一年の頃同じクラスだった。彼女はフェンシング部の女子部員だった。今は女子部長をしているらしい。あの美しい彼女が、白のタイツに身を包んで剣を振るっている姿を想像するだけで俺の心はときめいた。
話を戻そう。俺と高畑絵麻は一年の頃同じクラスだった。俺の扱いは一年の頃から変わらなかった。つまり、みんなに無視される。いてもいなくても変わらない存在。
しかしそんな俺に高畑絵麻は話しかけてくれた。
「田中くん、昨日遅くまで起きてたの」
彼女は偶然俺の隣に座っていた。真っ直ぐな目、キラキラした目で俺のことを見つめていた。俺は人と話すのが久しぶり過ぎて言葉に詰まった。
「あ、え……」
「田中くんいつも寝てるからさ」
高畑絵麻は心配そうな顔をした。
「もしかして勉強とかで遅くまで起きているのかなって」
違う。やることがないから仕方なく寝ているのだ。誰からも認識されないから自分も自分を認識しなくて済むように寝ているのだ。
しかしそんなことを言う訳にもいかない。
「まぁ、ちょっと、その」
「もしかして具合悪いの」
彼女は心配そうな顔をして俺を見てくる。
「保健室、行きたいのかな」
「い、いや……」
あの高畑さんに連れられて保健室。鼻血案件だった。
「大丈夫です。その、ごめんなさい。大丈夫です」
その後高畑さんと何を話したかは全く覚えていない。ドキドキして頭が沸騰しそうだったからだ。
その日から、俺は高畑絵麻に恋をした。彼女はクラスでも人気者で、多くの男子が彼女に恋をしていた。多分ミスコンをすれば学年一位を取れるだろう。それくらい彼女は美しかった。もはや「麗しい」という言葉の方がふさわしいかもしれない。
その高畑絵麻が、俺のものになった。
俺は笑いを隠し切れない。あの高畑絵麻が俺の恋人になった。あの高畑絵麻が俺と付き合った。最高だった。最高なんて言葉じゃ表せないくらい俺は昂っていた。
放課後。
俺と絵麻は校門で待ち合わせをしてクレープ屋に行った。俺は普段から誰とも遊ばないし何にもお金を使わなかったので、財布の中には常に三万円くらいあった。絵麻にクレープを奢る。
「えー、いいよ。割り勘にしようよ」
絵麻は頬を膨らませる。かわいい。
「聡くんと平等でいたいの」
「俺たちは平等だよ」
俺は微笑む。
「絵麻のことが好きなんだ。だから、俺の気持ちだと思って、食べてくれ」
すると絵麻は頬を赤らめた。
「……食べる」
かわいい。
ああ、かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。死ぬほどかわいい。このまま食べてしまいたいくらいかわいい。彼女の髪の毛を一本一本味わいたいくらいかわいい。彼女の足の指の間まで舐めつくしたいくらいかわいい。それくらい彼女のことが好きだった。愛していた。俺の全てを捧げてもいいと思っていた。彼女のためなら死ねると思った。腕や脚の一本や二本くれてやるとさえ思った。切腹だってできる。目玉をえぐりだすこともできる。何でもできる。そう、何でも。
気持ち悪いと思われるかもしれない。あるいは、重たすぎると思われるかもしれない。だが、俺は今までの人生で一度もモテたことがない。誰かと仲良くできたこともない。親しい、という状態が分からないのだ。そんな俺が好きな女の子と二人きりでデートできる状態になったらどうなるか想像してほしい。想像できるかな。普通の人はできないのかもしれない。
簡単な話、狂うのだ。俺は狂っていた。こんな幸運俺に訪れていいのかとさえ思った。誰か損しているんじゃないか。そう思って気づいた。
俺の学校で高畑絵麻に恋をしていた男子全員が損をしている。俺の幸福と彼らの不幸は等価交換されたのだ。俺は笑った。
「あ。聡くん」
絵麻が俺のことを見上げる。
「ほっぺにクリームついてるよ」
「え」
やばい。俺は思った。こんなお決まりのことが起きていいのか。第一俺はいったいどんな食べ方をしたらほっぺにクリームなんかつくんだ。そんな疑問が一気に頭をかけめぐったが、彼女の指先が俺の頬に触れた瞬間、全てがどうでもよくなった。俺の意識は虚無の彼方に飛んだ。
「はい」
彼女は俺の頬についていたクリームを指でとって舐めた。彼女の舌に俺の頬の細胞が味わわれたことになる。たまらない。たまらない。たまらない。俺は発狂しそうだった。こんな幸せって世の中に存在したのか。幸せって何だ。もはや幸せの飽和が起きていた。
夕暮れ。公園のベンチで二人並んで座った。しばらく他愛もない話をする。幸福だった。ボクサーのパンチを頭に何発も食らったように頭がくらくらしていた。多分、まともじゃなかったと思う。
夕闇に世界が包まれ始めた頃。
俺と絵麻は、黙った。二人見つめ合って、何も言わない。だがその沈黙さえ心地よかった。まるでフルオーケストラに心酔しているかのような気分だった。心臓が高鳴った。絵麻が目を瞑った。
震えた。震度七くらい震えた。人間バイブレーションと化していた。しかし俺は何とか自分を保つと、彼女と同じように目を瞑った。それから、自分の唇を彼女に押し当てた。
柔らかかった。アルファゲルのペングリップなんて彼女の唇に比べたらコンクリートじゃないかと思えるくらい柔らかかった。たまらなかった。俺はその柔らかさの中に埋もれたくて、さらに強く唇を押し付けた。絵麻を抱きしめる。彼女は抵抗しなかった。強く、抱き締める。彼女はぷは、っと俺の口から顔を離した。
「窒息しちゃうよ……」
頬を赤らめる。たまらん。もういっそ殺してくれ。
「絵麻……絵麻……」
俺は彼女に迫る。顔を近づけもう一度キスをねだる。絵麻は答えてくれた。再び彼女の唇に俺の唇が触れる。柔らかい。たまらない。もっと吸いたい。俺は舌を出すと彼女の唇を割ろうとした。手が、自然に彼女の胸に伸びる。我慢できなかった。我慢できなかった。俺は完全に性欲に頭をやられていた。すると絵麻が俺の唇から口を離した。
「いやっ」
小さく叫ぶ。
「聡くん……」絵麻が困った顔をする。
「私たち、まだそういうのは……」
俺は混乱した。
まだそういうのは。まだそういうのは、と彼女は言ったのか。俺は愕然とした。付き合っている男女なんてみんなこんなことをするもんじゃないのか。そりゃ、公園でするのはまずかったかもしれない。公衆の面前ではまずかったかもしれない。そうしたら学校の空き教室でも、使われていない部室とかでもどこでも行ってすりゃいいじゃないか。それに、行為にまでいたらなくても胸に触るくらい……と思ったところで、絵麻が口を開いた。
「ごめん。聡くん。今日は帰るね」
「え……え……」
「ごめん。でも、大好きだから」
彼女はそんな言葉を残してベンチから去る。俺は呆然とするしかなかった。彼女が去っていった。彼女の残り香だけが、俺の鼻をくすぐっていた。
「あーあ。お前も馬鹿だねぇ」
不意に背後から声がした。そこには帽子をかぶった中年の男性がいた。杖を突いている。帽子のせいで目元は見えない。
「女心が分かってねぇんだよ。強引にいったら引かれるだろうさ」
声で分かった。
悪魔だ。悪魔が姿を変えて現れたんだ。だから僕は口を開いた。
「悪魔だな」
すると男性は答えた。
「そうだよ」
男性は俺の隣に座った。さっき絵麻が座っていた場所に。絵麻の尻が置かれていた場所に。たったそれだけのことで、俺は悪魔をぶん殴りそうになった。
「絵麻は俺のものになったんじゃなかったのか」
俺は悪魔に問うた。すると悪魔は笑って答えた。
「なったじゃないか。お前とあの娘、付き合っているんだろ」
「絵麻は俺を拒絶した」俺は冷たい声で告げた。「さっきの、見てただろ」
「あれはお前が急ぎすぎだ」悪魔は杖を突いたまま続けた。「彼女だって物じゃないんだ。人格がある。確かにお前の恋人にはなったが、立場は平等だ。彼女にだって拒否権はある」
「拒否権って何だよ」俺はもう、ほとんど怒っていた。
「絵麻は俺のものなんだろ」
「お前の恋人にはなったぞ」悪魔は笑った。「お前の望み通りだ。お前は確かに『高畑絵麻を俺の恋人にしてほしい』と言った。俺はそれを叶えた」
くそ。俺は奥歯を噛み締めた。これじゃ話が違う。絵麻は俺の全てを受け入れるようになってもらわなきゃ駄目なのだ。俺が何をしても笑って受け入れる……俺がキスの最中に舌を突っ込もうが胸に触ろうが何をしようが黙って受け入れる……そんな存在になってもらわなきゃ駄目なのだ。
幸せの最中に叩き落されるとその落差で全てを失ったような気分になる。実際、俺は喪失感に打ちのめされていた。絵麻と俺とは今、確かに恋人だ。でも、恋人という関係には失恋も付きまとう。このままじゃ駄目だ。絵麻が俺から離れる可能性がある。それだけは、阻止したかった。ずっと絵麻にいてほしかった。ずっと絵麻といたかった。気づけば、俺は口を開いていた。
「おい」
俺は悪魔に話しかける。
「二つ目まで、でやめてもいいんだよな」
「何の問題もない」悪魔は静かに続けた。「望みがあるのか」
「ある」俺は悪魔に向き直った。
「高畑絵麻を、俺の所有物にしてほしい。俺の言うことは何でも聞く女にするんだ。彼女から拒否権を奪え。俺の望みを何でも叶える女にしろ」
悪魔は笑った。
「いいぞ。代わりに『存在』はしっかりもらうからな」
「構わないよ」
俺はクラスメイトを思い浮かべた。あいつらはどうせ、俺がいてもいなくても無視をする。俺はいないのと一緒。元から存在していないようなものなのだ。
「絵麻を俺のものにしてくれ。絵麻を一生俺から離れられない女にしてくれ。絵麻の人生を俺に捧げさせてくれ。絵麻を……絵麻を……」
「分かった分かった」
悪魔は笑った。
「まぁ、いわゆる『異性が欲しい』ってやつだよな。俺もその手の願いはよく聞くよ。手慣れているから安心しろ。その高畑絵麻とかいう女を、完全にお前のものにしてやる。お前以外には脇目もふらない、完全にお前だけのお前のためのお前に尽くす女にしてやる」
「そうしてくれ」俺は頷いた。「俺だけの女にしろ。俺しか見ない女にしろ。俺を全て受け入れる女にしろ」
「はいよ」
悪魔はすっと立ち上がった。
「今この瞬間から、高畑絵麻はお前のものだ。まぁ、実際に会えるのは明日だろうが、楽しみにしとけよ」
悪魔は立ち去っていった。俺はその背中を黙って見ていた。唇にさっきの感触が蘇る。彼女の唇。彼女の口。彼女の粘液。
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