第2話 契約
「お前の望みを言え。どんな望みも叶えてやる。お前が払う代償は、たった一つ」
「え……え……」
俺は困惑していた。そりゃそうだ。いきなり目の前に訳の分からない生き物が現れて、「お前の望みを言え」だなんて口にされても、どうしていいか分からない。
すると悪魔はうんざりしたように額に……額と思しき場所に……手を当てた。
「何かねーのかよ。金が欲しいとか、世界を手に入れたいとか、女が欲しいとかよ」
「ど、どういうことだよ」
「願いを何でも叶えてやるって言ってんだよ」
悪魔はイライラしたように続けた。
「さっきの口上で分かっただろ。いいか。お前は望みを言う。俺は対価をもらう。それで取引完了って訳」
俺はしばらく考える。
「どんな望みでも叶えてくれるのか」
「そう言ってるだろ」
「五千兆円くれって言ったらくれるか」
「やるよ」
「地球を全部俺の国にしてほしいとか言ってもか」
「してやるよ」
「本気で言ってるのか」
「冗談に見えるか。俺の姿を見ても」
確かに。こんな突飛な生き物いない。言葉をしゃべる、猿とも羊とも鳥ともとれない生き物。こんな冗談みたいな生き物がいるのだから、願いを叶えてくれる、なんていうこともあり得るのかもしれない。
「本当なんだ……」俺はその場に座り込みそうになる。
「何で俺のところに」
「まぁ、ラッキーとしか言えないよな。地獄からこの世を覗いていて、何となくお前がいいかなと思った。それだけ」
「よくあることなのか。その、悪魔に話しかけられるっていうのは」
悪魔はにたりと笑う。
「さぁな」
その笑顔に何やら含むところがありそうで、俺は警戒した。すると俺のそんな心を読んだように悪魔が言葉を吐いた。
「悪い話じゃねぇと思うぜ。願いが何でも叶うんだ。対価をちゃんと払えばな」
すると悪魔は不意に羽をはばたかせ、宙に浮いた。
「まぁ、想像はつくと思う。俺が願いを叶える代わりに求める対価、ってのは」
全然想像がつかない。だから俺はぽかんとする。
「おいおいマジか」
悪魔は俺の顔を覗き込む。
「想像もつかないって顔してるぞ」
「想像もつかない」俺は続ける。「何を求められるんだ」
すると悪魔はうんざりしたように口を開いた。
「まぁ、多くの場合魂だよな」
「たましい」
何を意味するのか分からなくて俺は鸚鵡返しをする。悪魔は面倒くさい、という顔をした。
「死んだ後、お前の魂をもらう。地獄に連れていく。そこで無限の責め苦を受けさせる。それが俺の仕事。まぁ、言やぁ客引きだよな。俺の仕事は」
「はぁ」
「魂をもらう代わりに願いを何でも叶える。そういう取引だ。分かったか」
俺は頭を回転させた。なるほど。理解が追いつく。
「地獄に行くのは、嫌だ」
少しの時間の後。俺はそうつぶやく。
すると悪魔はにやりと笑った。
「まぁ、嫌だろうな」
俺でも嫌だよ。そう笑う。
「この話は……契約ってことか……なかったことにしてくれ」
俺がそう告げて場を去ろうとすると、また悪魔がぱちんと指を鳴らした。すると俺の足はまるで石になったように、その場に硬直した。
「まぁ、話を最後まで聞いていけよぉ」
悪魔ははばたいて俺の目の前に来た。
「最近、地獄でも税制が変わってな」
税制。俺には難しい話だとすぐに分かった。
「俺が魂を得ると、その分税魂で持ってかれる率が高いんだ……あ、お前らの言葉で言うと税金な。つまり願いを叶える代わりに魂を得る、という契約だと、サタン様に持っていかれる税の率が高くなる。魂は税率が高いんだ。せっかく稼いでも税にほとんど持っていかれるんじゃ意味がない……と、多くの悪魔は思うわけ」
すると悪魔はまた指をぱちんと鳴らした。その音に呼応するかのように、空中からいきなり本が出た。いつの間にか悪魔は眼鏡を……眼鏡と思しき妙なレンズを……かけていた。
「さて、この『全地獄対応版納税のススメ』によるとだな」
何だそれ。自己啓発本みたいなものか。そんなことを思っている内に悪魔は続ける。
「魂を対価として得た場合、持っていかれる税魂は四〇パーセント。ところが、だ」
悪魔は本から目を離して俺の方に視線を投げ、にたりと笑う。
「魂ではなく『存在』を対価にすると、持っていかれる税魂……税金のことな……は二パーセントで済む。この差でかくね。でかすぎね。四〇パーセントか二パーセントだよ。もう節税しただけで生活できちゃう」
そして、だ。悪魔はまた悪そうな笑顔を浮かべて俺に近づいてくる。
「この『存在』。分割で得るとまた税が安くなる。二パーセントが一・七パーセントになる。もうね、うはうはよ。うはうは。サタン様も馬鹿だよな」
くっくっく。何がおかしいのだろう、と俺は思ったが、悪魔の奴は続けた。
「と、いう訳でだ。俺がお前に持ち掛ける契約は次の通りだ」
悪魔はまたごほん、と咳払いをした。
「お前の望みを言え。三つだ。どんな望みも叶えてやる。お前が払う代償は、たった一つ。お前の『存在』だ。『存在』を三つに分割して払ってもらう」
俺はようやく口を利く。
「『存在』」
俺の鈍さに嫌気がさした、というような顔を悪魔はする。
「『存在』だ。いいか。お前という存在は、『周りからそこにあると認知されている』ことでこの世界にいることができる」
何を言っているか分からない。そんな俺の表情を読んだのか、悪魔がさらに丁寧に続ける。
「周りの人に『ああ、田中聡がここにいるな』と認識されて初めてお前はこの世界にいることができる、っていうことだ」
「じゃ、じゃあ仮に俺が周りの人から認識されなくなったら……」
「消えてなくなる」悪魔は事も無げに告げた。「存在してないんだからな。いないのと一緒。当然っちゃ当然だ」
「捜索願とか出されないのか」
俺が訊ねると悪魔が「おいおい、大丈夫かよ」と頭に手を当てた。
「いいか、そもそもお前は存在しなくなるんだ。お前の母親も、父親も、お前が家族として誕生した記憶すらなくなる。認識されなくなるっていうのは文字通りこの世界から消えるんだ。何もなかったことになる」
「それって死ぬことになるのか」
俺の問いに悪魔は答える。
「死ぬよりひどい……いや、天国か地獄の二択を迫られるよりマシ、という話もあるが……。消えるんだ。なかったことになる。死後の世界もない。無だ」
「無」それがどんな概念を示すのか分からなくて、俺は繰り返した。「無って何だ」
「哲学だな」悪魔は笑った。「まぁ、それはこれから追々考えればいいんじゃねーか」
さて、と悪魔は続けた。
「さっきお前の『存在』を三分割してもらう、と言ったな。その代わりに叶えられる願いも三つになると。ここで一応、俺は親切な悪魔だから、願いを叶えた時と、その結果お前がどうなるかを簡単にシミュレーションしてお前に教えよう」
悪魔はふらりと俺の方に近寄った。
「まず、望みを一つ俺にお願いした場合。お前の『存在』の三分の一をもらう。つまりお前は『存在』を三分の一失う訳だな。三分の一周りから認識されなくなる。これはどういうことか」
ここで悪魔はにたりと笑った。
「まず、赤の他人がお前を認識しなくなる。この『全地獄対応版納税のススメ』によれば『名前を知らない赤の他人から認識されなくなる』とのことだな。つまりその辺の通行人や、地球の裏側にいる外国人なんかがお前の存在を無視し始める」
「それって何か変わるのか。赤の他人は最初から俺のことなんか認識してないだろ」
「おっ、お前も賢いこと言えるんだな」
悪魔はにやにやしながら続けた。
「でもさ、例えばお前が電車に乗った時、お前のいる場所に人が来ようとはしないだろ。お前が座っている席に誰かが座ろうとはしない。それに例えばお前に誰かがぶつかったら、そのぶつかった誰かはお前に謝るだろ。それは立派にお前という『存在』を認知しているから起こることなんだよ」
「つまり、あれか」俺はため息をつく。
「俺の座っている電車の席は空のものだと思われるし、通行人も俺がいるところに平気で突っ込んでくる、ということか」
「その通り」
「その認識されないってのはさ」俺は疑問を口にする。
「例えば道行く人をぶん殴ったりしてもいい訳か。そしたらさすがに気づかれないか」
「気づかれない」悪魔は笑う。「そいつらにとってお前は『存在してない』んだ。存在してない奴からどうやってぶん殴られる」
「つまり殴っても無効ってことか。痛くも痒くもない」
「『殴った』っていう事実が成立しなくなるよね」
「俺の手はその人の体をすり抜けるってことか」
「いや、お前から観測すればその他人は殴られて倒れる。ただ、殴られて倒れた人は『何で倒れたのか』が分からない。『倒れた』事実すら認識しない。何事もなかったように起き上がって歩き始めるだろうな」
「ふうん」
何だかつまらない気もしたが、しかしやりようによっては殺人でも暴力でもし放題、ってことか。と俺は納得した。
「じゃあ、例えばその辺の人をナイフで刺しても……」
「刺されたことを認識しないというか、お前の側から観測すれば刺されて血は出るけど、刺された側から観測すると刺されたという事実が成立しないから血も出ないし痛くもない。怪我もしてなかったことになるから素通りだろうな」
「現実世界では何もなかったことになる、ってことか」
さて、と悪魔は羽をぱたぱたさせながら続ける。
「話が大分わき道に逸れたが、今のが第一段階だ。俺に望みを一つ言うと、お前は『赤の他人から認識されなくなる』。では二つ目の望みを言ったらどうなるか」
悪魔はぱらりと『全地獄対応版納税のススメ』をめくった。
「次の段階は『名前もしくは顔を知っている人間から認知されなくなる』だ。お前にもいるよな。名前だけ知ってる奴……隣のクラスのやつとかかな……とか、顔だけ知っている奴とか」
「いる」
隣のクラスにはイケメンがいた。学年でも人気の。名前は知らないが顔は認知している。
「平たく言うと、『顔だけを知っている人』と『名前だけを知っている人』から認識されなくなるってことだ。顔か名前、どちらか一方を知っている、が条件だな。両方知っている人間はこの条件に適用されない」
ぼんやり分かってきた気がした。
「あれか」僕は思い付きを口にする。
「『親しさ』の度合いで判定されているんだな」
悪魔はにやりと笑った。
「お前やっぱ、たまに賢いのな」
それから続ける。
「そうだよ。『親しさ』の度合いだ。第一段階目の『赤の他人』はお前にとって親しくない。第二段階目の『顔もしくは名前を知っている人間』はいわゆる顔見知り程度の親しさ、って訳だ。そして第三段階」
悪魔はまたぺらりと『全地獄対応版納税のススメ』をめくった。
「『顔も名前も知っている人間』から認知されなくなる。お前にとって最大限『親しい』存在だよな。家族とか、友達とか、恋人とか、そして……」
お前とか。悪魔はまた笑った。
「俺」俺は自分を指差す。
「そう。お前も。お前はお前の顔も名前も知ってるだろ。『顔と名前両方知っている人間』に適合する」
そして親しい人間からも無視されて、自分自身すら自分を認識できなくなったらどうなると思う。と悪魔は訊いてきた。
「消えてなくなるんだ。いないのと同じ扱いになる。お前は綺麗さっぱり消える。消えたことすら認識できなくなる」
俺は少し考えた。
「なぁ、その契約って」
おう。悪魔は『全地獄対応版納税のススメ』を開いたまま首を傾げた。
「途中でやめることはできるのか。一個だけ願いを叶えてもらってやめるとか」
すると悪魔は悪そうに笑った。
「できる」
『全地獄対応版納税のススメ』をぱたりと閉じる。
「俺たちからすりゃ、魂を対価にして契約を断られるのより、『存在』の三分の一でも手に入れられたらそれは収入になるからな。ゼロより一だ。そういうことだから、三分割した願いの内一つを言っただけで契約を打ち切ることも、できる」
だが、できるのか。悪魔はそう問うてきた。
「願いが三つだぞ。本来なら、魂を対価にして一つだ。こっちからすると出血大サービスな訳よ。三つだぞ。三つ。何でもだ。そのチャンスをふいにできるほど精神力が高かった人間に、俺は出会ったことがないねぇ」
まぁ、悪魔の誘惑に屈しそうな奴を選んで俺たちも営業かけている訳だが。そんな風に悪魔は笑う。
「まぁ、賢い人間なら一つでやめるか、多くても二つまでなんだろうな」
悪魔は悪い顔をしたまま頷く。
「そうだろうな」
「分かった」
俺は頷く。
「どんな望みでも、叶うんだよな」
「ああ。どんな望みでも、だ」
「いじわるなこととかしないよな。例えば金が欲しいといったら埋もれるほどの札束で窒息死させるとか」
悪魔は笑った。
「しねぇよ。お前の望むまま、お前にとって都合のいい加減で願いを叶えてやる」
俺は深呼吸した。
俺にだって望みはある。俺は勉強も運動もイマイチだ。友達もいないし部活もやっていない。やりたいことや目標もない。そんな俺でも望みはあった。さっきも少し話したが、「やりたい」ことだ。
「俺の望みを言う」
悪魔をじっと見た。赤い瞳。悪魔も俺をじっとも見つめ返して来た。
俺は望みを口にした。
「高畑絵麻を俺の恋人にしてほしい」
悪魔はにやりと……本当に、悪そうに……笑った。
「お前の望み、聞き入れた」
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