こんばんは。先ほど仕事を納めました飯田です。
掲題、約束通り18:30頃投稿いたしましたー!
この作品はミステリーにおける「人間性論」について、僕なりの考えを表現してみたという作品でした。
以下、多少ネタバレあるかもなので未読の方は注意です。
読んでくださった方は分かるかもしれませんが、本作は飯田先生と与謝野くん、それから警察の高崎さん以外、ほとんどセリフがありません。それどころか見た目の描写もないし、紹介はあっても数行で終わってしまう。
ここで唐突ですが、『老人と海』という小説はご存知でしょうか?
この作品、感情の表現や心情描写、そういうのがすごく少ないんですね。
でも老人と魚との、手に汗握る戦いは臨場感がある。
この手に汗握る臨場感の正体について、ある書評家は次のようなことを言っています。
「徹底的に感情の表現を抑圧した結果、まるで判子の文字のように、周りを彫ったことで却ってその文字が強調されるが如く、感情の抑圧が感情の表現につながったのである」
平たく言うと「感情を書かなかったからこそ、感情の表現が豊かになった」という感じでしょうか。
実はこの論について、本日僕の敬愛する陽澄すずめさんのエッセイに似た気づきがありましたので共有します。
詳しくは該当エッセイを読んでくださいな。
『国語の教科書の名作を読む 〜小学校編〜』
一、【小一】はなのみち
https://kakuyomu.jp/works/16818093090146578250/episodes/16818093090146848695「くまさんの感情を表す言葉も〜」のあたり。
本文に一切ないが故に想像が膨らむ、というところ。
まさしく『老人と海』がやったことと同じだと思います。
さて、翻って僕の『五月女宗吾』です。この作品では飯田先生と与謝野くん以外のキャラクター……人間性はかなり抑圧されています。
「書いていないからこそ、好きな人物像を当てられる」
これが僕が「ミステリーの人間性論」について考えた時に出す答えです。
人間性について中途半端に記述して、却ってキャラが駒のようになってしまうのならいっそ、詳細を書かなければいい。書かなければその穴を読者が自然に埋めてくれる。埋めたそれが読者にとっての臨場感、真に迫った表現、理想、になる。
まぁ実際のところ、僕の『五月女宗吾』はその「書かないことによる機能」はやや弱く、僕が考えていたことを表現した作品としてはイマイチ……なのかもしれませんが、題名にもなっているのに徹底的に抑圧された五月女宗吾の雰囲気は、きっと何か感じるところがあったのでは、と思います。
説教くさくていけませんね。本来小説はこういうことを考えずに自由に楽しむものです。なので今こうして書いたこれは、あくまで書き手の自己満足、そう思っておいてください。
さてさて、インフルエンザが流行っているようですが皆さんお気をつけて。
年末か年始かに『あの言葉は胸にあるか』の宣伝でもしようかなー、なんて思ってます。本日更新分もお楽しみいただければ幸いです。
それでは、良いお年をお迎えください!