「女」にも「母」にもなれなかった生物の、悲惨な社会的立場

 この物語は、一人の女性の没落をその主観的な筆致で描き出した短編である。例えば「セクハラ」という言葉が労働の場面で不問視されてきた女性の経験を女性の人権侵害とする認識へのパラダイムシフトとなったように、新しい言葉・概念は、不在化・潜在化されている物事を問題として目視可能にさせる。この物語は、ときに新規に目の当たりにした読者自身の、その精神的な問題の影を再帰的に視ることになるかもしれない。

 ユイの母親の名前が無いので、便宜上「ママ」と表記する(ママの夫は「パパ」、いじめる相手は「相手女性」にする)。ママは、物語の初めのうちから既に、横文字な職業に就き高収入でファッショナブルで美貌がある相手女性に対し、それに比べて夫と子供の面倒に疲弊し経済的に自立できず不細工さに辛がっている自分の惨めさゆえに、強烈な嫉妬心を催していることが明らかになる。もはや、嫉妬するという心持ち自体に自分らしさを見出して凝り執着しているようにさえ見える。
 ママのやり口からは、どことなくパンク・ミュージシャンを思い起こさせる。パンク・ライヴでは物を破壊したり自傷行為したりする行動がみられるが、それによって自分がどれほど真剣に音楽に取り組んでいるかの思いのたけを表現しているのだ。それは同時に、結局のところ真剣さ以外に、例えばそのミュージシャンならではの他者の音楽とは違う独創性といった、自分の思いを他者へ訴求する手段を見出せていないという欠陥を披露してしまっていることでもある。ママも、ママ友の意向(と思っている意向)に同調し、そして自分がどれほど憎たらしく思っているかということをその真剣さにかけてアピールしているし、また真剣さしか自分にはないんだと実はとっくに思い知っているのだろう。また、物語では個人のみに支えられ社会的妥当性の精査を受けていない価値観に盲従しているこういった人間の醜悪さをねっとり描き出されるために、余計にダメ人間の卑しさ情けなさをえぐり出されている。だから読むと、なるほどママはクズだ、と大概の読者は説得される。

 なぜ、ママはこれほど執着するのか。何に、セルフ・エスティーム(自己肯定心)の裏打ちを見出しているのか。

 ママは、おそらく専業主婦だ。第1話にママの身分での労働の話が少し出るが、これは恐らく(ママが主観的にみた)一般の労働の話であり、不平不満まみれなママにすればしんどい思いで肉体労働するより家に居た方がマシだと自愛しているのかもしれない。なら、専業主婦に現時点での最も快適な環境を設定していて、そうあることに裏打ちがあるのだろうか。
 女性と社会進出についてだが、実際は、女性が家庭に居た時間の方が短い。ここでは簡単に近代以降の話をする。日本の専業主婦家庭の原型は大正期の新中間層にあるとされるが、それは当時の人口の1割しかなく、かつそこには女中が居るので、主婦がすべての家事を引き受ける存在ではなかった。女性は労働力であり、特に大東亜戦争中は前線に召集された男性労働力を補うために女性が動員されていた。また、例えば日本キリスト教婦人矯風会は「東亜の盟主たるには淫蕩気分を一掃することが急務」という純潔報国運動を展開するなどをして、婦人団体は積極的に戦争協力を行うべく街に出ていた。内容の是非はともかく、ある意味社会進出していた(社会に出て活動することそれ自体が快かったのだろう)。一方、戦後男性が前線から帰還し高度経済成長期に向かっていくことで、女性が労働しなくても家庭の経済が自立可能になると、女性はむしろ家庭に入ってゆく。専業主婦規範を持つ戦後家族モデルのことを「五五年体制家族」というが、それを念頭にすると、専業主婦という生き方は数十年程度の歴史しかない。そして専業主婦には、1982年米映画『トッツィー』にも描かれたように、家庭に入れられたことで孤独感・退屈さや自分は一体何なのか?という自分探しに襲われるという固有の生き難さの縛りがあった。こうしたことから、女性は次第に労働を通じて自分の人格を取り戻そうとし始めていくこととなる。それはやがて1986年に男女雇用機会均等法の施行などを追い風にしていく。
 だが、金井淑子『依存と自立の倫理』によれば、女性の職業は女性内部の階層分化を推し進める社会によって多様化したが、それが女性の新しい問題をもたらしたという。まず女性内部が格差化することで、パートナーとして選ぶ男性との組み合わせ次第でカップル間の所得格差序列を産み出し、それがそのまま次世代の再生産コストの格差化を導いて格差社会が固定化する。また、キャリア志向で生きる女性や就労の機会がなくて将来の展望もない非正規職等の女性が、ともに「女性の幸せ」にきつさを感じて精神を病む兆候が表出している。だから、金井は女性が自らの性と身体に対するセルフ・エスティームを育み、社会的な主体化を図る動きに期待している。
 ママが専業主婦ということは、言ってしまえば「健康的で文化的な最低限度の生活」を送れはするのだが、構造的に生き難くなってしまうようになる。それは自分探しの問題もあるし、自立支援対象者としての社会的立場の低さという問題もある。かつママは労働を拒否しているから、自立ができず家庭内の所得格差序列は固定化される。従って、ママにとって専業主婦は実は全く快適な環境ではないのだが、そこから抜け出す手段をも拒否している以上、自己評価を常に低く見積もらざるを得ない。これはひどい状況だ。

 犯罪学者レヴィンとフォックスは『殺し過ぎた人々』にて、無差別大量殺人を引き起こす6つの要因を紹介した。この物語に無差別大量殺人は無いが、関係がある2つの要因、すなわち「長期間にわたる欲求不満」と「他責的傾向」を取りママを考えてみよう。
 欲求不満と抑うつ気分を長期間抱えている人々は自殺について思い巡らすことの方が多いはずなのだが、ママが逆に他罰的な攻撃という形で外部に向かうのは、個人的な失敗を他人の責任にして非難する他責的傾向を持つからだ。失敗の責任が決してママ自身にあるとは思わず、常に他の誰かが失望の原因になっていると感じており憎悪の念を抱く。他責的傾向というのは強すぎる自己愛に由来しており、空想の中で育まれた自己愛的在り方である「イメージ上のママ」と、低い自己評価しか持てない卑小な「現実のママ」との乖離を受け入れられない。こうした自己愛的万能感と自己評価との深刻な乖離は、思春期・青年期にしばしば見受けられるが、通常は自己の社会的妥当性を獲得していくなかで自己愛を諦めながら修正して、成熟して大人になる。ところが犯罪者はこの過程を頑なに拒否し、さらに自分の中にある認めたくない資質・欲望などの内なる悪を自身が引き受けることに耐えられず、外部に投げ捨てて他者へ転嫁しようとする投影が起こるという。ママによれば昔ピンクのスーツをパパに選んでもらったそうなので、それなりに美貌があったのだろう。ピンクスーツを着こなす位の容姿と自己愛を若年期に抱えたままで、専業主婦となって社会に修正される機会を逸した結果、現在に至ったのだ。

 客観的な立場で観察可能な読者からすると、いかにも自己中心性を肥大化したようにこじらせてしまった社会的騒音女による救助困難な奇行録を見させられているような気分かもしれない。しかし、よく読むとママ友たち周辺人物の日頃からの思想にママ自身も同調し、それによって仲間外れにされ人間関係に軋轢が生まれないように振舞っていく中で、いつしか周辺の思想をまるで自分が自立的に考えた思想であるかのように刷り込まれてしまった結果のようにも読める。それに、ママが専業主婦という在り方に少なくない不満を抱いている以上、専業主婦それ自体がママ自身の守りどころなのかというと弱い。ママのセルフ・エスティームの根拠に、私はまだ何となく違和感を覚えた。

 ママは、いったい何にこだわっていたのだろうか。

 先ほど女性の近代以降の社会進出について少し触れた。そもそも近代以降の社会が女性に求めた役割といえば、それは「男性の性的対象であること(娼婦=女)」と「人の世話をして家庭を守ること(母)」の二つで、これを一人の女性に同時に求めたのが「ロマンチックラブ・イデオロギー」だった。ロマンチックラブ・イデオロギーは18世紀から19世紀にかけて発生した性規範で、「愛情規範」が関係を支える基盤であるゆえに制度的基盤としてはきわめて脆弱だという欠陥を持っていたのだが、ともかくこのイデオロギーは近代以降の資本主義経済界の機械的労働力を一定して確保したい欲求と純潔さを貴ぶキリスト教的倫理観とに合致した。その「恋愛の対象=夫婦のパートナー」というイデオロギーは、しかし女性にとっては矛盾の内在化に作用した。矛盾とは、「女」と「母」との役割の違いである。
 女性に「母」と「女」であることを同時に求めるということは、仮に欠点のない「母」になろうとするならいやらしい「女」の側面を拒否しなくてはならないが、「女」の側面がなければそもそも女性としての魅力がないと思われ男との婚約の障害になってしまうし、「女」としての魅力を維持し続けようとすればすなわち「母」の役割を演じられないことになる。だからといって女性の武器である身体を存分に発揮する「女」になりきろうとすると、あばずれ的なイメージがその個人を表すパーソナリティとして承認された時点で「母」になれず、家庭を築くことが認められなくなるのだ。
 こういったダブルスタンダードは、大真面目に実行しようとすれば身体が持たないが、社会がそれを要求する以上は応える努力を示す必要があった。社会から承認されなければアイデンティティーを確立できないからだ。とはいっても完璧に応えようとすると身が亡ぶ、かといって完璧になれない自分の無能力さが嫌いになる。こうして「ミソジニー」が誕生した。ミソジニーとは、女性らしさに対する蔑視的価値観のことをいう。

 ママを「女」と「母」からみると、わりとそこに揺れていたことが解る。本音では「女」であり「母」でもありたかったのだろう。ママには、出産で体形が崩れファッショナブルではなくなり相手女性の美貌をうらやむ「女」、パパの傍にいてユイの面倒を見ることを自分の仕事だと思っている「母」が居た。よき「母」になりたいと思っても経済的に自立できていないという現実、しかし「女」になることも出来ていないとあって総合的に自己評価が低い。となると、自己愛と併せて横文字職業の美しい相手女性よりも自分の方が上だと、手札が少ない中で逆転を狙いたくなる気持ちに至る。そういうパンク的真剣さ・無敵の人のような背水の陣構えは、開き直ったセルフ・エスティームである。それに、ただ上のマウント取りをしようとしたのではない。ママのやったことは、社会進出した女性なんかよりも家庭があり子供がいる(古き良き)女性が上位に置かれるよう価値観を逆転させようとする試みなのだ。
 だがその試みは、ロマンチックラブ・イデオロギーというママにとって最も是正しなければいけないところを是正せず、ママか相手女性のどちらが上かという凄くどうでも良いところだけを取り上げようとする極めて皮相な抵抗運動だ。そもそも、逆転するのは自分の世界の中だけでしかないので、社会的妥当性も他者からの承認などもなく、仮に逆転できたとしてもその効果が長続きすることはない。皮肉なことに、あとで関わるPAC職員や裁判官などの重要人物はみな女性で、従ってママが見る敵は相手女性だけじゃなかった。「女」になれず、そしてマウント取りのためにユイを使役することによって「母」をもとうとう自ら捨てたママは、かくして遂に崩壊したのだ。

 他方、ユイやパパはどうだろう。ママは制裁されて、対照的にユイとパパは新たな幸せを自立的行動で手に入れた。このことから、一見ダメママへのざまぁ物語に見える。だがユイとパパ自身が、望ましい妻・母像の根拠として、たんに軋轢を自ら作るような迷惑女じゃない人間とは別に、ロマンチックラブ・イデオロギーが無いとは限らない。「母」というのは、近代以降の資本主義社会とキリスト教的倫理観にとっては使い勝手が良い存在ではあったのだし、女性の社会進出が進むのに未だに実質的な男女平等が成し遂げられないのは、経済構造が情報社会化しきれていないからだ。ここでもしパパがプレモダンな雇用形態を自明な前提にしてでもいたら、この物語をもう一回ほど繰り返す羽目になるかもしれないのだ。

 何をもって「女性らしい」なのだろうか。髪の長さや家事の上手さなどは社会的慣習/規範(ロマンチックラブ・イデオロギーというひとつの価値観)の問題であって、そこに生物学的な根拠はない。社会において、社会的/文化的に形成された性別に関する知識を「ジェンダー」と呼ぶが、ジェンダーという視座を用いると、ママの抱えている問題が実は社会的な問題でもあるということが見えてくる。だがあくまで、自己愛や他責的傾向が社会的な問題のせいだと投影の材料に使うことは誤りで、それは個人の自立した人格に課される責任だ。そうではなく、ママが嫉妬する苦悩の興発、ロマンチックラブ・イデオロギーが、完全に個人の資質のせいに帰せられるのかに疑いを持つ。
 人間は、社会に流通したジェンダーに基づいて自分や他者を眺め、世界を定義し生きていると同時に、そうした知識に縛られ生き難さを感じることもある。だがジェンダーは社会における性差を含む男性・女性のありように関する知識が如何なるものかを分析的に明らかにしようとする概念装置でしかないので、性差を否定するとは言わない。金井が期待をしているように、現在進行中でジェンダー問題が起こっている以上「男性・女性は平等だ!自由だ!」といったところで、それは形だけのパフォーマンスだということに注意しよう。
 C.W.ミルズ『社会学的想像力』にて、自己と世界との相互浸透を把握するのに欠くことの出来ない精神の資質を、社会学的想像力といった。一見すると個人の問題に見えることは実は社会の問題かもしれず、しかし全てを社会の問題にしても社会構成員に個人が含まれるからには個人も変わらなくてはならないのだ。

 物語世界には、親査定委員会(PAC)なる組織があり、親が親たる資質を審査し不適格の場合には矯正プログラムへ研修送致される。読者の中には一種のディストピアを見る者も居るかもしれない。だが私は、これはこれで良い世界なのでは?と思った。親が断罪されても、完全に突き放されるわけではなく、福祉に入れられる。子供は親を選択できるので、DVの発生件数が削減されてアダルト・チルドレンも減少するだろう。また、親査定にあたって子供の人格を認めているので、仮に子供が犯罪を犯したとしても恐らく少年法が無いか現行よりかなり制限されているだろう。少年法は18歳より下の年齢の場合は刑事罰の軽減を認める刑法のことだが、人格を認めるということは人格の責任能力を認めることにもなりうるからだ。少年法を後ろ盾にした甘い判決を与え、悪い子供を再び野に放つ時期の迅速化が押しとどめられることになる。
 物語の世界が良い世界なのかもしれない。だが物語の演出は決して読者に甘い訳ではない。最後まで、ママの名前が明らかにされることはなかった。それは、女性一般(あるいは男性も)、特に誰かの親である者にあるかもしれない「ママ」を、読むことで再帰的に確認させる効果を発揮するからだ。物語は、読者に問いかけてくる。

「自分は、ほんとうに子供の親?」