冴返る[さえかへる:初春]

 花魚かぎょの取材に来てこんなにも地味な魚と出会うとは思わなかった。清潔な白いプールを泳ぐのはなんとも曖昧な薄灰色ばかりだ。その驚きを伝えると、社長は愉しげな笑い声をあげた。

「色を出すには手順があるんですよ。具体的には気温の変化。細かい設定は企業秘密ですけどね」

 言って、網で数匹をバケツに移す。連れて行かれたのはさきほどよりも小さな部屋だ。中央にガラスの水槽、周囲の壁に計器類やスイッチの数々。そして、とても寒い。

「出荷までにはひと月ほどかかります。ご覧になるでしょう? ところ」

 私は深くうなずいた。見せてくれるものなら、はじめから終わりまで全て見たい。


 ただ観察しているのは辛抱がいる、と気付くまで、いくらもかからなかった。灰色の魚は少し色が濃くなった気がする程度。水槽にさしたる動きもなく、部屋はひたすらに寒かった。どこで売っているものやらわからない分厚くやぼったい上着を社長に借りてもなお震えがくるほどだ。人間の生活する気温ではない。

 それでも耐えているうちに、刺すようだった冷気が日々和らいでゆくのがわかった。暖かくなれば花魚は色づくのだろうか。社長は詳しいことを話してくれない。


 私物の上着に変え、重ね着していたセーターを脱ぎ、このまま適温にとどまるのだと思った。ふたたび冷え切った部屋に私は裏切られた気分になる。

 もうここまで来れば意地だった。セーターを着込んで部屋に通った。そしてまた、寒さがゆるむ日が現れた。


 私は上着を脱ぐのも忘れて水槽を見た。花、という名にふさわしく薄紅色の体をくねらせて、魚は泳いでいた。

「春はまっすぐにはやって来ないのですよ」

 社長が柔らかく声をかけてくる。

「春ですか」

「季節の一種です」

「それくらいは存じております。花魚と関係が深いんですね」

「花というものは春によく咲いたそうですから」

「でも、魚は花じゃないでしょう」

「だからこそ認可されています」

「ではなぜ」


 社長はあくまで穏やかに答える。

「魚も過去を懐かしむのかもしれませんね」

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月刊季語掌編 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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