終章

第二十三話

 小さな村で起こった大量失踪事件は世間を賑わせた。だが、山の中で消えた人間の死体は出てこない。目撃者は支離滅裂な発言をしており、まともなことを言う者はいない。

 あの日、全てを目にした者は、皆、口を閉ざした。

 その事件は一年も経たずして、人々から忘れ去られた。


 伊織は事件に関わり心の傷を受けた、と周りが勝手に判断した。伊織は心療内科に通うこととなる。押しつけがましい親切。だが、伊織が心を病んでいたのは確かだ。

 うつ病という病名がつき、カウンセリングを受け、抗うつ剤を処方された。ありがたいことに効果はあった。

 伊織は家を離れることにした。

 高校は中退したものの、高卒認定を取り、二年かけて地方の大学に受かった。

 家を離れ、一人暮らしが始まると、伊織の心は軽くなり、薬の量も減った。

 大学生活は充実したものだった。興味のある分野を勉強した。友人とはしゃいだ。恋もした。

 父母とも時折電話をした。もう元には戻らない。だけど、ぎこちない新たな絆が生まれているのを伊織は感じていた。

 

 三回生も終わりに近づいてきた。友人と本屋で就活本を立ち読みする。

「就活も、卒業論文も嫌だよね」

 伊織はそれに同意し、苦笑いした。

 普通とは何だ。

 未だに伊織は問い続けている。

 高校を中退し、周りより二年遅く大学に入った伊織は、就活の場ではやはり異常だった。普通ではないその点は、しばしば面接で追及された。

 大学へ行き、就活をし、内定をもらい、就職する。

 それが、周りの普通だった。伊織も例にもれずそれを目指した。

 会社説明会に赴き、エントリーシートを書き、何社か面接までたどり着いた。だが、どれも不採用だった。

 必死になって、就活をする中、伊織はふっと思い出した。

『ただ、幸せになればいいんだよ』

 あの日の言葉を。

 ある就活イベントの日だった。スーツをまとった伊織は、目的地と逆方向の電車に飛び乗る。現実逃避だと分かっている。だけど、何かを思い出したかった。

 懐かしい田舎町。電車とバスを乗り継ぎ、やっとの思いで山の麓まで来た。ヒールのある靴で山道を歩くのは辛い。パンプスで来た己を呪った。

 途中から道が分からなくなった。当然だ。あの夏からは時間が経ちすぎている。引き返そうとした時、ふっとカイナの言葉が頭を過った。

『いざとなったらGPSがあるからね!』 

 伊織は鞄からスマホを取り出す。電波は辛うじて入っている。航空写真から平屋の家を探し出し、伊織は地図を頼りに歩き出した。

 三十分ほど歩いた。つづら折りの坂を上り、落ちたらただじゃすまないだろう道を行き、そして、見えてきたのはコンクリートの下り坂。

 あの頃と変わらず平屋の家は建っていた。

 伊織は目を瞠る。

 人の住まなくなった家は瞬く間に傷むと聞いたことがある。だが、岩森家は以前と変わらずそこにある。荒れた様子もない。

 伊織は靴擦れした足で、一歩一歩前に進む。玄関まで来た。そして、ぞっとする。

 嗅いだことのある不快なにおい。死臭だ。

 腐った怪異、化物がそこにいる。

 伊織は後退った。玄関扉が開く。伊織は身を固める。

 だが――。

 扉の向こうの彼は目を見開き、その左腕はピンっと背を正した。

 直弘とカイナがそこにいた。

 カイナの腕には古くはなっているが昔のようにストラップの付いたスマホがぶら下がっている。そして、文字を打ち込み、直弘と共に言った。

「『おかえり』」


 伊織は大学を卒業し、在宅ワークの道を選んだ。今日もお家でデータを打ち込む。

 玄関扉が開く音。漂う死臭。

 伊織は長袖Tシャツにジーンズ、そして、手袋、頭にヘルメットをかぶり、玄関に出る。

「今日は何を食べてきたんですか?」

 伊織の問いにカイナがスマホを打つ。

『人間』

 伊織は固まった。直弘が笑う。

「あはは。カイナ、意地悪しちゃだめだよ」

 どうやらカイナの悪い冗談だったらしく、食べたのは猫と鹿のようだ。猫だけでは満たされなかったとのこと。

 相変わらず慣れることはできない。伊織は引きつった笑みを浮かべる。

 直弘とカイナは化物となった。だが、腐った怪異である化物は、イキモノを口にさえすれば自我と形を保てるらしい。

 直弘とカイナは森にいるイキモノを食べ、ここに住み続けていた。

「なんだかね、また伊織ちゃんが来てくれるような気がしたんだ」

『そんなの頑張っちゃうよね!』

 どうやら二人は伊織を待っていてくれたようだ。

 伊織のジーンズに頭を擦りつけるものがいる。しらうさぎだ。

 伊織は土間に降り、冷蔵庫から生の鰆を取り出し、皿に乗せ、しらうさぎに差し出す。しらうさぎは瞬く間に黒い泥に変わり、鰆を丸呑みした。そして、また、白く愛らしいものに戻る。

 そのギャップに伊織は苦笑する。

 やはり、腐った彼らにとってイキモノは美味しそうに見えるらしい。そのため伊織はいつかの真のごとく、彼らと会う時は、全身を覆いヘルメットをしている。

 彼らは三日に一度、この家に帰ってくる。三日間、彼らが何処で何をしているか伊織は知らない。

「伊織ちゃん、電話鳴ってるよ」

 お家の直弘からスマホを受け取り、伊織は外に出て、ヘルメットを外す。

 母からの連絡だった。

 近況を報告し、世間話で笑いあった。そして、母が問う。

 ゴールデンウィークには家に帰ってくる?

 伊織は断った。

 母は残念そうに言った。お父さんも楽しみにしてるのに、と。

 申し訳ないが帰ることはできない。伊織は電話を切った。そして、手袋をそっと外し、腕に顔を近づける。

 死臭がするのだ。

 風呂に入っても消えなくなった。きっと腐った怪異に関わりすぎたのだろう。

 お家に戻ると、直弘が困ったように笑い、カイナがスマホを差し出してきた。伊織はそれを覗き込む。

『今なら引き返せるよ』

 伊織は息を呑んだ。

「伊織ちゃん、このままだと――」

 直弘の言葉を遮り、伊織は首を横に振る。

「いいんです」

 伊織はもう一度言う。

「ここが、いいんです」

 それが伊織の答えだった。


 三年が経つ頃には、空腹を覚えなくなった。もう、死臭も気にならなくなり、ヘルメットも、肌を隠す装いもしなくなった。

『でも、イキモノ食べなくていいの?』

「はい。お腹空かないんです」

 伊織はカイナと共に首をかしげた。直弘が笑う。

「伊織ちゃんは新種の怪異だね」

『強そう!』

 足元でしらうさぎがぴょん、と跳ねた。

 両親や友人とは未だに連絡を取る。

 友人は皆、昇進したり、結婚したり、子供が生まれたり。

 いわゆる普通の人生。

 羨む気持ちがないとは言えない。だけど、それを目指したいわけじゃない。

 普通は幸せの象徴だ。

 そう信じてた頃を思い出す。

 普通になりたい。普通が羨ましい。

 それは、普通でないと誰にも理解されないから。

 伊織はしらうさぎを撫でながら思う。

 普通とは何か。それは多くの人から共感を得られる、そういった、人、物、人生。

 誰にも理解されない。それは、酷く不安なことだ。 

 腐った怪異に囲まれ、己もナニカに変質してしまった。いつか自我を失い、泥に還るかもしれない。

 それでも幸せだ。

 それは、どう見ても普通ではない。誰にも共感は得られないだろう。だけどいいのだ。


 私がなりたいのは普通ではなく、幸せなのだから。

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異類婚の番とノーマルな私 針間有年 @harima0049

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