第二十二話

 騒々しい足音がする。開け放たれていた玄関扉から彼は駆けこんできた。

「直弘!」

 真だった。ヘルメットも全身覆われた服も来ていない、Tシャツにジーンズ姿の普通の中年男性。

 直弘は軽い足取りで、真から距離を置く。伊織はぞっとした。真から腐った怪異が放つ死臭がする。伊織は逃げるように壁際に寄る。

「真、どうした――」

「直弘、頼む! どうにかしてくれ!」

 直弘の声を遮って、真が叫ぶ。

「来たんだ、突然、急に! 喰われる、喰われちまう!」

 取り乱す真の後ろから更に人がやってくる。一人、二人、三人、四人――。数が増えていく。皆、一様に顔を青くして、何かから逃れるように走ってくる。

 黒々と艶のある巨体。血管に似た筋が張り巡らされた心臓のような化物。

 伊織はそのにおいに口元を覆った。

 おひまさまだ。

 逃げ惑う人々におひまさまは手を伸ばす。文字通り、その塊から手を生やし人を掴むのだ。そして、ずるずると己の方へ引きずり、呑み込む。

 おひまさまは逃げ惑う人々をいたぶるように、一人ずつ呑み込んでいく。

 二人の人間が、もう逃げられない距離までおひまさまに近づかれた。一人の人間が隣の人間の脚を引っかけた。一人はこけた。一人は家に走り込んできた。

 おひまさまに捕まった一人の人間。前を行く人間の腕を掴んだ。掴まれた人間は、掴んだ人間を殴り、蹴り、喚きたてた。だが、その手が離れることはなかった。二人の人間が呑まれていく。

 伊織はその様をただ茫然と見ていた。

 十数人いた。だが、家に入ってこれたのはたったの五人だった。

「背を払って言うんだ。おひまではありませんって」

 直弘の指示にパニックになった人々は素直に従う。おひまさまは目前まで迫ってきていた。直弘が放つ。

「おひまではありません」

 そして、扉を閉めた。伊織は息をついた。これで、おひまさまは引いてくれるはずだ。

 だが、死臭はやまない。扉の外に何かが蠢いている。おひまさまは帰っていないのだ。

 伊織は思わず直弘とカイナを見た。それは他の人間も同じだった。彼らは口々に言葉を放つ。

「あれを呼び寄せたのはあんただよな?」

「化物扱いして悪かった。悪かったから何とかしてくれ」

「これから、あんたのことを認めるから、どうか、どうか」

 後の声は重なってよく聞こえない。

「なあ、直弘!」

 特段大きな真の声に辺りは静まる。

「頼む、頼むから! お前だったらなんとかできんだろ⁉」

 直弘は首をひねる。そして笑った。

「僕にはどうしようもないなぁ」

「そんなはずないだろ⁉」

「だって、おひまさまが来たのは僕のせいじゃないからね」

 直弘の瞳が弧を描く。

「真のせいだから」

 真の体が強張った。直弘は言う。

「伊織ちゃんに聞いたよ。真、おひまさまに何人も何人も食べさせたんでしょう?」

「ち、違う」

「嘘はよくないよ」

「違うんだ!」

 真は早口でまくし立てる。

「勝手に、勝手に喰われたんだ! 俺のせいじゃない、俺がやったわけじゃない! 違う、違うんだって! なあ、直弘。信じてくれよ!」

 彼は縋るように直弘を見た。

「俺ら、友達だろ?」

「うん、そうだね。だから知ってるよ」

 直弘はにこりと笑う。

「真がどれほど康樹君が嫌いだったか、母親が嫌いだったか、村の人が嫌いだったか」

 それとね――。

 直弘は笑顔で言う。

「自分の罪を僕らに押し付けていたことも知ってる」

「え」

「ねえ、僕らが喰ったとずっと思ってたんでしょう?」

 直弘の顔が逃げ延びた五人に向く。彼らの体がびくりと跳ねた。そして、一人が口に出す。

「そうだ。真から聞いたんだ」

「真が、直弘だったものが人を喰らってるって」

「俺はそれを見張ってるって」

 真の顔から血が引いていく。

「や、やめろ。ち、違うんだ。直弘……」

「いいよ。僕は気にしてない」

 カイナがスマホに文字を打ち込み、直弘に見せる。直弘が笑う。

「カイナはご立腹だね」

「ひっ」

 拳を握り締めたカイナの動きを見て、真が悲鳴を上げた。

 どん、とくぐもった音が轟き、建物が揺れた。何かがぶつかってきたような。何か、いや、おひまさまだろう。

 直弘は玄関の扉を見つめる。

「真、おひまさまに好かれちゃったんだね」

「好かれた……?」

「真に付いていけば美味しいものが食べられる、きっとおひまさまはそう思ったんだ」

 真に視線を移し、直弘は言う。

「それにね、真はもうとっくにおひまさまの仲間なんだよ」

 人々が真から身を引いた。真は唖然としている。

「何? どういうことだ?」

「怪異を腐らせる体質。それはね、真が腐ってるからだよ」

 伊織はハッとする。腐った怪異に触れると怪異は腐ってしまう。

 真から漂う死臭。人間でありながら腐った存在。

 いつか直弘が言っていた。真が怪異を腐らせるもう一つの理由。それは――。

「真はおひまさまに関わりすぎた」

 扉ががたがたと音を立てる。

「長くはもたないだろうね」

 直弘はカイナの方に目を向けた。カイナは手首を折って返事をした。真が地面に膝を付き、首を垂れる。

「直弘、悪かった! 悪かったから、何とかしてくれ! 頼むから、頼むから!」

 直弘とカイナがふっと振り返った。

「伊織ちゃん、見てごらん」

 伊織は直弘の視線を追う。そこには真がいる。

「伊織ちゃんの目には真がどう映る?」

 カイナがスマホに文字を打ち込む。

『仕事をして、妻子がいて、健康で、死にたくないと思っていて。ねえ、伊織ちゃん』

 カイナがまっすぐ伊織にスマホを差し出す。

『普通ってなんだろうね』

 伊織は答えられなかった。

 もう一度、真を見る。真は伊織の思う普通の人間が持つものを全て持っている。だが、目の前にいる彼は果たして普通なのか?

 また、建物に衝撃が走る。真が涙と鼻水に濡れた顔で直弘に叫ぶ。

「助けてくれ! 何とかしてくれ!」

「うん、分かった」

 直弘が答える。

「もうこれ以上犠牲を出さなかったらいいんだよね」

 そして、カイナに向かい合い互いに頷く。

「だったら仕方ないね」

 その諦めたような口調に伊織の心臓が跳ねた。たまらなく胸がざわついた。

 彼らは伊織に向き合った。カイナがスマホを打つ。

『伊織ちゃん、おいで』

 そして、二人は腕を広げた。

 伊織はそちらに行こうとした。ふっと手首を掴まれた。振り返れば父だった。

 父は青い顔で黙って首を横に振った。その目は伊織を映していた。伊織を引き留めるようなその手。嬉しかった。

 だが――。

 伊織はそれを振りほどき、二人の胸に飛び込んだ。

 直弘とカイナが強く伊織を抱きしめる。

「伊織ちゃん、ありがとう」

 直弘が言った。カイナのスマホの文字。

『ここに来てくれてありがとう』

 伊織は首を横に振る。

 ありがとう。その言葉を伝えるべきは己だ。なのに、声が出ない。涙が溢れて、零れるのは嗚咽だけ。

「とっても楽しかった」

『本当に楽しかったんだ』

 伊織は二人の腕の中で泣きじゃくる。

「伊織ちゃん、普通になんてならなくていいよ」

 直弘の声に伊織は顔を上げる。

『普通になんかならなくていい』

 カイナが直弘にスマホを見せた。直弘が頷き、にっこり笑う。そして、二人は伊織に向けて言葉を放った。

「『ただ、幸せになればいいんだよ』」

 直弘とカイナはもう一度強く、伊織を抱きしめた。その手は冷たく人間のものではない。だけど、どこまでも温かい。

 二人が伊織を離す。玄関の扉は外から押され、変形し、今にも突き破られそうだ。

 そちらに足を進める二人。伊織は直弘の着物の袖を掴む。直弘は首を横に振り、カイナが伊織の手を優しく解いた。

「真、行こうか」

 直弘が笑みを浮かべる。玄関の扉が破られた。カイナがその手で、真の肌の出た右腕を掴んだ。その瞬間、二人は溶け出し、腐った。

 黒い泥となった二人は、真を飲み込んだ。あまりに一瞬の出来事。真は最後の言葉を残すことすらできなかった。

 肉を断ち、骨を砕く音を上げ、血を零しながら、二人だったモノはおひまさまに還っていく。そして、おひまさまは、どくん、と一回脈を打つと、森の方へ帰っていった。

 誰も何も言えなかった。ただ口をぽかんと開けていた。

 ただ、伊織だけは違った。泣きながら笑っていた。

 もう何も分からない。

 真は普通だった。あまりにも普通だった。

 仕事をしていて、社交的で、家族仲も良い。

 伊織は異常だった。誰から見てもそうだった。

 学校へ行っていなくて、引きこもりで、家族と仲が悪くて、人殺しだと言われている。

 なのに、真はおひまさまに人間を喰わせていた。伊織は誰も殺していなかった。

 真は普通か? 伊織は異常か?

 普通とは何だ?

 分からない。何も分からない。だが、たった一つだけ、はっきりしていることがあった。

 直弘とカイナ。怪異の二人と共に過ごした異常でおかしな夏。

 とても、幸せだった。

 そう、普通と幸せは何ら関係ないのだ。

 伊織の瞳からとめどなく涙が溢れた。

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