第二十一話

 次の日。

 直弘とカイナが作ってくれたご飯を食べ、三人でお茶を飲み、読書をする直弘の傍らでカイナとスマホゲームをした。

 あまりに穏やかな一日だった。

 伊織は生涯、この日のことを忘れることはなかった。

 

 陽が上る。そして、終わりが来る。

 叩かれる玄関扉。

「開けなさい」

 父の厳かな声。直弘が立ち上がる。伊織は震え、膝を抱えた。そんな伊織にカイナはスマホを見せる。

『大丈夫だよ』

 ただの文字の羅列がこんなに頼もしく見えたことはなかった。

 扉が開く。父は言う。

「伊織は何処だ」

「お家にいるよ」

「そうか」

 それだけ言うと、父の足音が近づいてくる。伊織は部屋の隅に身を寄せる。

 直弘が彼を呼んだ。

「兄さん」

 父の足は止まった。直弘は続ける。

「僕から、そして、カイナから、言いたいことがあるんだ」

 父の苛立った声。

「今はそんなことより」

「そんなこと?」

 直弘の鋭い声。

「聞けよ。兄さん」

 伊織は耳を疑う。直弘の声とは思えないくらい重く低い声。

 直弘は打って変わって棘のない声で話し出す。

「兄さんがどうして僕らに伊織ちゃんを預けたか、カイナと考えてたんだ」

 伊織は息を呑む。そんなの決まっている。

「母さんを殺した手に余る子だから。でも違うね?」

 弾かれたように顔を上げた。それ以外に何があると言うんだ。

「伊織ちゃんが苦しんでるのを見ていられなかったんだろう?」

 伊織は黙って言葉の続きを待つ。直弘は淡々と述べていく。

「母さんを呼び寄せて、娘を苦しめた自分を認められなかったんだろう?」

 いや――。直弘が言った。

「認めたくなかったのか」

「お前に何が分かる」

 押し殺した父の声。直弘は笑った。

「あはは、そうだね。僕らには分からない。ただ、僕らにも分かることはあるよ」

 彼は放つ。

「伊織ちゃんは母さんを殺していない」

 はっきりとした声だった。

「兄さんだって知っているはずの事実だ」

 沈黙が訪れた。

 伊織は唖然とする。

 どういうことだ?父は己が人殺しでないと知っている?

 伊織は思わずお家を飛び出した。靴を履き、直弘と父がいる土間へ。父が目を見開く。

「伊織」

「知ってたの?」

 伊織は父に問う。

「私がおばあちゃんを殺してないって知ってたの?」

 父は黙った。

「じゃあ、なんだったの? 私の苦しみは何だったっていうの?」

 ああ、もう止められない。

 伊織は悟った。今までため込んできた感情が破裂する。

「どれだけ苦しんだと思ってるの?」

 父は何も言わない。目を逸らすだけ。それが腹立たしくて、伊織はぶちまけた。

「確かにお父さんは私が殺したとは一言も言わなかった。だけど、目を逸らして、話さなくなって」

 伊織の声は荒くなっていく。

「怖かった。たまらなく怖かった。私はもう人殺しなんだって。どう頑張ったって、もう異常な人間なんだって。普通には戻れないんだって」

 父は顔を上げない。伊織の目に涙が浮かぶ。

「自分のせいだって思った。私が学校に行ってなかったから、おばあちゃんを家族として受け入れられなかったから、頑張ってないから、弱いから、だから誰も信じてくれないんだって」

 涙が頬を伝う。そして、叫ぶ。

「知ってたなら知ってたって言ってよ! ねえ、私、普通でいたかったの! 学校へ行って、夜も眠れて、死にたいなんて思わなくて、家族のことが好きで、憎しみなんて持たなくて!」

 もう何が言いたいか分からない。ただ、一つ言えることがあった。

 伊織は俯き、呟く。

「普通は幸せの象徴なんだよ」

 吐き出した言葉。

「もう、私は幸せになれないんだよ」

 伊織は口を閉じた。言いたいことはまだあった。だが、もう、疲れた。

 訪れたのは沈黙。

 父は何も言わない。ただ、呆然としているようだった。

 伊織もまたぽかんとし、思わず笑ってしまった。父が何か言ってくれることを期待していたのだ。そんな伊織の背をカイナが撫でた。

 直弘が零す。

「普通の人間、か」

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