第四章 ふつうのにんげん

第二十話


 伊織は何処にでもいる普通の少女だった。

 身長、体重、成績、どれも平均前後。友達も多いわけじゃないが少ないこともない。家族仲が良く、時に悩めど、それなりに楽しんで生きていた。幸せだったのだ。

 狂い始めたのは一昨年。

 伊織の祖父が死んだ。祖父と二人暮らしだった祖母は独りになった。父はそれを心配した。そして同居を決めた。

 折り合いの悪い母と祖母。祖母は母の悪口ばかり言う。母は我慢するだけ。

 勿論、母は反対した。伊織は祖母に嫌われてはいなかった。だが、愚痴や噂話ばかりの祖母があまり好きではなかった。なにより、母と祖母が共に住めるはずがない。伊織も反対した。

 そんな二人の反対を押し切り、父は強引に祖母との同居の計画を進めていく。母はそんな父に呆れ、何も言わなくなった。

 嫌な予感しかしなかった。伊織は父に必死に訴えた。

 母と祖母の不仲は知っているはずだ。険悪になるのを分かっていてどうしてそんなことをするのか。やめてほしい。このままだと、家族が壊れてしまう。

 父は答えた。

 伊織の言うことはよく分かった。

 聴いてもらえた。伊織はほっとした。だが、ただの言葉だった。

 一年も経たずして祖母との同居が始まった。

 母を虐げる祖母。そんな祖母に味方する父。父と母はめっきり会話をすることがなくなった。

 伊織は何とか二人を繋ぎとめようと、出来損ないの笑みを浮かべて二人に話を振った。二人はつまらなさそうに答えた。すぐに会話は途切れた。

 今までの普通が目の前で壊れていく。伊織は心を病んでいった。

 リビングに降りるのが怖くなった。父と祖母が話している。内容はこの家に対する愚痴。母は黙っている。

 自室にいるのも怖くなった。話し声が階下から聞こえてくる。ぼそぼそと。時にはっきり。耳が遠い祖母の声は二階まで響いた。僅かな物音すら怖くなった。

 夜、眠れなくなった。皆が寝静まるまで食事を摂ることさえできなくなった。真夜中に必要最低限のことをこなし、眠るのはいつも明け方。

 朝、起きることができなくなった。学校に行くのが難しくなった。

 友人に言われた。最近変だと。悪意はなかったのだろう。だが、変だと言われるのが怖くて、更に学校に行きづらくなった。そして、行けなくなった。

 おかしい。

 当然、気付いていた。

 だが、己はおかしいと認めることが出来なかった。

 おかしいと認めたら、二度と普通に戻れない気がして。

 伊織にとって、過去が一番輝いていた。普通の己があまりに幸せに見えた。

 普通、普通、普通、普通。

 伊織にとって普通だったこと。

 学校に行って、勉強して、友達と遊んで、家族と話して、夜寝ることができて、楽しいことがあって、悲しいことがあって、それでいて、幸せ。

 今の己には何もない。

 伊織は普通を求めていた。そして、両親もそれを求めていた。

 学校に行けと、勉強をしろと、今まではできていたじゃないかと。

 普通でなければならない。

 伊織は思うようになった。

 普通でなければ価値はない。

 己は普通だ。伊織は心の中で呪詛のように繰り返し呟くようになる。

 今、普通のことができていないのは、己が弱いからだ。頑張れば出来るはずだ。だって己は普通なのだから。

 だが、その一方で思っていた。

 己は普通ではない。狂ってしまった。

 それはどうして?

 階下から祖母の声がする。

 祖母が消えてしまえば。死んでしまえば。

 一度思い出したら止まらなかった。伊織はそんな自分に怯え、ベッドにうずくまった。

 ある日のことだった。

 祖母が引きこもる伊織の部屋をノックする。許可もなく扉が開かれる。

 どうして学校に行かないの?親に迷惑をかけて何様なの? おかしいんじゃないの?

 父も母もそれを止めてはくれなかった。

 降りてきなさい。

 逆らうことはできないだろう。伊織は力なく立ち上がる。

 祖母が前を行く。その後ろ姿。目の前には階段。

 今だ――。

 確かに思った。


「それで、どうしたの?」

 身を強張らせる伊織に直弘は尋ねる。

「私は……」

「うん」

 直弘は静かに頷く。カイナがスマホに打ち込む。

『ゆっくりでいいよ』

 その言葉に目が潤む。伊織は喉につかえた言葉を中々口に出せない。

「わ、わ、たし」

 二人は待ってくれた。小さく相槌を打ち、ただ、黙って。

 伊織は歯を食いしばり、そして、喉奥に固まった言葉を吐き出す。

「おして、ない」

 もう一度言う。

「背中、おして、ない……」

 そして叫ぶ。

「殺してなんか、ない!」

 人前では両親もそれを受け入れてくれた。だが、あの日から明らかに態度が変わった。伊織に声をかけることもなくなった。頑張れとも、学校へ行けとも言わなくなった。それこそ、化物のような扱いになった。触れぬように、見ぬように。

「殺してない……」

 伊織は項垂れる。

 何度言ったって、頷くだけで状況は変わらなかった。伊織は両親にとって人殺しだった。

 目の前に差し出されるスマホ。涙でぼやける文字。そこにはたった五文字。

『辛かったね』

 机の上で強く握りしめられた伊織の手にカイナの手が重なる。直弘が優しく言う。

「よく頑張ったね」

 伊織の中で張り詰めていたものが切れた。

 両親しかいない家という狭い世界では、伊織は人殺しでしかなかった。己でさえ、自身を信じられなくなっていた。なのに二人は信じてくれた。

 大粒の涙が零れる。

 二人の短い言葉。ずっと求めていた。ただ、誰かに己の言葉を受け止めてほしかった。

 伊織は唇を強く噛みしめる。それでも、我慢することはできなかった。伊織は大声を上げて泣いた。二人は何も言わず伊織の傍にいてくれた。

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