第十九話

 気付けば黒い空間だった。仄暗く、膝下程の水が張っており、ところどころ白い何かが浮かんでいる。それが血と骨だということに気付くのにはさほど時間がかからなかった。

 何が起こっているのか分からない。己はおひまさまに喰われたはずだ。だが、死んではいない。ここは――。

「おひまさまの中……?」

 響く声に勿論、返事はない。

 伊織はジーンズを血まみれにし、液体の抵抗を感じながらも前に進むことを決めた。

 己はまだ、生きているのだから。


 血と骨の池を伊織は歩く。その中に骨とは別の浮遊物を見つける。それは黒い泥だった。腐った怪異、化物だ。だが、それは伊織に目もくれなかった。肌が出ていないからだろうか。

 それらは転々と水面を漂っていた。大きいものもあれば小さいものもある。

 空から何かが降ってきた。どぼん、と音をたて水面に落ちたのは鹿だった。一番近くの黒い泥がそれに飛びついた。骨を断ち、肉を貪る音がする。

 伊織は目を見開いた。

 鹿を喰らいつくしたそれは一つの形あるものになっていた。白くて丸いもの。

 それは水面を跳ね、伊織の方に近づいてくる。そして、ジーンズにすりすりと顔を擦りつけた。

「しらうさぎ、さん……?」

 赤いつぶらな瞳が伊織を見上げる。そして、それは何処が前とも分からない空間で一点を見据えた。

 伊織は尋ねる。

「付いて来てってこと……?」

 しらうさぎは体を上下に振った。

 水面に浮かぶしらうさぎは伊織の歩調に合わせてくれた。

 泥に襲われぬよう、肌の出た首を押さえた。己で首を絞めるようなその格好。傍から見ればさぞ滑稽だったろう。

 血の池を歩くのはたまらなく苦しい。だんだんと足が上がらなくなってくる。それでも伊織は足を進める。

「あ」

 伊織は声を上げた。目の前から柔らかな光が射している。それと共に空間の果てが見えてきた。

 果ては薄い膜だった。温かい牛乳の上にできた膜のような。色は黒。そこに光る白い半球。

 しらうさぎはそれに飛び込んだ。膜が裂けた。

 現れたのは森。輝く月。帰ってきたのだ。

 膜から血が溢れ出す。しらうさぎは血の上を跳ねまわり、先に先に進んでいく。

 後ろにはまだ、おひまさまがいる。その存在を肌でひりひりと感じた。背を払い言った。

「おひまではありません」

 伊織は振り返らずに走り出した。

 森の中を走る。坂を駆け抜け、錆びた階段を登り、朽ち果てた神社の横を通り、伊織はしらうさぎに続いて先を急ぐ。

 巨木が倒れている。道は行き止まりだ。しらうさぎの足が止まった。

 木をよじ登り、先へ行くという方法もある。だが、伊織の足は限界を迎えていた。

 伊織は道に寝そべる木に背を付け、地面に座り込んだ。ヘルメットを外し、その場に置く。

 空を見上げると月が輝いている。

 ジーンズは血で染まり、身体は腐ったにおいがする。それでも、生きている。

 しらうさぎが伊織に寄り添う。

「また、傍にいてくれるの?」

 伊織は問いながら気付いていた。これはきっと以前のしらうさぎではない。おひまさまの中に存在し、鹿を、生命を喰らっていた。何より、死臭がする。

 しらうさぎは伊織のジーンズに頭を擦りつける。そして、また跳ねだした。伊織は立ち上がろうとするが、もう、一人で歩くのが難しいくらい疲れ切っていた。

「ごめんね、もう歩けないや」

 そう言うとしらうさぎは、こくり、と一回頷き、森の中に跳ね飛んでいった。

 一人取り残された伊織はぼんやりと天を仰ぐ。

 死ななかった。

 それは喜びだった。だが、悲しみでもあった。

 生きることを選んだ。だが、これからどう生きていけばいいか分からない。帰る場所は何処にもない。

 月の光が陰ってくる。雲がかかり始めたのだ。やがて、空から雫が降り落ちる。地面を叩き始めた雨。

 伊織は笑っていた。もう、何もかもどうしたらいいか分からないのだ。

 父は伊織を化物と言った。真は伊織を殺そうとしている。不登校で、引きこもりで、祖母殺しの己。どうしようもない。本当にどうしようもない。

 視界に白いものが過った。

「しらうさぎさん?」

 伊織は木陰のそれに声をかける。

 だが、しらうさぎはどろりと溶けだし、やがて、黒い泥となった。

 確かに死にたくない。だが、行く場所も帰る場所もない。それに何より、しらうさぎを化物にしてしまったのは己だ。死にたくない。しらうさぎも思ったかもしれない。

 泥になり蠢くそれに微笑みかける。

「いいよ、食べていいよ。あなたにだったら殺されても仕方ない」

「それはよくないな」

 男の声にはじかれたように顔を上げる。そして、その左手から差し出されるスマホ。

『よくない、実によくない』

 伊織は二人を見上げる。

『しらうさぎさんが伊織ちゃんの危機を伝えてくれたんだよ!』

「何を言っているかは分からなかったけどね」

 カイナの言葉に直弘が笑った。そして、カイナが伊織にスマホを見せ、直弘が言った

「『帰ろう、伊織ちゃん』」

 しらうさぎだった泥は暗い闇の中に消えていった。

 二人に支えられ、泣きながら伊織は歩く。

 ずぶ濡れになってたどり着いた見慣れた平屋の家。

 おかえり。

 二人はそう言葉にした。伊織の頬には温かい涙が伝っていた。

 

 真に殺されかけた。直弘とカイナは迎えに来てくれた。

 伊織は己に問う。

 普通の人間と、普通ではない怪異。

 いったいどちらが普通だ?

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