第十八話

 バイクに揺られながら伊織は考えていた。

 化物である己をカイナと直弘はどう見ていたのだろうか。普通でない、異常な己を。

 憐れんでいた? 少し違う。嘲笑っていた?それはないような気がする。

 彼らはおぞましいものを前に平然と笑う怪異だ。だけど――。

 バイクの後ろに挿された何かに足が当たった。ガタンと音をたてる。

「すいません」

「ああ、邪魔で悪いな」

 とっさに謝った伊織。それに答えた真の声は妙に明るかった。

 バイクが山の奥へ入っていく。

 岩森家に行くにはつづら折りの坂を上っていく。だが、真のバイクは下がっていく。川の音が聞こえてくる。

「どこへ、行くんですか?」

 伊織の問いに真は答えない。

 バイクが止まる。真に促され、伊織はバイクを降りる。木々が立ち並び、月の光さえわずかにしか差し込まない。地面はぬかるんでいて、昼間でも日が当たらない場所だと分かる。辺りを見渡すが、誰もいない。代わりに拾うのはあの死臭。

「伊織ちゃん、見たんだろう?」

 真の声に振り返る。そして、言葉を失った。彼の手には銃が握られていた。先程足に当たった何か。真は狩猟の免許を持っている。猟銃だ。

「見たよな。俺が実の母親を殺してるところを」

 何を言われているか分からない。

「本当は気付いてたんだろ。康樹も俺が殺したってことを。いや、皆皆皆皆」

 知らない、そんなことは何も知らない。

「だから、伊織ちゃんもアレに喰われてくれ」

 真が伊織に銃を突きつける。

「後ろを向け」

 命令された通り、伊織は真に背を向けた。背中には銃口が当たっている。真が引き金を引けば伊織の背中は貫かれるだろう。身体が震え、歯がかちかちと鳴る。

「康樹は優秀だったんだ」

 真がぽつりと漏らした。

「優秀すぎて鬱陶しくて仕方なかった。性格も良くてさぁ」

 続く。その言葉はいつまでも続く。

「逆に俺は何処まで行っても平々凡々。いや、俺だってそれなりに優秀だったんだが、康樹がいるから普通にされちまったんだ。ああ、あいつさえいなければ、死んでしまえと何度思ったか。東京に出てもこの田舎からは逃れられなかった。長男だから家を継げって。帰った。帰ったのにさ。康樹は優秀だから、康樹に継がせろ。親戚中がそう言うんだ。俺の立場は? おかしいだろ? おかしいに決まってる。その日はたまたま雨だった。直弘の家に行こうと誘ってきたのは康樹だった。友人、そして、兄を気遣う弟。それがあまりにうざったくて、言ったんだ。『馬鹿にしてんだろ』って。そしてら、なんて言ったと思う? 『気付いてたんだ』だってよ。俺はわざと車を側溝に落とした。で、外に出た康樹をどん、って崖にな? 我に返って見に行ったら、康樹は足を折ってた。人殺し、人殺しって叫んでた。そこには人一人いなかった。誰も来るはずがなかった。だけど来たんだ。アレが。腰を抜かした俺を前にアレは康樹だけを喰っていった。俺は助かった」

 一歩一歩、森の奥に導かれていく。血のにおいが漂ってくる。これはきっと、新しい誰かの血のにおい。真の母から噴き出した、血のにおい。

「どいつもこいつも、どうして、真じゃなく康樹が死んだんだって言うんだ。ひどいだろ?皆皆、当然のようにそういうんだ。腹が立つよな」

 今更ながらに気付いた。直弘と真は友人だ。この狭い村。直弘の関係者はきっと真の関係者でもあったのだ。

 真はまだ話し続ける。

「ここはアレがよく出るんだ。イキモノを連れてきたら必ずと言っていいほどに。だけど、俺が襲われたことは一度もない。この格好じゃなくてもだぜ? すごいだろう? だから、皆喰ってもらったよ。今回もずっと康樹のことを言い続けるお荷物でしかない母親というイキモノをここに連れてきたんだ。そしたら、やっぱりアレは都合よく出てきて喰らってくれたんだ」

 真は下卑た声で笑った。

「いや違うな。勝手に喰われたんだ」

 伊織の脳裏に一つの言葉が浮かぶ。

 人間は汚らわしい。

「ただ一つ誤算だったのは、伊織ちゃんに見られたことだ。俺がこうやって母親をアレに導いてるのを見てたんだろう?」

 見ていない。事実そうだ。だが、そう言って、真が止まるとは思えない。

「康樹の事だってそうだ。蔵で俺はパニックになって馬鹿なことを口走った。あんなの聞いたら俺が殺したって分かるよな」

 それも気付いていなかった。真が勝手にそう思っただけ。

 それに、と真は言った。

「あんたは皆から死を望まれてる」

 伊織の心臓が跳ねた。

「実の父親、母親もそうだろう? ここいらの親戚だってそうだ。そりゃ怖いよな。実の祖母を殺した子どもなんて」

 知っていた。だけど、はっきりと口に出された言葉に伊織の胸は潰れんばかりに痛んだ。

「ヘルメットを取れ」

 真の言葉に伊織はヘルメットを外す。地面から黒い泥が湧いてくる。泥は瞬く間に大きな塊となり、おひまさまとなった。

 沸き上がる恐怖。だが、それより、伊織を突き動かすものがあった。

 伊織はもう一度ヘルメットを被り直した。

「伊織ちゃん、今更――」

 真の呆れたような声を聴きながら伊織はおひまさま目掛けて走り出した。背に突きつけられていた銃の感覚はない。

 白手袋に長袖のシャツにジーンズ。そしてヘルメット。唯一肌が出ている首周りを両手で押さえる。

 伊織はおひまさまの元へ走り出した。

  

 真の言った通りだ。皆から死を望まれている。父から、母から、親類から、こんなところにいる他人にでさえ。

 だけど、それを認められない人間がいた。

 己だ。

 死んだほうがいい。自殺が頭をよぎらない日はなかった。知ってるのに、じゃあ、どうして。

 分からない。だが、死にかけて思ったのは――。

 ――死にたくない。

 

 膨張しきったおひまさまの横をかいくぐるように走る。

 おひまさまに紛れて、真から逃げるのだ。全身を覆っていれば喰われることはない。そう信じて。

 怖くてたまらない。だけど、死にたくない。 

 伊織が必死に駆ける間にも、おひまさまは膨張していく。銃声が聞こえる。視界の端で木に穴が開く。ごぼごぼという音が耳元で聞こえる。

「あ」

 伊織の足に泥が絡まった。もがいた。だが、逃れることはできなかった。

 伊織は泥をかぶった。

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