第十七話

 山を下り、ぽつぽつと民家の明かりが見えてくる。一軒の民家の前で真がバイクを止める。

「伊織ちゃん、無事か?」

「は、はい」

 伊織はバイクを降りる。真がぽつりと言う。

「どうしてあんなところにいたんだ」

「直弘さんとカイナさんと、あなたを探していたんです」

「俺?」

 真は怪訝な声を出した。伊織は頷く。

 事の次第を伝える。電話がかかってきたこと、男達が岩森家に来たこと、直弘がおひまさまを疑ったこと。

 真はヘルメットの中でくぐもったため息をついた。

「……伊織ちゃんはどう思う?」

「え」

「俺の母さんを殺したのは直弘か?」

 伊織の目に人間の脚を持った直弘とカイナが浮かぶ。確かに恐ろしかった。人間とは違うとはっきり分かった。だけど――。

 二人と過ごした日々を思い浮かべる。

 伊織は答える。

「違うと思います」

 そう信じたいだけかもしれない。

「そっか」

 そう言った真は、伊織の頭に柔らかく手を置いた。

「まあ、無事でよかった」

 伊織はほっと息をついた。真は死んだわけではなかったのだ。

「浩司さんには俺が連絡しておくよ」

 彼はそう言って、ヘルメットを外す。伊織の体が強張っていることなど知らないだろう。真は伊織の父に連絡を入れた。

 真の家も立派な平屋だった。

 彼の家族は優しかった。真と同じくらいの年だろう妻と、伊織と同じくらいだろう娘。

 真は事の詳細を話さず、怖い目に遭ったとだけ家族に伝えた。彼女らはそれで納得して、伊織を厚くもてなしてくれた。

 それからほどなくして、先程、岩森家にやってきた中高年の男達が真の家に集まってきた。居間の奥にある部屋に彼らは入っていく。

 伊織も真に言われ、彼らに続くこととなった。

 部屋では皆が厳めしい顔をして、伊織を凝視する。汗が噴き出る。伊織の視線は思わず下を向いた。

「知ってることを話してくれるか?」

 真に促され伊織は緊張に声を詰まらせながら話し出す。

 大した話ではない。真が行方不明と聞いて直弘が探しに行ったということ。それに、己が同行したということ。それだけ。

 伊織はその先を話さなかった。だが、真が口を開いた。

「母は死んだ」

 部屋にしんっとした沈黙が訪れる。

「殺された」

 伊織の脳に、直弘が手にしていた人間の脚が浮かぶ。

「直弘に、いや、もう、化物になっちまったあいつに殺された。なあ、伊織ちゃん」

 話を振られ、伊織は身を固くする。

「あいつが、母さんの脚を持ってるのを、見たよな?」

 直弘とカイナが殺したわけではない。そう言えばよかったのかもしれない。だが、集まる視線に耐え切れず伊織は頷いた。直弘とカイナが誰かの脚を持っていたのは間違いない。

 それを確認されると、伊織はリビングに戻される。ここから先は大人の話だと。

 真の妻は伊織に優しく微笑んだ。

「もう少ししたらお父さんが来てくれるからね」

 それは伊織にとって恐怖でしかなかった。

 ただでさえ、人殺しなのだ。それに加え、異常なこの状況に立ち会った己を父は更に嫌悪するに違いない。あの目で見るに違いない。

 しばらくすると玄関のチャイムが鳴った。真の妻が扉を開けに行く。会話が聞こえる。

 彼女は言った。「とても怖い目に遭ったみたいで、怯えている」と。

 居間に父の姿が見える。伊織の身は固まった。父は椅子に座る伊織に近づくと、一言。

「無事でよかった」

 伊織の呼吸は止まる。

 思いがけない言葉だった。あまりに普通だった。

 恐ろしい目に遭った娘。その無事を喜ぶ父。

 あの日から消えた普通。それがここにはあった。

 伊織の目から涙が溢れ出す。

「お父さん……!」

 伊織は父に抱き着いた。彼はそれを受け止めてくれた。

 ただただ、嬉しかったのだ。あの日から父が伊織に触れたことは一度もなかった。目を合わすこともなかった。それなのに――。

 伊織が泣き止むまで父は側にいてくれた。

 伊織が落ち着くと、父は別の部屋で集会に加わるようだった。実の弟に関することだ。当然だろう。

 今日は泊まりになるかもしれない。伊織は真の妻に風呂を勧められる。

 伊織は己の格好を改めて思い出す。長袖長ズボンに白手袋。異様なうえに汗だくだ。服は真の娘が貸すと快く申し出てくれた。それでも、伊織はそれをぎこちなく断る。

 二人はとてもいい人だ。だからこそ、気が引けてしまう。そもそも、同じ年頃の人間には引け目を感じ、話をするのさえ怖いのだ。そんな己が情けない。

 伊織は真の妻子の好意から逃げるように、断りを入れ、家の外に出た。

 外に出ると、男達の話し声が聞こえてきた。どうやら、部屋の窓が開いているらしい。会話が筒抜けだ。

 内容は直弘の事。化物。人殺し。様々な罵詈雑言が飛び交う。

 伊織は直弘とカイナに思いをはせる。

 二人はきっと真の母親を殺したわけじゃないだろう。それでも――。

 伊織は目を閉じる。

 彼らはおぞましいものを前に平然と笑う怪異だ。

「浩司君の娘さんだけど」

 伊織は目を開いた。心臓がどくん、と音をたてる。

「どうする?」

「どうするって?」

「あの化物と一緒にいたんだろう?」

「もう化物になってるんじゃないか?」

「あの子は――」

 父の声だ。男達の恐ろしい憶測に終止符を打ってくれるのだ。そう思った。だが。

「あの子は母を殺した時点で化物です」

 頭が空っぽになった。

 さっきの抱擁は何だったのだ。

 頭に浮かぶ。世間体。

 伊織の足から力が抜けた。糸が切れた人形のように、その場に腰を付けた。

 化物。

 そう思われていたんだ。

 化物。

 そう思われても仕方ない。

 化物。

 きっとそうなんだ。腐った怪異と同じなんだ。

 黒くておぞましいモノ。あれと同じなのだ。己はあの化物と――。

「伊織ちゃん」

 顔を上げるとそこにはヘルメットを被った真がいた。その声は妙に硬い。

「乗ってくれ」

 そう言って渡されたのはヘルメット。

「直弘にもう一度確認する」

 真は強い声で言った。

「伊織ちゃんも協力してくれ」

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