第十六話

 今からおひまさまを探しに行こう。

 おひまさまの説明したっけ? してないか。

 おひまさまはね、腐った怪異の集まりなんだよ。

 腐った怪異は化物になって、おひまさまに還る。おひまさまは大きな化物。

 そして、イキモノが大好きなんだ。きっと美味しいんだろうね。

 おひまではありません、その言葉でおひまさまは引いてくれる。

 言葉の意味が分かっているのか、その音が嫌いなのか、何かのおまじないなのか。分からない。

 この家で昔から言われてる、不思議な言葉なんだよ。

 

 直弘の声、カイナの文章。どちらも耳で、目で追っているはずだ。だが、それは脳には届かない。

 

 おひまではありません、言い忘れたら大変なことになっちゃう。

 おひまさまに連れていかれる。

 イトみたいに。

 祖母は一度その言葉を言い忘れて、いや、わざと言わなかったらしい。

 人間が嫌いだったイトは怪異と一緒になりたかったんだろうね。

 でも、祖母は帰ってきた。必死になって逃げてきた。

 あまりにおぞましかったんだって。

 人間が見てはいけないものだったらしい。

 あれと一生関わらない。そのためにイトは怪異を封印した。人間として生きることを決めた。

 祖母は一生おひまさまの影に怯えて暮らした。怪異を好む僕に言ったものだよ。

 おひまさまには一生関わってはいけないよ、と。


「伊織ちゃん、心配せずに適当に歩いてね」

『いざとなったらGPSがあるからね!』

 不安で立ち止まり、振り返った伊織に二人はそう言った。伊織は再び歩き始める。

 何故、己が前を歩いているのか。分からない。何処へ向かっていくのか。分からない。

 足元には枯草や苔が生い茂る。人一人歩くのがやっとの道。地に落ちた小枝が伊織の靴の下で、ぱきん、と音をたてて折れた。

 己は普通じゃない。人殺しだ。

 実家の階段。二階に登ってきた祖母。誹り。去っていく祖母の背。目の前には階段。

 今だ――。

 確かに思った。

「伊織ちゃん」

 直弘の声に振り返る。

『ぼーっとしてたら喰われちゃうよ』

 冗談か本気か分からないカイナの言葉。伊織は何も答えられなかった。ただ、きっと顔には作り慣れた出来損ないの笑顔が浮かんでいるのだろう。

 

 何十分歩いたか分からない。時間として長かったのか、伊織がそう感じただけなのか。

 坂を上り、下り、苔の蒸した石橋が架かる小川に出た。

 石橋と言っても長さは一メートルもない。橋がなくても跨いで渡れそうな川。

 伊織はただただ、足を進めた。一歩一歩。後ろに二人の気配を感じながら。しばらくまっすぐ歩いた。頭の中は真っ白だった。

 嗅いだことのある不快なにおいに伊織はびくりと顔を上げる。

「来たね」

 直弘が言った。カイナはスマホのライトを前方に向ける。

 伊織は声を上げることもできなかった。

 ごぼごぼ、と音をたて、飛沫をまき散らしながらそれは湧いてきた。黒い艶のある泥。それは瞬く間に伊織の背丈を超え、森の木々の丈を超え、辺りを覆いつくすように広がる。ピタリと動きを止めたかと思うと、血管のような筋が浮かび上がる。どくん、と脈打った。

「ありがとう。伊織ちゃんのおかげでおひまさまが出てきてくれたよ」

『やっぱりおひまさまはイキモノが好きなんですね』

 伊織の前に出た二人。伊織はぞっとする。

 まさか、己を前に歩かせたのは、おひまさまを呼び寄せるためか。

 息も詰まるような臭気の中、直弘は緊張感のない声で言う。

「これがおひまさまかぁ」

 そして、目を細めた。

「あの祖母が恐れたおひまさま、一度、見てみたかったんだよね」

『直弘さん、今はおっさん探しでは?』

「あはは、そうだったね」

 直弘は辺りを見渡す。

「真、喰われちゃったかなぁ」

 直弘は朗らかに言いながら足を進めた。だが、すぐに止まる。

「これは不味いかな」

 その問いにカイナがスマホに触れる。文字がちらりと見えた。

『はい。このままだと私達も腐りそうです』

「これ以上近づくのは無理か」

 直弘が残念そうにため息をついた。カイナが伊織にスマホを向ける。

『伊織ちゃん。戻ろうか』

 伊織は震えながら頷く。一刻も早くあの化け物から離れたかった。伊織は二人の後に続く。

 背後からぐちゃぐちゃ、と音がした。しらうさぎだったモノが猫を喰らっていたのと同じ音だ。

 恐ろしさに負け、伊織は後ろを振り返った。そこには泥とは違う光る何かがあった。見慣れた光り方。そう、プラスチックのような。

 ヘルメットだ。

 声を上げる間もなく、それは黒い泥で見えなくなった。あのヘルメットは――。

「あの」

 伊織は直弘とカイナに声を飛ばす。だが、そこには直弘もカイナもいなかった。夜の闇の中、伊織は一人取り残される。血の気が引いた。

「おひまではありません」

 伊織は縋るように声に出し、元来たつづら折りの坂を上がった。

 三十分程歩いただろうか。

 コンクリートで固められた道に出る。ガードレール、カーブミラー。どれも苔や蔦に覆われている。だが、見慣れた人工物に伊織は息をついた。おそらく、このコンクリートの道をたどっていけば、人間の生活区域に出るはずだ。

 今更ながらにどっと冷や汗が湧いて出た。伊織はその場に力なく腰を下ろす。コンクリートの熱がズボン越しに伝わる。

 目に焼き付くおひまさまの姿。巨大で、禍々しく、どうしたって人間が敵うものではない。圧倒的なものだった。

 何も考えることはできなかった。ただぼんやりと、どこかで鳴く蛙の声を聞き、空で輝く半月の光を浴び、ただそこにある暗闇を見つめていた。

 しばらくそうしていただろう。汗に濡れた体が冷えてくる。夜風に吹かれ、伊織は身震いした。徐々に思考が戻ってくる。

 ここはどこか。

 直弘とカイナは何処にいるのか。

 泥に消えたヘルメットは――。

 伊織はもう一度それを思い出す。月明かりに照らされて光った色は黒。闇に紛れていたその服。きっと黒かったのだろう。

 直視したくない現実に伊織は震える。

 あれは真だったかもしれない。

 直弘の周りの人間ばかり消える。もしかすると次は真なのだろうか。

 背筋が凍った。

 地面を踏みしめる音が聞こえる。重い足取り。伊織は身を強張らせる。何かが来た。

「なんだ。真、生きてたんだ」

 恐る恐る顔を上げる。そこにはヘルメット姿の真、そして、その後ろには直弘とカイナがいた。

「直弘」

 真の引きつった声が聞こえる。直弘の手には何かが握られている。伊織は震えあがった。

 それは脚だった。布にくるまれた誰かの脚。

「ごめん、見つけた時にはこんなだった。きっと真のお母さんだよね」

 直弘はそれを真に差し出す。勿論、真はそれを受け取らない。直弘は首をかしげる。

「いらないの?」

 真が一歩下がった。直弘はカイナに小さく何かを問う。カイナが何かを答える。

「真がいらないなら、おひまさまに返すね」

 直弘は手に持った脚を斜面に放り投げた。その脚は宙を舞い、そして、木々の中に落ちていった。続いて聞こえてきたのは肉と骨が貪られる音。ふわり、と死臭が沸き上がってきた。

 ガードレールから下を覗き込む直弘。

「おひまさまから無理やり取ってきたから。返せてよかったよ」

 直弘の顔はいつもと変わらず笑顔で無邪気にさえ見えた。ぞわり、と肌が粟立った。

「逃げるぞ」

 真がヘルメットの中、くぐもった声で言った。

「伊織ちゃん、逃げるぞ」

 真が伊織の手首を掴み、走り出した。伊織は彼に引かれるまま、足を進める。

 後ろを振り返る。二人は追ってこない。何かを言うこともない。

 真の勢いに負け、バイクの後ろに乗る。夜道をバイクが走り出した。

「しっかりつかまっとけよ」

 真の声に余裕はなかった。

 足に何かが当たった。バイクの後ろに備えられたホルダー。長細い何かが入っている。伊織はそれを蹴らないように、足を動かした。

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