第十五話

 時計に目を移すといつの間にか時刻は六時半を回っていた。直弘が机の上を片付けだす。

「そろそろ夕飯にしようか」

『はーい』

 カイナが答えた。

 用意された伊織一人分の食事。二人とたわいない会話をしながら摂る夕食は美味しい。

「ごちそうさまでした」

 食事を終え、伊織は手を合わせる。ふっと卓上カレンダーが目に入る。八月十二日。

『どうしたの?』

「いえ、もう八月も中頃なんだなって」

 伊織は小さく笑って見せる。

 八月が終わる。そうしたら、伊織はあの家に戻ることになる。考えるだけで息が詰まりそうだ。

 カイナがスマホを伊織に差し出す。

『伊織ちゃん。ずっとここにいてもいいんだよ』

「え」

 伊織は喜びの混ざった声を上げ、ハッとする。

「でも、その、学校とか、いろいろ、ありますし」

 とぎれとぎれになる言葉。直弘が首をかしげる。

「どうして? 学校には行ってないんでしょう」

 伊織は固まった。震えながら問う。

「お父さんから、聞いて……?」

「うん、兄さんからだいたいのことは聞いたよ」

 直弘の変わらない笑顔。

「実の祖母を殺したんだって?」

 伊織の血の気が引いた。 

 電話が鳴った。

 受話器を取った直弘が何かを話している。声は耳には入るのだ。だが、頭には入ってこない。

 知っていたのだ。何もかも。

 二人に気付かれないように、宿題と偽って、もうずっと開いていない教科書で勉強した。好きでもないのに。

 二人に気付かれないように、さも明るく振舞った。本当は半年以上まともに人と会話をしていないのに。

 二人に気付かれないように、二人に気付かれないように、二人に気付かれないように。

 己が普通でないことを。

『伊織ちゃん』

 カイナに手の甲を叩かれ、我に返る。

『あのおっさん見てないよね?』

 真の事だろう。伊織はぼんやりと頷く。それを確認すると直弘が電話越しに言った。

「こちらには来ていません」

 しばらくすると直弘は電話を切った。そして、言う。

「真が行方不明だって」

「え」

 伊織の口から小さな声が漏れた。

 まずは真の母親からだった。朝、畑に出て、そのまま夕方近くになっても戻らなかったそうだ。真は母親を探しに出る。そして、そのまま帰ってこないらしい。

 スマホも圏外で繋がらない。誰に聞いても見かけていないという。そこで、直弘の元に電話がかかってきたのだ。

 伊織はその話をぼんやりと聞く。

『あのおっさん、死んでも死なないから大丈夫でしょ』

 カイナはいつも通りだ。だが、直弘は先程から神妙な顔をしている。

 刹那、表からけたたましいほど扉を叩く音がする。

「はーい」

 直弘が腰を上げ、お家から外へ出る。伊織は未だに呆然とし、お家に取り残された。

 二人は知っていた。

 扉が開く音がする。ぼそぼそと聞こえる低い声。それも一つではない。複数人だ。

「どうぞ。気が済むまで」

 直弘の言葉で土間に足音が響く。彼らはずかずかと家へ上がり込んできた。中高年の男ばかり。

 一人の男が伊織の姿を見ると目を見開き、座る伊織に目線を合わせる。

「君、どうしてこんなところに」

 そう言う男に、もう一人が肩に手を掛けた。そして、首を横に振る。彼らは黙って客間の方に行った。聞こえてくる話声。

「あれが浩司さんの娘だよ」

「祖母殺しの?」

「ああ」

 伊織の身は強張った。

 知ってる。皆知ってる。己の罪を、己の異常性を。

 彼らは家の中を隈なく探すと出ていった。カイナと直弘がお家に戻ってくる。

『ここにおっさんがいるわけないでしょ』

 カイナがその後もぶつくさと文字を打っているが、どれも上滑りしてしまい、伊織には意味のない文字の羅列にしか見えない。

 直弘がぽつりと言った。

「おひまさまかも」

 直弘の呟きにカイナが身を固めた。

『どうしてその名が出てくるんですか?』

「蔵の出来事覚えてる? あの時、真、家に入る前に言わなかったんだよ」

 おひまではありません、って。

 伊織の真っ白な頭にその言葉はやけに響いた。直弘が再び立ち上がる。

「真を探しに行こうか」

 そして、伊織を見やる。

「伊織ちゃん。付いてきてくるかい?」

 伊織は何も考えることができず、ただただ頷いた。

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