第2話

「メルー! 早く来いよ!」

「待ってよーお兄ちゃん、草が多くて走りづらいよ!」

「どん臭いなぁ! ほら早くこっち」

幼い兄妹は川に向かって走っていく。彼らはまだ五歳かそこいらで、髪は同じ茶髪。小綺麗なシャツ。兄はベージュのパンツで、妹は赤い色のスカートを履いていた。


 まだ昇ったばかりの太陽は、柔らかく暖かい春の光を河原に落としている。


 少年は小さい石を拾っては川に投げては、跳ねた跳ねないと一喜一憂した。

 少女は河原に咲く白っぽい花を摘んでは、組み合わせて花の冠を作っている。


 しばらく、お互いに言葉を交わすことなく遊んでいた兄妹だった。少年は靴を脱ぎ捨てて、今度は川の浅い部分で石を探し始めた。冷たい川の水は、少年の火照った脚をひんやりと包み込んだ。


 川の流れの中で彼は何か赤い物を見つけ、水の深い部分へ手を突っ込んだ。

「メル! これ見てよ!」

「何か見つけたの?」少女は兄の方へと駆け寄った。「何? それ、きれーな石だね!」

「知らないのか? クリスタルだよ! これは……フレイムクリスタルかな?」


 半透明の赤い水晶は少年のまだ未熟な手に余る大きさだった。内部には黄色い揺らめき模様が走っていて、それ自体が炎を固形化させたようにも見える。


「持って帰ってクルスに自慢してやろっと!」

「それ、持って帰ってもいいのかな? お母さんに怒られるかもよ?」

「だーいじょうぶだって、こんな所に落ちてたんだもん。きっと誰かが捨てたんだよ。かあさんにも見せなければいいし!」

「怒られても、私知らないからね!」

「なんだよ……いいよ、別に!」


 少年は妹に予想外の反応をされたのが、少し気に入らなかったのか、少し顔を顰めた。

 ポケットに赤い水晶をぐいと押し込むと、冷えた太ももがじんわりと温かくなった気がした。


 ドーン。地面が揺れる。


 それとほぼ同時か、少年は下流から黒煙が上がっているのを見つけた。

「なっ……」少年は何かを感じ取ったように体を強張らせた。「石切場のほうだ!」

「お兄ちゃん、何かな?」

「か、帰ろう! かあさんに伝えないと!」

「う、うん」


 兄妹は走り出した。

 兄は妹の手を引いて、自分達が踏みならした雑草の道を戻って、街の外れにある自分達の家を目指した。


 黒い煙は彼らの背後で二本三本と更に数を増やして空へと伸びていく。川原を走り抜ける彼らの背後から、何かが燃える匂いが風に運ばれて迫り来る。

「おい、お前ら! 早く逃げろ!」「怪物達の襲撃だ!」


 煙の方からオクトホースに跨がった兵士達が叫んでいる。男達は八本脚の馬に鞭を入れ、シティの方へと急いでいる。


 兄妹は緊迫感を帯びた叫び声を聞いて、無我夢中で走った。

怪物ベレト……」少年は妹の手を更に強く握って、脚を早めた。「早く逃げないと!」


 少女は何も言わず、兄が引く手に遅れまいと付いていく。


 川を上流の方へ走っていくと、塀に囲まれたキュービック・シティの裾野が見えてきた。

 このあたりは区画の整理もまだされていない地域で、点々と家が立ち並ぶ。


「あっ!」少女は草の根に蹴つまずいて、転倒し膝を擦りむく。「い、痛いよう」

「メル、立って! もう家に着くから」

「立てないよう……」


 少女は擦りむけた膝を抱えて小さく蹲った。膝から流れる血が脛を伝って彼女の足首まで流れた。


「ほら、早く!」

 少年は妹を無理やり背負い、シティの方へ走った。小さい女の子とは言え、自分より少し軽いほどの少女を担いだ兄は額に汗を滲ませながら進んだ。


 彼らの家はシティの南端、街と呼んでいいのか分からないほど、未発展の場所にあった。立ち並ぶ家々は小さく、そして乱雑に建てられていた。その中でも彼らの家は比較的綺麗だった。


「か、母さん!」妹を担いだ少年は、ドアを蹴破るように開けた。「べ、べレトが……」


 彼らの家の中はしんと静まり返り、外の喧騒と妹の呼吸だけが少年の耳に付いた。少年は妹を椅子に座らせ、母親が眠っているベッドに駆け寄った。


「かあさん!」眠っている母親を揺らす。「に、逃げないと!」


 思い切り左右に揺らされた母親は、内臓全てが出てしまうかと思うほど激しく咳込んだ。

「だ、大丈夫?」


 少年は咳き込む母親に口当て布を渡した。それから、母親の背中に手を回して上半身を起こさせた。母親が落ち着くまでやさしく背中を撫でた。


 咳が治まって母親が布を持つ手を力なくだらりと垂らすと、血がべったりと口元と布に付いていた。


「逃げなさい……、母さんは大丈夫だからね」

「できないよ、僕とメルだけで逃げるなんて……」


 母親の弱々しくも優しい言葉と穏やかな表情は、少年を逃げるという決断へ導くことはなかった。

 

 少年の勇気を踏みにじるように、地面が小さく振動し始める。棚の上に飾られている写真が、カタカタと揺れ始めた。


「いいから行きなさい! 母さんには父さんがいるか——」

 母は語気を荒げた。その勢いで先ほどよりも強く咳き込んだ。彼女は布を口元に当てようとするも、間に合わずに白いシーツに血が斑点を作った。


 けたたましい馬の蹄の音が遠くから近寄ってきたかと思うと、家のすぐ横で止まり、再び扉が激しい音を立てて開かれた。


「逃げるぞ!」

「とうさん!」「あなた……」

 少年の父親は必死の形相で、家族の安全を確保するために帰ってきたのだった。病弱な妻と二人の子供のために、石切り場で一生懸命に働く責任感のある父親だった。


 急いで帰ってきたのか、髪の毛や服に粉末状になった石がまだ残っている。


 そんな彼の努力を虚しく水泡に帰すかのように、到底無視できないほどの地響きと耳を劈く咆哮が近づいてきていた。


 それを合図にしたのか、街の方からは大砲の火薬が炸裂する音が鳴り響く。


 大砲。鉄砲。断続的に鳴り響く破裂音のリズムが、事の重大さを知らしめるビートを刻んでいた。


「む、無理よ……歩けないわ。私は置いて子供達と逃げてください」

「大丈夫だ」父親は衰弱した妻を抱えた。「行くぞ……」

 

 家族をなるべく安心させようと勇猛に振舞っていた父親を含め、その家の中にいた全員が静止した。


 窓のすぐ外、三メートルの所にそれはいた。牛の頭とゴリラのような体を持った怪物であった。神話上に登場するミノタウロスをもじり、エイプロスと呼ばれる怪物であった。


 ゴリラの握力は人間の体を縦に真っ二つに引き裂けるほど強い。そして、それは通常サイズ、約百五十センチほどの場合であるが、今彼らの家のすぐ外にいるのは、体長五メートルを超える大型のモンスターだった。生き物というのは、基本的に体のサイズに比例して、その力の総量も大きくなる。五メートルのゴリラならば家など拳で薙ぎ払ってしまえるだろう。


 そんなことが、家族全員の頭の中をよぎった。


「ひっ……」父親の体は猫に睨まれたネズミ以上に硬直した。「ヴァーチェナ……」

「ええ、あなたと一緒なら……」母親の顔はこのような危険の中でも穏やかだった。「子供達は……はぁ、に、逃げさせて」

 

 父親は妻をベッドに降ろすと、振り返って子供達に笑顔を向けた。その笑顔は無理矢理作ったものだったが、優しさと哀しさに満ち溢れていた。

 彼は子供達を持ち上げ、両脇に抱える。

「街に行け。何があっても生き延びろ」

 それだけ言い、子供達を窓から放り投げた。


 ガラスが砕け、放り出された子供達の全身を破片が傷つけた。

「バレント! メルラ! 生き——」「父さん! かあ——」


 巨大な怪物はけたたましい雄叫びを発しながら、家をその巨大な拳で薙ぎ払った。


 真っ白に塗られた木製の家は、兄妹の目の前で、轟音と共にバラバラの木片へと返った。


 家の中に残った夫婦は、様々な感情が入り乱れた笑顔を、子供達の記憶に焼き付けて消えていった。


「とおざ……ん……があざん!」

 幼い彼らにも、彼らの両親が怪物の一撃で殺された事はわかった。

 少年は外に投げ出され、地面に突っ伏したまま、手を伸ばして悲痛の叫びを上げた。


 まだ幼い少女は、ただ感情が溢れすぎたのか、地面に座り込んだまま頰を濡らすことしかできなかった。



 兵士達を先導する金髪で大柄の男は、後ろの兵士たちに大声で号令をかけた。

「行け! セントラルに侵攻を許すな!」


 少年と少女が泣き崩れる横を、オクトホースに跨った兵士達が通り抜けていく。


 地面がグラグラと揺れる。


 少年の視界が涙で狭まり、段々と暗くなっていく。

 周囲を取り囲む暗闇の中で、彼は地面を拳で殴り付ける。


「はっ……」バレントは横たわった体を震わせた。「またこの夢か……最悪だ」


 窓から差し込む暖かい陽の光が、バレントの目覚めた直後の瞼に降り注いでいる。彼が目を開けると、ソファーで寝ていた自分に気が付いた。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。


 寝そべったまま小さく伸びをすると、全身の強張った筋肉が伸ばされ小さく痙攣し、身体中の関節がパキパキと音を立てた。

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