第3話
部屋の真ん中にポツンと置かれたままの木製の椅子には、少女が包まっていた黄色いタオルケットが掛けられている。バレントが触ってみると、石鹸のいい匂いが辺りほんわりと広がるが、まだ乾ききってはいなかった。
雨漏りの受け皿になっていた食器には、並々と水が張っていた。
男は一番水かさの低い大きな銅を掴み、固く締まっていた窓を開けると、外に向かって鍋の中身をぶちまけた。他の食器に溜まった雨水を銅の鍋に移し替えると、同じようにまた窓の外へ捨てた。空になった食器達を纏めると、キッチンへ行き、シンクの中へと放り込むように置いた。
バレントは蛇口を捻って、皿や鍋に水を貯めた。更にそのまま自分の顔を猫のように洗った。シンクの上にある窓に映る自身の薄っすらとした反射を見ながら、湿った手で逆立った髪の毛を少しだけ整えた。
「こんなもんだな」
小さく頷き、長い前髪を乱雑に搔き上げると、バレントは蛇口を閉め、リビングを出た。
廊下に出て正面の部屋の深緑色の扉をゆっくりと開けると、開けていく視界の中に巨大な狼がベッドの上で丸くなっているのが見えた。
アイボリー色のシーツが掛けられた大きなベッドが部屋の真ん中を占領するように置かれている。シーツと同じ色の枕の上部には、クリーム色の薄い生地のカーテンの付いた窓があり、自然の光が部屋の中を柔らかく照らしている。
ベッドの左側には深緑色のペンキに塗られた本棚に、色取り取りの背表紙が乱雑に並べられていた。右側には本棚と同じ色に塗られたワードローブが壁いっぱいを占領するに並んでいる。
扉のきぃーという音にループは顔を上げ、部屋を覗き込んでいるバレントの方を見た。
バレントは部屋の入り口に寄りかかって、ループに向かって優しく静かに話しかけた。
「よく、眠れたか?」
「この子が眠った後でな」
狼は小さく口を開けて、少し皮肉交じりに返して、小さく顎を自分の腹の方へ突き出した。
茶色く古めかしいブランケットに包まれた金髪の少女が、彼女より数倍大きな獣の腹を枕にしてすやすやと眠りこけている。
彼女の体の周りには本棚から出してきたであろう小難しい文字ばかりが並ぶ本や、反対に絵ばかりが載った図鑑のような本などが適当なページを開いたまま置かれていた。
ブランケットからはみ出した、彼女の右手のひらには縦に一閃の傷跡が走っている。
「その様子だと、結構安心して眠ってくれたらしいな」
バレントは鼻でフッと笑う。若干嫌味なジョークだ。
アーリはブランケットの下で手と足を大の字に広げ、ベッドを広々と使って眠っていた。
ループはゆっくりとなるべく小さい挙動で、まだ夢の中にいる少女を起こさないように動こうとした。が、左前脚が下敷きになっており、少し動かしただけでも起こしてしまいそうだった。
「まぁまだ寝ていろ、朝飯を作ってくる」
バレントは声のボリュームを落として、そう言った後、ベッドのある部屋に背を向けた。
「ああ、頼む。ゴケックの目玉焼きか?」
「いや、今日はパンがかなり余ってるから、別のメニューにする。楽しみにしとけ」
バレントはそう言い残してリビングの方へと消えていった。
赤いフランネルシャツの背中を見届けた後、大きな右前足を巧みに使い、ループは自分の毛むくじゃらの鼻先やら目の周りやら額の水晶やらを撫で回した。数十秒そうやって毛繕いをしたかと思うと、頭をくたびれた枕に落として鼻から大きく息を吐いた。
ループは何か物思いにふけるように、部屋の隅を見つめてぼんやりとしている。黄色い目玉が見つめる先には、青い布がはだけた下に、木を組み合わせて作られた長さ二メートルほどの長方形の木枠にすのこを敷いたものが置かれていた。艶のある茶色のコーティングがされていて、八本の短い脚が床と木枠の底とにスペースを持たせている。
ループはその木目をなぞるように、ゆっくりと目線を動かした。木細工の所々に何かで引っ掻かれた痕が残っていて、コーティングの下の元々の木材の色が出てきてしまっている。あまり使われていないのだろうか、布やすのこに分厚い埃が被っていた。手前側の外枠には、刃物で荒く〝LOOP〟と彫られていた。
ループは自分がこの家に初めて来たときを思い出した。その日も冷たい雨が降る日だった。
骨身に染みるほど寒い冬の五番街の路地裏だった。傷だらけの体を引き摺ってどうにか食べる物を探していた。体の至る所から血は流れ、前へ進むための体力も限界に達していた。考えるための脳はどんよりとした空模様のように、暗雲に包まれていく。
体も今ほど大きくは無かったが、怪物ということだけで街には彼女の居場所などなかった。誰かに見つかっても、このまま食べ物を見つけられなくても死が待っているのが解っていた。
もういいか……。
ループは諦めて、暗い路地の隅で倒れこんだ。遠くでがやがやとうるさい街の喧騒が、彼女の耳にキンキンとうるさい。
死を間近にして、ループは真っ白な息を吐くのみだった。
自分の身体が冷たくなっていく。地面にできた自分の血の池が少し暖かい。
「……い」
幻聴か。私ももう終わり——。
「……おい、お前、大丈夫か」
今度ははっきりと聞こえた。
重たい瞼を開くと、そこには若い男が立っていた。彼の手の中には買ったばかりであろうパンが握られていた。
湿った鼻から大きく息を吸い込むと、肺の中で一度空気を溜め、枕カバーにできた布の波を押し戻すように鼻から大きく息を出した。
ループのお腹の上の少女の頭が、横隔膜の動きに合わせて上下している。少女の寝息に合わせ、ブランケットも小さくゆっくりと上下を繰り返していた。ループはただただ、ぼんやりと自分より小さな生き物が呼吸しているのを見つめていた。
リビングからは食器の音や、熱せられた油が弾けるパチパチという音が聞こえてくる。コーヒーの匂いが漂ってきたかと思うと、今度は熱したフライパンに何かを置いたようだ。砂糖の甘い香りがほのかに漂い始め、ループは鼻をヒクつかせた。この家ではあまり聞いたことのない匂いだった。
「ん……んん」
静かに寝ていた少女から声が溢れた。
ループは起き出しそうな少女の顔を覗き込んだ。小さな瞼がピクピクと動き始め、アーリはタオルケットを巻き込んで寝返りをうった。ループの腹部から重さがなくなる。
ループは心配そうに少女をただ見ていた。
少女が薄眼を開けると、やんわりと明るい中には見慣れない部屋が広がっている。バサリとブランケットを払って、上半身を起こすと隣で横たわっていた狼を見た。
寝癖混じりの髪の毛に、泣き腫らした目。寝る前も、寝ている間も落ち着きがなかったのだろう。
彼女は疲れ果てて眠った時の記憶を思い出しているようだった。
ループは目覚めたアーリをしばらく見ていたが、何も言わない少女の背中に声をかけた。
「起きたな。腹は空いたか?」
突然投げかけられた声に驚いて、少女はハッとしたように小さく体を震わせた。振り返って声の主を見ると、寝る前最後に見た狼だ、と分かったらしくほのかな安堵の表情を浮かべた。
寝起きの少女はしばらくぼんやりとループの方を見ていた。それから、寝ぼけ眼に喋り始める。
「うーん……ちっち、いく」
「ちっち?」困惑し、頭を捻るループ。「なんだそれは……鳥か?」
喋り声に気づいたのか、リビングから廊下越しに、髭面の男が覗き込んできた。
「おはよう」
突然聞こえてきた腹部に響くような低く野太い声に驚いたアーリは、慌ててタオルケットをたぐり寄せた。初めて見る物に恐怖するような顔をしている。勿論、昨日の夜にバレントとは会っているのだが。
「そんなに怖がらなくてもいいだろ」バレントはコーヒーを一口啜った。「飯、くうか?」
驚かせてしまったのを後悔したのか、バレントはなるべくゆっくりと柔らかく言葉をかけた。
昨夜の淡い記憶の中から彼の顔を思い出したアーリは、少し安心したのかタオルケットを握る力を少し緩めた。
「ちっ、ち」
タオルケットの下の体を少しくねらせ、ためらい混じりにアーリはそう言った。
「トイレか、廊下を出て右奥だぞ」
バレントは廊下の奥を指差した。
それでもアーリは体をくねらせ、ベッドの上で縮こまっている。色の違う瞳が今度は同じベッドの上にいるループに向けられた。
「ちっちとはトイレのことなのか。で、行かないのか?」
少女の不可解な行動に、大きな獣は首を傾げた。
彼女の気持ちを代弁するようにバレントが喋り始めた。
「行けないんじゃないか? 確かに今までの家とは勝手も違うだろうし、不安もあるんだろ。ループ、付いて行ってやってくれ」
「ふむ」ループは大きな体を起こしてベッドを飛び降りた。「行くぞ」
「う、うん」
アーリはブランケットから出ると、ベッドからゆっくりと降りてループの背中の毛を掴んだ。バレントの物であろう大きな黒いTシャツを、ワンピースのように着こなしたアーリはループと一緒に廊下の奥へと進んで行く。
バレントもリビングから途中まで見届けていたが、扉が閉まる音を聞きながら、リビングへ引っ込んでいった。長テーブルには白い丸皿が、二つの椅子の前にそれぞれ置かれている。
甘ったるいバニラと柔らかいコーヒーの匂いが、部屋いっぱいに充満していた。
キッチンに置かれた鉄のボウルには、白みを帯びた黄色の液体に、フランスパンを切った物が浸され、フライパンの順番待ちをしていた。黒いフライパンの上には、きつね色の焦げ目が付いた楕円形のパンが熱せられ、美味しそうな匂いを立ち昇らせている。ボウルとコンロの間に置かれた白い大皿には、焼き終わったパンが山のように盛られている。
バレントはフライパンを持ち上げ、スライドさせるように大皿へ焼けたパンを移していく。
コンロの左に置いてある、使い古された白い冷蔵庫からバターを取り出し、フライパンへ入れると、さらに追加で黄色くどろりとした液体を吸ったパンを焼き始めた。コンロの上の小窓から、甘く香ばしい香りが外に溢れ出す。
フライパンの隣では、マキネッタから香ばしい香りを帯びた湯気が立ち上っている。右にある戸棚からマグカップを取り出すと、火を止めたマキネッタからコーヒーを注いだ。今度はそれに牛乳をたっぷりと注いで、砂糖も入れてスプーンでかき混ぜた。
廊下からは六本の脚が、軋んだ床の上を歩いてくる音がする。
「大丈夫だったか?」バレントはコーヒーと牛乳をかき混ぜながらそう言った。「朝飯にしよう」
「あちゃめち?」
聞きなれない言葉を繰り返す鳥のように、リビングに入ってきたアーリがそう呟いた。あらゆる方向へ向いていた寝癖も、ループが直したのだろう、軽く整えられていた。
「何を作ったんだ? やけにいい匂いがするが」
バレントはキッチンから、焼けたパンがこんもりと盛られた皿を持ってきて、テーブルの真ん中に置いた。
「子供の頃、母親が作ってくれた朝食を思い出して作ってみたんだ」一欠け千切って口の中に放り込む。「我ながら、なかなか上手くできたと思うぞ」
アーリはテーブルに指をかけて、目線の高さにあるパンの山を欲しそうに眺めていた。昨日の晩も泣きじゃくってシチューもろくに手を付けなかったのだ。お腹は空いていたのだろう。
ループは初めて見る料理を見て、なんだか不思議そうな顔をしている。
「えっぎゅぶれっど?」
「知ってるのか」バレントはアーリのために椅子を引いてやる。「どの母親も同じような物を作るん——」
そこまで言ったところでバレントは口を噤んだ。
ループもバレントを睨みつけた。少女の昨夜の悲しみを抉ったと思ったからだった。しかし、当の本人はまったく気付いていないらしかった。
「うん!」アーリはなんとか目の前の椅子によじ登ろうとするが、上手くいかない。「うー」
もどかしさで唸り声を上げるアーリを、見兼ねたループが頭で押し上げてやる。あとは自力でなんとか席に着いた。
席に着くなり、少女は小さな手を焼きたてのパンに伸ばした。
「おっと」驚いたバレントは大皿を奥へ引いた。「ちょっと待ってろ、切り分けてやるから」
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