第14話

 死んだはずの怪物の体が、再び動き出すのと同時だった。

「アーリ、離れろ!」

 ループは咄嗟にアーリの目の前に立って、後ろへ下がらせた。


 怪物の体が電気を流した様に躍動する。首の断面の筋肉が盛り上がり、瞬く間に新しい首と頭を作り出した。怪物は、撃たれる前と同じ元通りの姿に戻った。そこからは早かった。

 怪物は首をぶんと振るって、唖然としているバレントの体を人形の様に打ち付けて投げ飛ばす。吹き飛ばされたバレントはボールの様に跳ね、冷たい雪の上を転がった。


 逆の頭がループに噛み付いて、犬がオモチャで遊ぶ時の様に振り回す。

「アーリ! 逃げろ! 逃げるんだ!」

 ループは叫んだ。だが、その悲痛の叫びはアーリの耳には届かない。

 

 絶望的な光景がアーリのオッドアイに映る。目に涙を溜め、逃げ出すこともできず呆然とアーリは立ち尽くす事しかできなかった。

 空気を取り巻く恐怖は、小さな体を震わせ、彼女の行動を押さえ込んだ。


 巨大な大蛇の無数の目がギョロリと彼女の小さな体を睨みつける。


 今まで母の様に、横で寝ていたループをおもちゃにしている怪物。自分の為に、赤の他人の為に、身の危険を顧みず働いているバレントを二度も傷つけた怪物。

 彼女の中に沸き上がったのは怒りでも悲しみでもなかった。憎しみにも似た感情が、彼女を突き動かす。


 決心した表情のアーリが呟いた。

「……たすける」

 弱々しい言葉だが、ハッキリとした決意が込められていた。

 助けたい。力になりたいと彼女は願った。

 彼女の中に眠る小さな灯が、幼い心を燃え上がらせる。

 彼女の右手が光を放つ。太陽の様な輝きが、周りの色を飲み込んで真っ白に染め上げた。雪の中に顔を突っ込んでもここまで白くはならないだろうという程だ。


「アーリ!」「なっ……」

 バレントの目の前で、アーリとループは怪物と共に光に包まれた。

 真っ白な世界の中で、少女の影が薄っすらと浮かび上がる。彼女の体から黒い線が伸びていく。それは決して真っ直ぐではなく、枝分かれして絡み合って伸びていく。格子状に絡み合ってはそこから分かれ、また絡み合う。


 光が弱まっていく。世界に色が戻っていく。

 目の前に広がっていたのは、アーリの右腕から生え、伸びる鹿の様な角。ムムジカの物と酷似していた。それが複雑に絡み合い、グラキべドムの体の至る所を貫いていた。

 体の至る所を鋭い角が貫通し、怪物は身動きを取ることも出来ない様だった。全身の穴からは血が角を伝って滴り落ちる。大蛇の冷たい目から段々光が消えていった。


 唖然とするバレントは口をポカンと開けて、その光景を見つめていた。

 噛み付かれていたループは怪物の力が抜けていくと、地面にボトリと落とされた。噛み傷からは血が流れていて、毛に染み込んだ液体は怪物の吐き出す冷気によって、針金の様に凍らされていた。

「アーリ! ループ!」バレントは脚を引き摺って近寄った。「一体何が……」

「大丈夫……だ……アーリを……」

 ループはなんとかその体を動かして立ち上がろうとするが、生まれて間もない赤子の様に脚に力が入らない様だった。

 辛うじて立っていたのだろうか、バレントが近づいた途端にアーリはその場で倒れ込んだ。彼女の右腕から生えた角が、ボロボロと崩れた。

 バレントは駆け寄って少女を抱え上げた。腕を伝わるアーリの体温が、異常に高い事が分かる。

「熱いな、大丈夫かアーリ? 何をしたんだ?」

 少女は浅く速い呼吸を繰り返していた。彼女の右腕からは、折れた鹿の角が数本生えていて、段々と彼女の体の中に戻っていく。

 バレントは彼女を抱えたまま、訳のわからない状況をどうにか飲み込もうとしていた。

「と、とりあえずシティに行くぞ。ループ、走れるか?」

「大丈夫だ……後から……行く。早く行け」

 バレントは頷くと、指笛を高らかに吹き上げた。


 閑散とした八番街の裏通り。そこにはバレントが常日頃、世話になっている開業医が住んでいるのだ。

「ドクター!」バレントは古ぼけた病院の木製扉が吹き飛ぶほど力強く蹴り開けた。「この子を見てくれ、発熱が酷いんだ!」

 消毒液と薬を混ぜた匂いが鼻を刺す院内。中にいた白髪の医者は扉が壁にぶつかる音で驚き、カップを持つ手が揺れた。

 まだ入れ立てだったのだろうか、湯気の立つコーヒーが白衣にかなりの量こぼれた。それでも老齢の医者は、動揺する事なく、テーブルの上のタオルに手を伸ばした。

「バレントか……少し落ち着け、叫んでも病気は、どこにも行かん」医者は木のスツールの上で、白衣についた染みをタオルで拭っている。「呼吸が荒いな、その子を診察台へ寝かせろ」

 コーヒーの染みを諦め、バレントが診察台の上に寝かせたアーリを診察し始めた。

 医者がアーリの額に手を置き、少女の体温を確かめると、彼は顔を顰めて首を振った。

「……驚きだな。この体温で生きていられる人間、特に子供はほとんどいない」医者は聴診器を片耳に挿して、アーリの胸の音を聞いた。「呼吸は荒いが異常は見られないのだが……」

 バレントは医者の横で診察の様子を心配そうに見ていた。居心地悪そうに手を開いたり、閉じたりしている。

 医者は聴診器を外して首に掛け、まだ息の上がっているバレントに尋ねた。

「何があったんだ?」

 バレントはアーリの右腕をまくって見せた。少女の腕から生えていた角が、時間を経て小さくなっていた。正確には、バレントがここへ運んでいる道中で、彼女の体の中へ戻っていったのだ。血は流れていない。ただ右腕の皮膚を貫通して鹿の角のような物が生えている。

 医者は少女の腕の異常を見て、驚きと困惑の入り乱れた表情を見せた。

「なんだ……これは……刺さっているわけじゃない。生えているのか?」

「俺にもよく分からないんだ……死んだと思った怪物が再生して危険な状況になった。俺とループが動けなくなって、彼女が光を放ったと思ったら、角が彼女の腕から伸びてその怪物を貫いたんだ」異常な光景を目の当たりにしたバレント本人ですら、言葉一つ一つをひねり出しながら、医者が理解できる様に説明した。「何を言っているか分からないと思うが……きっとアーリは、俺らを守ってくれたんだと思う」

「……もしも、話だけ聞いていたら、お前が幻覚を見せるきのこでも食ったのかと思ったが……」医者はアーリの右腕を今一度見た。「何か思い当る節はないのか? かなり長い間、一緒に暮らしているんだろ?」

「分からない……ごく普通の子供だが……」バレントは数秒考え込んだ。「メシを俺以上に食べることぐらいだが」

 バレントは鞄を漁って手帳を取り出し、ペラペラとページをめくっては頭を捻った。手帳にはバレントから見た、アーリの様子が事細かに書かれている。一年ほど前から書き溜めているメモだった。

 医者は立ち上がって、診察台のすぐ脇の薬棚に置かれた瓶を何本か取り出した。

「長年医者をやってきているが、正直……こんな患者は初めてだ」瓶から白い粉を測り、薬包紙にそれを載せた。「解熱剤を飲ませて、暫く様子を見る。熱が下がるまで、彼女にはここで入院、安静にしてもらう。少し強い薬を出したから、直ぐに熱は引くはずだ。そして、俺が分かるのは、異常な発熱を引かせることだけ。腕については情報が無さすぎるし、手の出しようがない」

「ああ、ありがとう、ドクター」


 医者はアーリの上体を軽く起し顎を引いた。開いた口の中に薬包紙から滑らせて粉薬を飲ませた。それを流し込めるように、今度は水を飲ませてやった。

「これで熱が下がってくれるといいが……」医者はアーリを再び寝かせる。「バレント、お前も怪我してるな、見せてみろ」

 バレントは右脚に巻いていた包帯を外した。裂けたパンツと、その下の生々しい傷口が見える。

「なかなか派手にやったな、べドムとやりあったんだろ?」医者は傷口を精製水で洗い流し、綿に染み込ませた消毒液を塗りつける。「ちょっと待ってろ、解毒薬を出してやる」

「いつも世話になってすまないな、ありがとう」

「ああ、いいんだ。お前はいつもシティの為に働いてくれるからな」今度は液体の薬を注射器に吸い上げた。「べドム種の毒はそこまで強くない……だが、死んで再び生き返るんだ、話を聞いた限りでは新種の可能性もある。安定するまでは暴れるなよ」

「ああ、分かってる」

 バレントはジャケットを脱ぎ、肩をはだけさせた。

 老齢の医者はシリンジを数回指で弾いて空気を抜いて、肩を消毒してから注射した。

「お前は無茶をしがちだからな。あまりその言葉は信用していないが……まぁ大丈夫だろう」

 医者は中身のなくなった注射器を分解して、消毒液の溜まったタブに落とした。

「包帯は自分で巻けるだろ? 傷口に巻いとけ」そういうと医者は席を立つ。「俺はセントラルの病院で症例があるか聞いてくる。その間、ここで彼女と一緒にいてやってくれるか?」

「ああ、ありがとうドクター」

「暇だったらその辺の医学書でも読んどけ」

 医者は白衣を脱ぎ、ドア脇のコート掛けから、代わりに薄手のコートを羽織って病院を後にした。

 バレントは鞄から包帯を取り出して、傷口の上にぐるぐると、丁寧に巻きつけた。

 テーブルの上には医者が飲んでいた飲みかけのコーヒーがポツンと置かれている。その上には小難しそうな分厚い本やファイリングされたカルテが本棚にきちんと整理されて並べられている。


 院内はドアを開けて直ぐの診察部屋になっていて、カーテンで仕切られた奥は患者が入院するためのベッドが並んでいる。建物自体は古めかしいからか、置かれている物は新品同様の物が多いのがやけに目に付くが、きっと総入れ替えしたのだろう。

 などとバレントが考えていると、アーリが少しもぞもぞと動いた。

「ばれんと……けがした?」

 アーリは熱に浮かされながら、包帯を巻き終えたバレントに話しかけた。

「……大丈夫だ、お医者さんに見てもらったからな」バレントは眠っているアーリの横で穏やかに話しかけた。「気分はどうだ? 苦しくないか?」

「だいじょ……ぶ」アーリは喋るのも辛そうだったが、大きく息を吸ってなんとか言葉を紡いでいる。「る、るーぷは? どこいっちゃったの?」

「アイツは大丈夫だ、毒の耐性もあるし、再生は普通の怪物の五十倍はあるからな。今頃、近くまで来ているんじゃないか? 心配する事はないさ、静かに寝ていような」

 バレントはアーリを落ち込ませまいと、トーンを上げてしゃべる。

「そっか……」

 そこまで言ってアーリは眠りに落ちたようだった。薬の効き目もあってか、最初より顔の赤みも少し引いたようにも見える。


 バレントはアーリの寝顔を見て、少し安心を覚えた。ドクターの座っていたスツールに座り、本棚から一番薄い医学書を取り出して眺め始めた。よく分からない単語が並ぶ本だ、内容が全く入ってこなかった。さらに彼の頭の中で色々な情報が、ぐるぐると回り始めていたからだった。

 ガードベルに言われた「危険物」という言葉と、怪物を一瞬にして殺したアーリ。左右の目の色が違う少女と、手の平に残る手術痕。脳内のパズルのピースが繋がりそうで繋がらない、ヤキモキする感情も、後ろで眠っている少女の寝顔を見ると少し消え去ったように感じた。

 こんな少女が街を破壊する危険物な訳がない。だったら、他の怪物の方がよほど危険だろう。


 数十分後、病院の外から重たい鎧の音が聞こえたかと思うと、扉が力強くノックされた。おんぼろの扉が変形するほどの力だった。

「開けろ、兵団だ! 開けなければ蹴破るぞ!」

 不穏な空気を感じ取ったバレントは、近づいてゆっくりと扉を開けた。

 外には五人の兵士達が、出入り口を塞ぐ様に仁王立ちしている。ヘルムの隙間から見える彼らの冷たい目は、醜い物でも見るようにバレントに、そして後ろに眠っているアーリに向けられた。


 彼らの先頭に立つ隊長格の男が、巻紙を取り出してそれを高らかに読み上げ始めた。

「アーリ・レンクラーは超変異の影響を受けているとの情報が入った。市民の安全確保の為セントラルの病院に搬送し、こちらで管理することが決定した」

「ちょっと待ってく——」

「搬送しろ! 研究対象だ、傷付けないようにな。 バレント・レンクラーは拘束しておけ、こいつは危険な存在を匿っていた無法者だ!」

 バレントの言葉など聞きもせず、兵士達は病院の内部にズケズケと侵入し、少女を担架に乗せて運んで行った。

 別の兵士達はバレントを抑え込み、暴れるバレントの腹を殴りつけ、地面へ転がして押さえ込んだ。抵抗できない彼を、兵士らはロープで腕と足をぐるぐる巻きにし、拘束した。

「おい!」バレントは指示を出していた兵士に向かって怒鳴り付けた。「ちょっと待ってくれ、どういう事なんだ?」

「行け、お前ら」兵士のリーダーは手を払って、行けというジェスチャーをした。「バレント・レンクラー、貴様は、危険物をキュービックシティに持ち込んだ罪で死刑にされてもおかしくない。だがエレンボス様のご慈悲により、今生きることを許されている。身分を弁えろ、それでも反抗すると言うのならこの場で手打ちにしても良いとの許可を頂いている。もちろん、分かっていると思うが、バカな事を考えるんじゃないぞ?」

 隊長格の男は腰に差した剣を抜き、部屋の隅で倒れ込んでいるバレントに向けた。

 バレントは奥歯を噛み、兵士を睨みつけた。それが彼の出来る精一杯の反抗だった。

 兵士はバレントの腹に蹴りを入れた。

「逆賊が! そこで寝ていろ」

 そう吐き捨てて、病院の扉を必要以上に力強く閉め出て行った。


 バレントは後ろ手に結ばれたロープをどうにか外そうと体をくねらせる。ホルダーに差したナイフに手を伸ばそうとするも届かない。

「クソッ!」バレントは自身の無力さに頭を地面に打ち付けた。「一体何が起こってんだ! なんでアーリが……」

 病院内に響く怒声。それは誰の耳にも届かないことも、バレントは知っていた。

 

 そして続く静寂。ロープが床を擦る音。ナイフの柄が石床に打ち付けられる音。

 建物に染み込んだ消毒液と薬品の匂いがバレントの鼻を刺す。

 こうやって横たわっていると、消毒液に浸されたシリンダーの気持ちになってくる。そんな意味の分からない思考がバレントの脳に湧いては消える。

 大きく深呼吸すると、コーヒーの僅かな残り香が鼻腔をくすぐった。少し落ち着くために、目をつぶって微かな香ばしい匂いを手繰り寄せた。バレントの頭に上った血が少しずつ引いてくる。ふうとため息をつくと、バレントの体から一瞬完全に力が抜けた。


 体が動かせないならばと、バレントは頭の中でパズルを解き始めた。異質な力を持つ少女アーリと街、そしてオーソリティーが描かれたパズルだ。

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