第11話

 バレントが一番街を出る頃には、陽が西へ落ち始めている。草原全体は真っ赤に染まり、秋の涼しい風が吹き流す。

 デューランの森をオクトホースで駆け抜けて、家に着いたのは午後八時を少し回った頃だった。


「悪い、遅くなった。今から飯作るから少し待ってろ」

 バレントが玄関をゆっくりと開けると、クリスタルランプの柔らかな橙色の光がリビングルームから廊下にこぼれ出しているのが見える。

「……おかいりー」

 アーリの眠たそうな声が聞こえてくる。バレントの帰りを待ち侘びてうたた寝してしまったのだろうか、目の周りが少し腫れぼったい感じだった。それ以上に口元に涎が垂れているのだ、眠っていたのは確実だ。

 ループも寝てしまいそうだったのか、ソファーの上でダラリと体を休ませていた。だが、バレントが帰ってくるなり、頭をソファーに顎をつけたまま、三角の耳をピクリとそばだてた。

 ソファーの前にあるテーブルには、詰まれた三冊の本。その横には取り組んでいる途中のジグソーパズルが置いてある。まだ外枠が埋まった段階までしか進んでおらず、湖畔の景色であろう輪郭だけが机にぽっかりと乗せられている。


 ループはバレントがリビングに入ってくる音で、ゆっくりと頭を持ち上げた。

「結構時間かかったな、ナーディオにでも捕まったか?」

 バレントは鞄のリビング入口の横に置くと、中をゴソゴソとひっかき回し始めた。

 緑色の瓶に入った液体を取り出し、色の違うクリスタルを何個か箪笥の中へ放り込むと、二冊の本をアーリに差し出した。

「図鑑らしい図鑑じゃないかもしれないが……青いのが怪物についての本だ。難しいかもしれないから、ループと一緒に読むといい。赤い方は店主のおすすめを買ってみたんだが……面白いといいんだが」

「あいがとう!」

 本を見るなり、アーリの顔から眠気が吹き飛んだようだった。

「それとこれだ……」

「こえ、なに?」

「ああ、それは栞って言ってな。本の間に挟んで使うものだ」そう言ってバレントは栞を赤い本に挟んで見せた。「読んでいる途中で中断する……あー、読んだところを忘れないために使うんだ」

「……しおり?」アーリは天井の電灯に木の栞を翳して、模様を眺めた。「き?」

「オークウッドのように見えるな、かなり繊細に作り込まれているな」

 木の板をくり抜いた栞が、電灯の灯りに照らされ、雄大に葉を茂らせる大樹の輪郭を浮かび上がらせた。それを見たアーリはくしゃっとした笑顔をバレントに向けた。

「あいがとう、ほん、よむね!」

「……そんなに喜んでくれるとは嬉しいな」

 バレントは鞄と緑の瓶を持ってキッチンへ入っていく。リビングと同じ色の光がキッチンを明るく照らした。

「今日は熊肉料理だ。なんでも、鍋って呼ばれる料理らしい。三番街の名店でコツを聞いてきたんだ。そこの店主の家系は、先祖代々料理の腕を磨いて後世に伝えてきたらしい」

「鍋とは料理するときに使う器のことじゃないのか?」

「それも鍋だが、今日作るのは鍋料理という煮込み料理の類らしい。俺も初めて作るんだが、脂の多い肉とでも相性がいいんだとか。大きめの鍋で肉と野菜を煮込む、言ってしまえばスープみたいな料理らしいんだが、なんでも具材を多めにしたものが鍋料理ってことみたいだ」

「おいおい、初めてで大丈夫か? 煮込み料理を失敗した時はかなり不味くなるぞ……」ループは本を眺めていたアーリの横で、顔を若干引きつらせてキッチンの方を見ている。「前に挑戦した煮込み料理はなんだったかな……名前は忘れてしまったが、あれは味が濃過ぎだったような」

 心配そうなループの声色からバレントの料理の腕を本当に信用していないことがありありと伝わってくる。そんなことは御構い無しに、バレントは冷蔵庫から肉を取り出すと、慣れた手付きで肉を薄く切っていく。

「心配は無用だ。実はその店主と仲良くなってな、スープの元とある調味料をもらってきたんだ。これを水で少し薄めて、野菜と肉を煮込めば完成するらしい。これだけあれば料理下手の俺が作ってもある程度の味にはなるさ」

 バレントはキッチンからリビングを覗き込み、緑の瓶を振って見せた。

「ほう、それは楽しみだな」ループはそれでも首を傾げている。「スープってことは寒い冬の時期にもぴったりそうだ。もしうまくできたら……だけどな」


 バレントは黙々と何かメモを見ながら、冷蔵庫から色とりどりの野菜を取り出しては食べやすい大きさに切り分けていった。幸いアーリは野菜嫌いではなく、どちらかと好んで食べてくれる方だったのでバレントは多めに野菜を取り揃えていた。


「よしできたぞ……」バレントはスプーンで、鍋の中でグツグツと煮立つスープを掬って味を見た。「うん、これはうまいな。野菜と肉の旨味がきちんとスープにでたはずだ」

 直径四十センチほどの鉄製の鍋の中には、肉から出た脂の溶けた黄金色のスープがぶくぶくと湧き、溶け出た旨味を吸って、しなる色取り取りの野菜。全ての素材の良い部分が溶け込んで湧き上がる湯気。バレントは鍋敷きを敷いたダイニングテーブルに鍋ごと、それをゆっくりと置いた。

「できたぞ。冷める前に早く食べよう」

 ループとアーリはバレントが声を掛ける前に、キッチンで出来あがっている料理の匂いを嗅ぎ付けて、テーブルに腰掛けていた。

「おいちそう! やさい、いっぱいだね」

「バレントの料理にしてはかなり美味そうだな」

「言うじゃないか。さ、取り分けてやるから待ってろ」

 バレントは小皿とおたまをキッチンから持ってくると、鍋から小皿に一掬いずつ取り分けた。アーリは待てないと言った様子でスプーンをしっかりと握っている。

「熱いから冷まして食べるんだぞ」

 バレントは丸い小皿に、鍋の具をたくさんよそって、アーリの目の前においてやった。

「うん! ふーふー、する! ふー、ふー」

 スプーンに掬われた濃い黄金色のスープと薄切りの熊肉、葉物野菜にアーリは息を吹きかけ、冷ましてから口に運んだ。

「ん! ほいひい!」

「そうかそうか」バレントはアーリの笑顔を見て少し恥ずかしそうに笑った。「気に入ってくれたならよかった。熊種の肉は少し癖があるからな」

「……たしかに、熊肉なのに臭みがほとんどないな、どうやったんだ?」

「クリスタルを抜いた後すぐに湖に入れて血抜きをした上で、ガーレルの店の近くに香辛料を売ってる屋台があっただろ、そこの店主と相談してみたんだ。今回は数種類のハーブを組み合わせたミックスに漬け込んでみた」

「なるほどな、バレントにしてはやるじゃないか、野菜とも合っているぞ。それで……スープのほのかな香ばしさと言うか……初めて食べる味だが……なんなんだ、これは?」

「ミソっていう名前の調味料って言っていた。なんでも豆を発酵させたものらしいんだが、それを使うと塩味と旨味を多く含んだスープになるんだ。あとはもらってきたスープと合わせただけだ」

「その料理店に感謝だな。料理下手のバレントでもこんなに美味くなるなんて、そいつは本当に天才なんだろう?」

「フッ……いつにも増して辛辣だな」バレントは皿に残った最後のスープを一掬い、口に運んだ。「なにはともあれ喜んでくれたなら、色々聴き込んだ甲斐があったってもんだ」

 バレントは鍋からもう一杯掬うと、自分の小皿によそって黙々と食べ進めた。アーリも小さい口を大きく開け、熊の肉を放り込んでいく。ループは皿に顔を埋める勢いで、鼻先を突っ込みながら皿の中身を味わった。

 三人は熊肉や野菜の食感をゆっくりと、舌で、歯で、そして喉で味わった。寒くなってきたこの時期の鍋は、内側からじんわりと冷え切った体を温めた。皿に残ったスープをも飲み干した。


 鍋が空っぽになると、三人はほぼ同時にふうと息をついた。ぽかぽかといい気分が食卓に広がる。

「ごしそうさまでした!」「ごちそうさま」

「うまかったな。まだ熊肉はあるし、いろんな料理を試せるぞ」

「バレント……ステーキ辺りでとどまってくれ……」

「すてーきで、ちょどまってくれ!」

「ハッハッハ、アーリにまで言われちまうとはな……もっと料理の腕を磨いてやろう」

 ループは飯を食べ終えるなり、机の上に置いてあった本を取って、床の上で開いた。

 バレントは空になった鍋と食器を流しに置くと、リビングに戻ってきてソファーにすとんと腰を下ろした。アーリはバレントの横まできて、楽しそうに弾んだ声をかけた。

「ぱずるしよ!」

「……よし、手伝ってやろう。どのピースから始めるんだ?」

「うん! これは……どこ?」

 アーリは赤茶色っぽいピースをバレントに差し出したが、バレントは困惑した表情を浮かべた。

「これは……わからないな。こっちはどうだ?」

 バレントは机に手を伸ばし、他のピースを差し出してやる。

 アーリは数秒、それを手にしてくるくると回しながら考えた。

「……あ!」その水色のピースを右下にはめ込んだ。「できた!」

「おお、すごいな。次はこれなんてどうだ?」

「これは……ここだ!」

 今度は鹿の頭が描かれたピースを左下あたりにはめ込む。アーリはそれを見て、満面の笑みをバレントに向けた。

 アーリはパズルをうーん、うーんと悩んでいたが、何かを思い出したかのようにバレントの顔をぼんやりと見つめ出した。

「どうした? 飽きたか?」

「ううん……あのね……ばれんとのおしごとについていきたい」

 咄嗟の事に、意表を突かれたバレントは、返事に使う言葉を手繰りよせた。

「それはダメだ……」

 幼い好奇心が危険に飛び込もうとするのを抑え付けるため、出てきたのはかなり強い言葉だった。少なくともバレントはそう思った。そして言った後に少し後悔したが、本心から出た言葉だった事に変わりなかった。

 アーリはみるみるうちに泣きそうなほど悲しい表情を浮かべた。

「なんで……だめなの?」

「危ないからだ」バレントは居心地悪そうに唇を噛んだ。「逆に聞くが……なんで狩りについて来たいと思ったんだ?」

 アーリは手に持っていたピースを見つめて俯いた。彼女の胸の内を、彼女が持てる言葉でバレントに打ち明け始めた。

「あーりも、やくにたちたいの。おてつだいしたいの……」

 バレントはハッとさせられた。

 自分がアーリの扱いで悩んでいる間に、この幼い少女はこんなことを考えていたのだ。恩義を感じさせてしまったのかもしれない。それとも、自身の居場所に疑問を感じさせてしまったのかもしれない。もしかしたら、本当は家にずっと家にいるのに疲れてしまったのかもしれない。どちらにせよ、アーリを悩ませてしまっていた事をバレントは恥じた。

「アーリ、その気持ちはありがたいが……」バレントはアーリの肩を撫でた。「俺はアーリが楽しく過ごしてくれるだけでいいんだ。別に無理する必要はないんだぞ」

「うん、でもかりに、ついていきたいの。ばれんと、つかれてるから」

 いつにも増してアーリは引き下がらない。この家での生活に慣れてきたということもあるだろうが、それだけアーリの気持ちは強かったのだろう。小さい子供ながら、大人の事をよく見ているというのにバレントは驚いた。

「む……そうか」

 バレントは悩んだ。子供の好奇心に答えるべきか、安全を取るべきなのか。どれだけ怪物が危険だ、という事を教えるのもこの世界で生きていくには必要な事ではある。しかし、それをまだ四歳の少女に叩き込むのは憚らられるというのも事実だ。

「そうだな……六歳になったら連れて行ってやる。それまでは……我慢してくれるか?」

 バレントの考えが出した答えは、先延ばしだった。アーリは今四歳。二年の歳月の中で、彼女の好奇心が別の事に逸れるのを願ったのだ。

 きっと、二年もあればアーリも、今日買い与えた本を読み切るだろうし、怪物の危険性を理解してくれるだろう。彼女には怪物とは程遠い人生を歩んで欲しい、バレントはそう思ったのだ。 

「……うん!」アーリは素直にその言葉を受け入れ、またパズルに思考を戻した。「これはどこかなあ……?」


 アーリがピースを持ったまま、考え込む時間が段々と長くなってきたかと思うと、彼女はそのまま机に突っ伏して寝息を立て始めた。

 アーリの顔の下には、三十パーセントほど完成した春口の湖畔の絵が浮かび上がり始めている。三頭の毛の長い鹿がゆったりと湖畔を歩いていく。そんな風景だった。

 バレントはアーリを起こさないように抱きかかえると、ベッドまで運んでいき、毛布を掛けて寝かしてやった。先ほどシティで買ってきた新品の大きな毛布だ。

 バレントの後ろに付いてきたループはベッドにゆっくりと上がると、アーリにかけられた大きな毛布に潜り込んだ。

「おやすみ」

「ああ」

 バレントが部屋の電気のスイッチを切ると、真っ暗になった部屋の中でループの黄色い目がゆっくりと閉じるのが見えた。

 それを見届けたバレントは、長く伸びてきた髭を摩りながら部屋のドアを静かに閉めた。リビングに戻ると、パズルの上に一枚の紙を広げて、なにやらどこかの家の外観とその見取り図を書き込み始めた。

「ベッドルームは三つにした方がいいか……二階に二つ……向かい側は空き部屋でもいい、倉庫に……」

 なにやらブツブツとバレントは呟きながら、橙色の部屋の明かりに照らされた紙の上に、ペンを走らせている。たまに額を摩っては、ペンの頭で顎髭を撫で、さらに見取り図を書き込んでいった。


「玄関の横を階段にするか。アーリの部屋の横がループの部屋で、向かい側を……こんな感じだな。倉庫と厩舎と解体場はもう少し広げたいが、フェンスを……」

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