第18話
その部屋の中には、一本につき人間が五人は入りそうなほど大きな円柱の水槽が四本並んでいる。全ての水槽は怪しく煌めくネオンイエローとネオングリーンを混ぜたような色の液体で満たされていた。四つの内、三本には内部にはぬめぬめとした質感の怪物達が詰め込まれている。多くのケーブルが怪物の体に繋がれていて、水槽の上から外に垂れ下がっている。
そして真ん中右の水槽の中には、ケーブルに繋がれた少女の姿があった。
水槽の前には大きなテーブルがあり、並べられた四つのディスプレイの黒い背景の中で、様々な数字が、増加したり静止してみたりを繰り返して、いくつかの何を表しているか分からないグラフが上下している。
水槽から出た数百本のケーブルは様々な計器を経由して、一本のカラフルな巨大ミミズのようになり、テーブル脇に置いてある三メートルほどの黒いボックスに繋がっていた。
「なぁ、エレンボス。食ってもいいだろぉ? 片足ぐらい無くったって、研究には支障は出ないはずだぞぉ」
丸々と太ったその小柄な男は水槽の中にいる、少女をうっとりと見つめた。丸めた頭と欲にまみれてだらしなく垂れた顔が、少女の浮いている水槽のガラスに反射して写っている。
彼の着ている真っ白な法衣に涎がだらりと垂れた。溢れ出た涎を手の甲で拭って、唇にまだ残った物を、また舌で舐めとった。
彼の重たい体重を支えている椅子は金属で出来ていた。金属で出来た人間の脚のような機構が座面下部分から四本伸びている。これが、この椅子の脚だ。
背もたれから伸びるケーブルが、太った男の頚椎に直接繋がれていた。彼が振り返る時には、椅子の四本の脚がまるで生きているかのように、向きを変える為に駆動する。
「少し静かにして頂けますか?」
太った男が振り返った先には、ディスプレイに表示されている幾千もの数値とにらめっこをしている白衣の男がいた。ボサボサの髪の毛に、黒い縁のメガネ。彼は普段もここでこうしているのだろうか、かなり機械を使い慣れているようだ。
「ダメですよ、ゲルブ様。それに人間は、きっと美味しくありません。家畜は常に同じ餌を食べているから、クセがなく食べやすいのです。貴方が野生の怪物肉を好きではない事も知っています」白衣の男は顔をあげ、メガネをクイと持ち上げる。「それに脚を欠いても、研究に支障が出るのです。これはこの世界を揺るがすほどの技術ですから——」
「知らないよぉ、おれは新しいのが、食べたいんだ。この子も珍しい人間と怪物のハーフなんだろぉ? きっとおいしいよ」
「少し静かにしていて下さい、もうすぐ終わりますから」
エレンボスは子供をあやすように穏やかに、それでいてぴしゃりと頰を叩くようにそう言って、キーボードを叩き始めた。そして、ちらりと腕の時計を見る。
ゲルブはムッとして水槽に向き直り、再び水槽の中に入れられて眠っている少女を、舐めるように眺め始めた。
ディスプレイを眺めているエレンボスの背後で、扉が二回ノックされる。
「エレンボス様! 伝令兵です!」
若々しい男の声が、ノックに続いた。
エレンボスは気にせずに、無の表情のままディスプレイを見ている。
「なんだっでぇ」ゲルブの椅子はグルンと回転すると、扉の方へ歩いていく。「うるさいなぁ、いったい何が——」
ゲルブがドアノブを捻ると、扉がゆっくりと開き、スッとショットガンの銃口が彼の頭に突きつけられた。
「う、うげぁ!」
太った男は、気色の悪い悲鳴を上げる。
扉が全て開くと、兵士の首にナイフを当てた髭面の男がいた。兵士の右腕と体の間から銃を突き出しているのだ。
まだ二十歳か、そこらの若年の兵士は首筋に当たっているナイフがさらに食い込もうとしているのを感じて、ヒィと声を漏らした。
バレントは部屋を見るなり、アーリを発見し安堵する。
静かに、それでいて怒りに満ちた声色でバレントは太った男に命令する。
「下がれ、俺は躊躇わないぞ」
それと同時に銃口でゲルブの頭を小突いて下がらせた。
太った男は恐怖に顔を歪めて、ゆっくりと椅子に後ろ歩きをさせた。
何事もないようにディスプレイを見ていた白衣の男は、ゆっくりと立ち上がる。かと思うと両手を頭より高く上げ、ゆっくりとバレントの方を振り返った。
「やはり来ましたね。ハンター・バレント。まぁ、兵士の彼を離してくれませんか? 彼に罪はありませんからね」
男は不敵な笑みを浮かべて、バレントの目をまっすぐに見つめている。
しばらく考えたがバレントはナイフに入れた力を抜き、兵士を解放した。
「ひ、ひぃい……」
呆気に取られている兵士に、エレンボスは行けと手を払うと、兵士は転げ落ちるように廊下へ走り出て、廊下の奥へ走り出した。
「どういうことだと、エレンボズ。早くころせばいいだろぉ」
「少し静かにしてくれますか? 私はハンター・バレントに話があるのです」
白衣の男は淡々と、落ち着いた様子だ。
「話だと? 俺はアーリを取り返しに来ただけだ」
バレントは飄々としている白衣の男に少し腹が立ってきた。理由はどうであれ家族を誘拐し、そんな事どうでもいいといった感じで、のらりくらりとした表情を浮かべている。怪しい動きを一瞬でも見せたら銃の引き金を引いてしまいそうだ。
「まぁ、娘はお返ししますから。まずは話しを聞いてください」
男は銃を目の前にしても、ゆったりと喋る。
バレントはナイフをしまって、代わりにライフルを抜いて、エレンボスに銃口を向けた。これで両方に銃口が向いている。
その様子を見て、エレンボスは少し慌てて手を振った。
「まぁまぁ、落ち着いて下さい」男は首を右に二回倒した。「あちらの椅子にお掛け下さい」
右の壁際には小さなテーブルと、二脚の椅子が向かい合うようにポツリと置かれている。
太った男は焦りだし、声を荒げた。
「早ぐごろぜよ、グゾメガネ! こんなやづ、グゾだ——」
エレンボスは一瞬、冷酷な表情になった。先ほどまでの冷静で穏やかな彼ではない、別の何かに乗り移られたように。
「うるせぇな、黙れって言っただろクソ豚」エレンボスは懐に手を入れ、銃を取り出してゲルブの頭を一切躊躇無く撃ち抜いた。「……さ、座りましょう」
元々ゲルブだった肉片や血しぶきがエレンボスの白衣にべったりと付着した。そんな事も気にせずに、銃をまた懐へ仕舞い、両手をあげた。
それでも何事もなかったかのように、バレントを先導し、白衣の男はテーブルへとゆっくり歩いていく。
「どうなってんだ……」
この状況は、バレントにも理解できなかった。
敵が敵を撃って頭を吹き飛ばし、不敵な笑顔で話をしたいと言うのだ。それでもバレントに銃を向けようと思えば、向けられた状況でそれをしなかった。
話をしたいというのは本当なのだろう。
エレンボスの後ろをついて行きしな、バレントは水槽の中で眠るアーリを見た。彼女の口元の酸素を送り込む装置から、ゴボゴボと気泡が吐き出された。小さく胸が上下している。生きているのだ。
壁にピタリと付けられた小さなテーブルと、二脚の木製椅子。テーブルの上には、黒と白の水晶で作られたチェス盤とチェス駒が置かれている。
太った男の頭の肉片が、ボードの上や駒にまで吹き飛んでいた。白衣の男は胸元から真っ白なハンカチを取り出して、害虫払うようにその赤黒い欠けらを地面へ落とした。
「どうぞ?」
白衣の男は彼の反対側の椅子に手を差し出した。座れと言う意味だろう。
バレントは彼の異常さに警戒を払いつつ、カバンを下ろして、そこに腰掛けた。ショットガンは相手に向けたままだ。
「おっと、失礼しました」そういうと、男は胸元から小型の拳銃を取り出し、机の上にゆっくりと置いた。「銃口を向けられたままではゆっくり話も出来ませんからね、貴方もそのままではきついでしょう?」
私も置いたから、おけという事だろう。バレントは渋々銃を降ろしたが、完全に置く事はしなかった。
「ふむ、まぁいいでしょう」
「話とはなんだ、早くアーリを返せ」
「落ち着いてください……さて、どこから話しましょうか? あぁ、そうですねぇ」男は自身の左腕を出し、右手の人差し指で二回トントンと叩いた。「それ、電源切ってくれますか? 本当に、あなたとだけお話したいので。その奥にいる人間は邪魔なんですよ」
そういうと、男はルークの駒を手に取り、ハンカチで拭い始めた。
バレントは驚いたが、この部屋の異常さや男の意味不明の行動を考えれば、エレンボスが装置のことを知っていてもおかしくないだろうと思った。
「わかった……少し待ってくれ」バレントはそう言うと左手を持ち上げた。「ロッド、アーリを見つけた」
《よかっ——》
通信機越しのロッドの声がブツリと途切れた。
「これで、いいか?」
バレントは伏し目がちに、エレンボスにそう尋ねる。
白衣の男は小さく一度頷くと、駒を置き、また別の汚れた駒を取って、静かに喋り始めた。
「そうですね……あなたは人間の欲求が暴走すると、どうなると思いますか? あなたにはどんな欲がありますか?」
「欲求か……」バレントは横目でアーリを見た。「平和に暮らしたいくらい、だが……それとこれが——」
バレントの言葉を遮って、男が喋る。
「関係というよりか……人間の欲求がこの世界を生んだのです。そして、既存の欲求を満たせば、さらに新たな欲が生まれます。そうして人類は進歩してきました。しかし、ルークズ・オーソリティーの五人は、欲の荒波に溺れたのです」
バレントは静かに顎髭を撫でた。彼の語りに耳を貸して良いものだろうかと、半信半疑のまま口を出す事はしなかった。エレンボスと呼ばれた男の狂気の片鱗を見たからこそ、目の前にいる彼の静かで淡々とした言葉は、嘘ではないのかもしれないと思える。
「欲求の限界を超え、今までの世界に無い物を
「よくわからないな、お前達がこの世界を変えたのか? 怪物を生み出して?」
バレントは事の大きさに、怒りを覚える事も出来なかった。自分の理解を大きく超えているのだ。
「怪物はただの道具、世界を変える為の手段に過ぎませんがね……」白衣の男は少し、上方の虚空を見つめた。「珍しいクリスタルが発掘されたのが、事の発端でした。数百年も前の事です」
「……数百年か、ガードベルのあの体を見たらもう驚く事でもないな」
エレンボスは静か、「ええ」と頷き、話を続けた。
「私はその発見に大いに感激し、これを日夜問わずに研究する為、研究室に篭りました。数十年の研究の末に、私はそれに生物の遺伝子を組み込んで、他の生物に埋め込むことで本来の進化の軌道を変え、捻じ曲げる事ができるのを発見しました。しかし、私はそれを悪用するつもりはなかったのです」彼は乱れたチェス駒の陣形を戻した。「問題は……その成果を知った彼ら四人でした。私を仲間に引き入れました。新しい世界を……より良い世界を作ろうと……ほのめいたのです」
「……なるほどな」
バレントはただただ、頷く事しかできない。内側では少し苛立ちを覚えていた。彼がつらつらと言い訳をしているように感じていた。
「蓋を開けてみれば彼らは、彼らの欲求を満たす為だけに、怪物を生み出そうとしていたのです。食欲を満たす為、ハイカラに着飾る為、自ら生み出した怪物という危険を討伐し英雄になる為、そして世界を破壊し、好きなように再構築する為」
バレントは静かに首を振る。そして、一つの質問を投げかけた。
「なぜ止めなかった? お前もまた自分の欲求の為に、怪物を生み出していたんじゃないのか? 俺はそれを棚に上げて、自分を正当化しているようにしか聞こえないんだが」
「……確かに、そう、見えるかもしれませんね。私も知識欲求を止められなかった。知りたかったのです。クリスタルの、この技術の行く末を」そういうと白衣の男は立ち上がり、机の上の写真を取って戻ってきた。「ただ、そんな研究しか能のなかった私を、一人の女性との出会いが変えました。彼女は私を愛してくれた。空っぽの研究をするだけの機械に成り下がったこの私を……」
バレントはその写真を一目見ただけで全てを察した。
数年前に取られたであろう写真には、今と変わらない姿のエレンボスと一人の女性が写っている。
金髪に柔らかな笑顔。自分と同じ青い瞳。右手の甲の切り傷。その女性は手の中に子供を抱いていた。
生まれたばかりのアーリだろう。
「メルラか……」
「ええ、運命とは数奇な物。彼女が貴方の妹だとわかった時は、少し戦慄を覚えました。そして、ここに写っている赤子が——」
「アーリ、だな。そしてあの子をお前が狂った実験の材料にしたと?」
バレントは静かにショットガンを突きつけた。バレントの中で静かに沸き立っていた怒りに、少しずつ火薬が降り注がれていく。
「お前の独断で一人の子供の人生を、その子が暮らしていく世界を捻じ曲げたんだな?」
「……ええ、本当にどうしようもない親でした。私はこの世界を良い方向へ変えたかった。でも……できなかった。だからあの子に全てを委ねたんです。怪物達に抵抗しうる技術を、創造も破壊も全てをできる力を。もしかしたらあの子が、ルークズ・オーソリティーの作った常識を、世界を……軌道修正してくれるかもしれないという
バレントは事のあらましを知り、言葉を続けることができなかった。
永遠に答えのでない謎解きをしているかのように。無限にピースのあるパズルに取り組むように。バレントの中で思考の渦がぐるぐると巻いた。それは浮かんできた答えを引きずり込んでは海中に沈めた。
「さぁ、バレントさん」エレンボスは自分の頭に、バレントのショットガンの銃口をぐいと突きつけた。「……殺してください。私の役目はここで終わりです」
バレントは引き金に指を置く。
この世界を変えた張本人。バレントの両親を殺した原因を作り上げた本人が目の前にいる。
生殺与奪が自分の指一本に掛かっている。
憎しみや怒り、その他全ての負の感情を閉じ込めていた蓋が、カタカタと、揺れ始めた。幼少の時の記憶がその蓋を内側から蹴りつけ、出せよ、と言わんばかりに暴れ始める。バレントの銃を持つ手がグラグラと揺れる。
視界が徐々に狭まってくる。
かなり長い間そうしていた。
そして、深く息を吸い込む。バレントは決断をした。
「死にたいなら、自分でやれ。最後くらいは自分の意思で決めろ。それが俺の下せる最大の罰だ」
バレントは水槽へ駆け寄ると、ショットガンのストックでガラスを叩きわった。黄緑色の液体が吹き出し、床いっぱいにそれが広がっていく。
「帰るぞ、アーリ」
アーリを担ぎあげると、エレンボスを
廊下に一歩足を踏み出した時、背後で破裂音がした。
その音に、バレントが振り返ることはなかった。
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